風林火山出直し学習会からの方、初めておいでいただいた方、改めましてこんにちは。当塾を主催いたしております、遊人庵庵主でございます。
いちおう、風林火山学習会を大河ドラマ全般に広げて大河塾と改称しましたが、私が塾頭とか講師だなんて偉そうな態度を取る気は毛頭ありません。皆さん、友として学びましょう(ってワタシは吉田松陰か)。
『篤姫』出直し学習会開講にあたりまして、約1年ぶりに手元の幕末関連の資料をチェックしてみましたら、「いや~、幕末ってこんなに複雑だったんだね~」と早速腰が引けました。昨年1年間、素朴でローカルな甲信越地方の戦国時代にドップリ浸っていたので、なにかタイムスリップしたような…と、こんな不甲斐ないことで大丈夫か。
とかく幕末史というのは、ヒーロー志士メインでみる分にはドラマチックで楽しいんですが、政治史となるこんがらがって、萎えてしまいがち。そのあたりの克服は、私自身の長年の課題でもあります(汗)。
なのでこれを機会に、明治維新にいたるまでの日本を楽しく解体していき、ドラマを楽しむ一助に出来ればと思います。よろしくお願いします。
それではさっそく…
幕末・薩摩の事情(1)
幕末の薩摩といえば、名君島津斉彬公や西郷さんに率いられ、日本の夜明けを牽引した雄藩というイメージが第一だと思います。
ですが、なんで幕薩摩に牽引されることになったのか?という視点で幕末史を掘り下げてみると、本当はけっこう怖い裏面史が見えてきたりします。維新の志士が颯爽と「日本をせんたくいたし候」どころじゃなく、真っ