ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町をゆく(3) 台風23号の高潮被害(1)

2019-04-30 07:46:46 | 別府町をゆく

 

 台風23号の高潮被害(1)

     別府町南部の海岸ゼロ地帯

 台風23号(昭和40年)から続いた高潮・豪雨は東北播各地に悲惨な爪跡を残しました。

 台風23号が姫路市西部に上陸したのは9月10日午前10時55分。

 東北播は朝から暴風雨県内に巻き込まれ、(瞬間最大風速58.7㍍)加古川市に吹き荒れました。

 あまりにも強い雨で風速計が壊れ、アンテナや屋根ガワラの全戸に及んだが、高潮に飲まれた海岸線のゼロメートル地帯の被害はひどい状態になりました。

 別府町の海水浴場の休憩所も防潮堤にぶっつけられ、「逃げるのがやっと」というほど。(no4624)

 *写真:高潮で瞬時に浸水した別府町南部海岸地帯

 *写真:呉田利明氏提供

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別府町をゆく(2) 昭和42年:最後の潮干狩(2)

2019-04-29 06:36:19 | 別府町をゆく

    

     なつかしい別府町の風景

        最後の潮干狩(2)

 たまらなく懐かしい風景です。

 小・中学校の頃、別府の浜へは、よく潮干狩りに出かけました。

 浜には強烈な海の匂いがありました。

 別府の町から浜が、ある時点でプッツリと消えてしまいました。

 その間の事情を『加古川市史(第三巻)』で確かめてみます。

  ・1967(昭和42)4月1日 別府浜開き、

       最後の潮干狩り(~6月12日まで)

          4月4日   臨海部の埋め立て始まる

   ・1970(昭和45)1月   臨海部の埋立て完成

            3月28日  金沢町誕生 

           5月1日   東播磨港別府港区開港     

 とあります。

 別府の潮干狩りは、昭和42年6月12日で終わりました。

 以後、風景は、鉄とコンクリートにかわりました。(no4623)

  *『加古川市史(第三巻)』・『明治・大正・昭和初期の加古川』(加古川総合文化センター)参照

  *写真提供:呉田利明氏(昭和42年撮影) 

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別府町をゆく(1) 最後の潮干狩(1)

2019-04-28 06:29:20 | 別府町をゆく

 

   

         

          なつかしい別府町の風景

           最後の潮干狩(1)

 連載していました「野口をゆく」は、少し休憩します。

 というのは、最近、呉田利明(ごでんとしあき)さんから別府町の写真を紹介していただきました。

 先に、「なつかし別府町の風景」として紹介しましょう。

 近年、加古川市南部、特に別府町は大きく変貌しました。

 が、さいわい、別府町にお住いの呉田利明さんは、その変貌ぶりを写真に記録されています。

 貴重な記録です。その一部を呉田さんの許可を得て紹介します。

 説明は、私の方でわかる範囲で取材しますが、間違いや、さらに付け加えることがあると思います。ご指摘ください。

 *今日は、写真だけです。年配の方にとって、説明が不要なぐらい懐かしい風景(昭和42年の潮干狩)です。

 次回も潮干狩の紹介です。説明は次回とします。(no4622)

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野口をゆく(15) 教信物語(15)、教信寺法泉院の盛り土は教信所人の旧墓所か?

2019-04-27 07:43:51 | 野口をゆく

 右の絵(写真上)をご覧ください。

 盛り土の上に五輪塔が置かれています。

 この絵は、大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山、大念仏寺が所蔵する絵伝軸の一部です。

    教信寺法泉院の盛り土は教信所人の墓所か?

 教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟・湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行いました。

 これが、野口大念仏の始まりだといわれています。

 この絵は、その湛阿(たんあ)が、野口念仏を開いた翌年、融通念仏宗の祖師の一人の法明が念仏聖らと教信上人の墓参りをした場面を描いています。

 ということは、絵に描かれた五輪塔の置かれている盛り土は、教信上人の墓ということです。

 教信寺の法泉院の中庭にある、こんもりとした盛り土(写真下)がそれだと伝えられています。

 教信上人は、ここに葬られたのでしょうか。

 法泉院の中庭の盛り土は、長い年月を経て、現在形は少し崩れているもののその雰囲気を伝えています。

 この盛り土には説明がないため、「教信の墓所かもしれない」ということに気づかれる方は多くないと思います。お参りの際はぜひお訪ねください。

 盛り土の上に描かれている五輪塔は、現在の場所に置かれている五輪塔です。

      現在の教信上人供養塔

 現在の教信上人の五輪塔(供養塔)について、加古川市観光協会のHP「かこがわ探求記(ぶらり野口編)」で岩坂純一郎氏が、次のように書かれていますのでお借りします。

 「・・・お寺の山門を入り左手、鐘楼の奥に大きな五輪塔があります。教信上人の廟所と伝えられていますが、この五輪塔は花崗岩製で高さは2㍍を超えており、優美な姿を保つとともに兵庫県指定文化財であり歴史的にも価値が高いものです。

 田岡香逸氏の研究によると、南北朝時代の築造であろうとされています。

 ちょうどこの時代に湛阿が野口念仏を創始しており、五輪塔も湛阿が発願して賛同者を募り建立にあたったのではないかと私は推測しています。

 湛阿は、師の一遍上人と同様に教信上人を篤く尊崇していたので、念仏信仰の布教と同時に教信上人の菩提供養を行ったのでしょう・・・」(no4621)

 *写真上:良人・法明両上人絵伝軸(大念仏寺所蔵)より

  写真下:教信寺法泉院に残る教信上人墓所

 

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野口をゆく(14) 教信物語(14)、教信頭部像

2019-04-26 06:58:52 | 野口をゆく

 

 三木合戦で野口城は、秀吉に攻められ炎上しました。

 三木城に味方し、野口城とともに戦った教信寺も焼かれてしまいました。

 ある小説では、その時、二人の僧は教信上人のお像を運び出しことに成功しました。

 教信の像はもともと立像であったが、持ち出しに成功しました。

 が、傷みが激しく、今のような、お首だけの像(写真)になったとしています。

      教信頭部像

 「・・・胴から離したままのお首は、下の方がささくれて、あま、あまりも痛々しい。

 その下の方を削り落して平らにせば、安らかに座ろうし、あんたの気持もおさまろう・・・」

 教信寺炎上のさなかに、胴から離された教信沙弥の首像は、折れた頸椎の部分が、柱のように突き出ていた。

 それを切断しようとして春成(僧)の心は揺れ動いた。

 「開祖の法躰(ほうたい)に手を懸けることがあって許されるでしょうか」

 ・・・

     「お首だけの像」としてつくられる

 教信のお首だけの像は、長い間そう信じられてきましたが、最近の調査の結果、もともとお首だけの像として造られたことが分かりました。

 説明を『仏と神の美術(中世いなみ野文化財)』からお借りします。

 ・・・この像が、他の像の頭部を転用したものではなく、はじめから頭部の実の像として制作されたものであることがほぼ確かになった。

 平知良(頸部の底にあった墨書銘)は、地頭層など、この地域の中世の富裕者であったかも知れない。

 また内部の修理銘によると、康正二年(1456)に快盛が願主となって修理された教信上人之御頭とされている。(no4620)

 *像:教信頭部像

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野口をゆく(13) 教信物語(13)、教信は、鎌倉の浄土仏教に影響 

2019-04-25 10:30:12 | 野口をゆく

             沙弥教信

 前回、覚如上人の『改邪秒』(1377)によれば、親鸞聖人は、つねに「われはこれ賀古(かこき)の教信沙弥の定(じょう)なり。つまり、「私は賀古の教信沙弥と同類の者である」と語っておられたという一節を紹介しました。

  「沙弥」とは、普通には正規の憎となる手続きを経ていない出家者、あるいは、姿は僧であっても妻子を養い生業に従事している者のことを指していう言葉です。

 播磨(はりま)国賀古の駅(うまや)(現在の兵庫県加古川市)のあたりに妻子とともに住み、人に雇われ労働することで日々の糧(かて)を得ていた教信沙弥の姿は、まさしくしゃみでした。

     教信は、鎌倉の浄土仏教に影響  

 教信の影響のあった僧は親鸞ばかりではありません。

 沙弥をなのる空也上人(903~972)も、その一人です。

 空也も、正規の出家者ではありませんでした。

 青年時代より、教信のように諸国を遍歴し、道をつくり、橋をかけるそして、井戸を掘る等人々生活を助け、民衆とともに弥陀の念仏をとなえ、市聖(いちひじり)念仏聖人も呼ばれました。

 空也上人は、壮年時代に至って比叡山に登り、はじめて正規の得度をうけました。

 しかし、生涯、沙弥名空也を用い続けたといいます。

 そして、永観(えいかん・ようかん:1033~1111)は、熱烈な念仏者であり、やがてやって来る法然上人の時代の先駆とも言うべき役割をはたした、と考えられている高僧です。

 親鸞聖人が教信沙弥のことをはじめて知られたのも、おそらくは、永観律師の書いた『往生捨因』によってではなかろうかと言われています。(no4619)

  *写真:空也像

 

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野口をゆく(12) 教信物語(12)、我(親鸞)は、加古教信沙弥の定なり

2019-04-24 08:30:38 | 野口をゆく

     沙弥・教信

 復習です。

 教信は、興福寺に入ったが、寺を出て諸国を放浪し、播磨国賀古郡の賀古駅(かこのうまや)の北、現在の加古川市野口町野口に草庵を結び、阿弥陀仏の称名を常に口に唱えました。

 彼は、旅人の荷物を運ぶ仕事で生計を立て、妻を娶り子供も一人生まれる。村人と共に、道作りや川堤の修理などにも従ったといいます。
 いつも西方浄土を念じて念仏を唱えているので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼びました。

 彼は僧にあらず俗でもない。後の人は彼を沙弥教信と述べています。

 沙弥教信は、無量寿経や阿弥陀経により、阿弥陀如来への信仰、すなわちすなわち「南無阿弥陀仏」の六字名号を常に口誦すると云うのは彼が初めてでした。

     我(親鸞)は、加古教信沙弥の定なり

 沙弥教信、空也よりもさらに100年ほど前平安時代の初期の時期に、称名念仏をすでに行い、生涯常に念仏し通し、後世の念仏の始祖と呼ばれ親鸞・一遍・永観に影響を与えたことはよくしられています。

 親鸞聖人は「我は是加古教信沙弥の定なり」と常に言っておられたと『改邪抄』で聖人の曾孫(ひまご)にあたる覚如上人は記しています。
 親鸞聖人の有名な「非僧非俗」という言葉は、結婚され妻子や地に働く民衆とともにお念仏の大道を歩まれた教信沙弥の生き方に共感しての言葉だといいます。

 悲田院の病人や囚獄の囚人たちの救済にあたるなど幅広い活動を行うなど浄土教の民間への布教に努めた「浄土宗八祖」の1人に数えられている永観(1033~1111年)も『往生拾因』に沙弥教信のことを記しています。(no4618)

 *写真:親鸞

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野口を行く(11) 教信物語(11)、野口念仏のはじまり

2019-04-23 07:28:12 | 野口をゆく

     野口念仏のはじまり

 一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。

 この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。

 ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。

 彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。

 一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよ おどらばおどれ 春駒の のり(法)の道をば 知る人ぞ知る」と詠んでいます。

 以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。

 何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。

 踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。

 一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、元軍が攻めてくるという社会不安も重なりました。

 人々は何かにたよろうとしました。それは神様であり仏様でした。

 そんな不安な時代の中で、人々は一遍をとおして阿弥陀様の声を聞いたのです。

 人々のエネルギィーが爆発しました。

             時宗の衰え

 鎌倉時代・室町時代、一遍の教えは踊りとともに、民衆の中に爆発的に広がりました。

 野口念仏 は、一遍の亡 き後も時宗の踊念仏はますます民衆に広がっていました。

 教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった 34 年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7 日間の念仏踊りを行いました。

 これが、野口大念仏の始まりだといわれています。

 しかし、現在、一遍の「時宗」は衰退して、ほとんどその活動を見ることができません。

 それは、江戸時代の檀家制度によるものです。

 檀家制度は、檀家を持たず信者をつくっていた時宗にとっては大打撃でした。

 それでも、野口念仏は地域のお祭りとして賑わいました。

 が、最近の「ねんぶったん」は、昔と比べるとずいぶん寂しくなったそうです。(no4617)

 *写真:一遍上人(神奈川県立歴史博物館蔵)

 

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野口を行く(10) 教信物語(10)、一遍聖絵と教信寺

2019-04-22 09:21:55 | 野口をゆく


 「一遍聖絵」に教信寺が登場します。内容は、今まで述べたことと若干重なりますが、見ておきましょう。 

     一遍聖絵と教信寺

 一遍は、弘安九年(1286)に、印南野の教信寺に参詣したと『聖絵』巻九に記されています。

 しかし、この年の念仏会を12月24日から大晦日まで四天王寺で行なっており、そののち播磨方面に出発していますので、教信寺に参詣したのは弘安十年(1287)の正月であろうと思われます。

 さて、前回のブログで書いたように、教信寺は一遍にとって特別の地であったのです。

 正応二年(1289)、一遍の病気が重くなった時、兵庫の真光寺から迎えが来るまでは「いなみ野の辺にて臨終」しようと思っていたからです。

 なぜ一遍は教信寺で臨終を迎えようとしたのでしょう。

 一切を捨て遊行の生活に生きた一遍にとっては、終焉の地などは何の意味ももたなかったはずなのです。

 しかし、教信寺で臨終を迎えたいというのです。

  教信は天仁二年(1109)に没した沙弥です。

 『日本往生極楽記』『後拾遺往生伝』によりますと、播州加古に草庵を結び、近隣の人々に雇われて暮らし、念仏三昧に生き、しかも妻子をもち、死後は屍(しかばね)を群がる犬に与えたといわれています。

 親鸞も、教信の念仏者としての生き方に共鳴していたといわれており、教信は一切の形式、伝統に捉われない念仏者としての生き方をしていました。

 まさに、自由奔放な生活者としての念仏者教信の存在は、空也とともに一遍にとっては魅力ある存在であったのではないでしょうか。(no4616)

 *『一遍聖人と聖絵(高野修著)』岩田書院参照

 *写真:一遍聖絵に描かれた教信寺

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野口をゆく(9) 教信物語(9)、一遍の死と教信寺

2019-04-21 08:06:25 | 野口をゆく

     一遍の死と教信寺

 一遍の死について書いてみます。

 一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。

 ウィキぺディアは、一遍の死について次のように書いています。

 「・・・正応2 年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50 歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる・・・」

     死地を求めて

 一遍は、正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃、讃岐の国の善通寺へ向かいました。

 それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。

 そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。

 加古の里の教信寺で眠りたい・・・

 夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。

 そして、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で死にたいと思うのでした。

 幸にして、7月18日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。

 明石から、印南野の教信寺まで、すぐ目と鼻の先です。

 一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。

 「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた、教信のそばで眠りたい」と・・・この時、早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。

     真光寺へ

 明石についた一遍の一行を待っていたのは、兵庫からの信者の出迎えでした。

 ようやく臨終の地に臨もうとした一遍は、もはや生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。

 一遍は、兵庫の真光寺へ向かいました。真光寺で静かに51 歳の生涯を終えました。

 この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。(no4615)

 *写真:真光寺(神戸市)の一遍上人の五輪塔

 

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野口をゆく(8) 教信物語(8)、教信の死(『今昔物語集』より)

2019-04-20 06:39:10 | 野口をゆく

      教信『今昔物語集』に登場

 『今昔物語(こじゃくもがたり)は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。

 集められた説話の数は千を越え、それもインド・中国地域からも集められています。インド・中国・日本は、平安時代では全世界を意味するものでした。つまり『今昔物語集』は、世界中から集められた説話集ということです。

 いま読んでいる本は『日本の古典を読む⑫・今昔物語集』(小学館)です。

 この本は、専門書ではありません。一般の読者を対象に『今昔物語』から代表的な話を集め編集されています。

 それに、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死が登場します。

 教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。

 それでは、『今昔物語集』に登場する教信の紹介です。

     教信の死(『今昔物語集』より)

 大阪の箕面市に、勝尾寺(かつおうじ)があります。

 勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

 ある夜、誰かが訪ねて来ました。しかし、勝如は無言の行の最中でした。

 返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。

 すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申すものです。

 「私も一心に念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へお参りすることができました。

 あなた様も、来年の今月今夜(8 月15 日)に、お迎えがございます」そう言い終わると、訪問者の声はすっと消えたのです。

 ビックリした勝如は、次の朝さっそく弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりま

した。

 すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

 横にいる老婆に聞くと、「この死人は、私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

 この話を聞いた勝如は、以後念仏ばかりでなく教信のように実践にも一層はげむようになりました。

 そして、教信が告げた日(貞観9年8月15 日)に勝如は亡くなりました。

 「勝如様も教信様のもとに行かれたのだろう・・・」と人々は、囁きあったということです。(no4614)

 *写真:教信上人の肖像(教信寺蔵・鎌倉時代の作)

 最近の調査から初めから頭部だけの像として制作されていることが確認されました。

 「教信の死に際して体は獣に施し、穏やかなお顔だけが残された」という伝承をから制作された像なのでしょう。

 

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野口をゆく(7) 教信物語(7)、民話「上人魚」

2019-04-19 06:46:15 | 野口をゆく

    (民話)、 上人魚(しょうにんうお)

 教信には、次のようなお話が伝えられています。

 

 平安の都が定まってまだそれほど年月がたっていないころ、教信沙弥は播州賀古の駅に根拠を置いて、新しい仏教活動を展開しておりました。

 それは形式を重んじ、戒律を守る伝統的な従来のあり方ではなく、社会生活の中に釈尊の精神を生かそうという実践仏教の方法でありました。

 したがって、まだ日本の仏僧がだれもしていない結婚生活を、何のこだわりもなく千百何十年も以前に公然とふみきっていたのです。

 たまたまある日、土地の信徒が川魚を教信に供養してくれました。

 教信は感謝してこれをよばれてしまいました。

 すると今までも破戒僧としてにがにがしく思っておりました別の人が、これを聞いていよいよがまんできなくなり「結婚したり生魚を食べたりすることは、仏道修業をする者のなすべからざる行為で、けしからんことだ」 とさげすみ、つめよりました。

 少なくともそれはとの経典にも戒神にも禁じられていることですから文字とおり解釈する限り、当然責められる行為といわねはなりません。

 その時、教信はさげすみなじる里入をともない、駅が池のたもとに行き、仏教の本旨と自己の領解を説明し、「仏道修行者は、形式的に魚を食う食わぬということや、結婚をするとか、しないということよりも、真剣に入世をどう生きるかということを自覚することの方がたいせつなのではないか」 といって、称名念仏しながら口をあけますと、元気なふなが池におどり出て泳いでいきました。

 その後、里人がときとき釣り上けるふなに、片目だけつぶれているものがありました。

 きっと教信の歯があたった魚だろうと「片目のふな」とか「上人魚」と名つけ、釣れても放生する風習になりました。(no4613)

 *きょうの話は、『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)から、そのままお借りしました。絵も適当なものがなかったので、この話の舞台となった「うまやが池」の写真です。

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野口をゆく(6) 教信物語(6)、教信・浄土教の先駆者

2019-04-18 08:36:16 | 野口をゆく

   

    教信・浄土教の先駆者

 平安時代の中ごろ、政治がみだれ、その上に転変異変も加わりました。人々は仏様に救いを求めました。

 「浄土教」の教えが人々の心をとらえました。

 浄土教は、阿弥陀仏にすがって祈れば、極楽浄土に生まれかわることができるという教えでした。

 生活に疲れた人々は、必死で阿弥陀さんにすがりました。

 この浄土教の教えは、鎌倉時代にかけて花開くのですが、教信はその先駆者でした。

 教信は、非僧非俗の沙弥(しゃみ)生活に入ったことは、時代思潮の影響大なりとはいえ、彼の純枠さがそうさせたのでしょう。

 彼の人間性を否定しない、平等思想の偉大さを認めざるを得ません。

       阿弥陀丸・荷送り上人

 常に彼は庵の西窓から想いを西方(西方浄土)によせていました。

 そして、疲れた農民のために農耕も手伝いました。

 旅人を援けて荷物も運んだり、わらじも貸与しました。

 そして、祈りの生活を実践しました。

 また、彼は伝道を怠らず、日常生活の中で阿弥陀仏の教えを、そして浄土の教えを伝えたのです。

 人々は、彼のことを「阿弥陀丸」とも「荷送り上人」とも呼ぶようになりました。

 印南野は、ことに賀古の駅あたりは、洪積台地にあり、大きな川がありません。

 そのため水利の之しい土地柄でした。

 彼の思いが、低地を利用して築堤の土木工事を起しました。恐らく行基の混陽池(こやいけ)や空海の満濃池(まんのういけ)などを想起したのでしょう。(no4613)

 *絵:教信上人一生絵(下巻の一部・教信寺蔵)、(粗末な庵に住み、野良仕事や荷送りなどで暮らした絵伝)

 

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野口をゆく(5) 教信物語(5)、 賀古の駅(かこのうまや)

2019-04-17 07:22:07 | 野口をゆく

       賀古の駅(かこのうまや)

 7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は、最も重要な道でした。

 街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたらせました。

 野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれました。

 山陽道最大ということは、奈良と大宰府の間では日本で最大の駅が野口にあったということです。

 他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていましたが、「賀古の駅」は、40頭を数えました。

 2009年、2010年(平成22)の県立考古博物館の発掘により、約80m四方の築地塀で囲まれて、古代山陽道から駅家表門への進入路、表門の柱の礎石が確認されています。

 隣の大きな池は、「駅池(うまやがいけ)」です。

 賀古の駅のあった場所に現在、大歳神社があり、そのあたりから多数の古瓦が多く出土しています。

 ここは、賑わいのあった土地でした。

 

 奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、多くの場合、図のように野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとっています。

 このあたりの町の名前は、野口町古大内(ふろうち)ですが、これは「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものであるといいます。

 (蛇足)・・・駅に「馬へん」が使われているのは、駅はもともと電車ではなく馬がその役割をはたしていたためである。(あまりにも蛇足!)(no4612)

 *地図:奈良時代の想定図(『加古川郷土歴史研究』参照)

 

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野口をゆく(4) 教信物語(4)、実践の地を求めて

2019-04-16 08:47:29 | 野口をゆく

 

        実践の地を求めて

 興福寺を後にした教信はその後どこを巡っての旅であったのかは、はっきりとしていません。

 信州長野の善光寺ともいわれています。

 教信寺の前住職の長谷川慶明氏は、その後、一時京都に活躍の場所を求めてのではないと想像されています。

 しかし、京都も、奈良と同じく古い体質を残していました。

 

 承和三年(八三六)の秋でした。

 教信は、山陽道を西へ向って行脚していました。

 さすがに、山陽道は当時の一番の幹線道路だけあって、整備され、多くの人々の行きかいがありました。

 須磨、明石を過ぎ、播磨路にはいりました。

 山は遠くで、平野がひろがっています。

 その広々した印南野の中心に賀古の駅(かこのうまや)が置かれていました。

 賀古の駅については、次回訪ねてみましょう。

      野口は、布教の最適の地

 駅の東端(現在の野口神社の地)には白鳳期(大化の改新~奈良時代のはじめ=645~710)に土地の豪族が建立した寺もありました。

 綺麗な三重の塔がそびえていました。

 西山の彼方に沈む夕日もことの外美しく、夕暮れ時は、まさに西方浄土のような光景が広がるのでした。

 彼の活動(布教)の対象は大衆です。

 より多く大衆に接し得る所を彼は求めたのです。

 この「賀古の駅」の地(野口)は奈良、京都のような伝統権力の圧力も弱まり、人心も素朴でした。

 伝道の場所として、相応しい条件を備えているように思えました。

 彼は、駅の近くに小さな庵を構え活動を始めることにしました。(no4611)

 *『松のみどり』(長谷川慶明著)参照

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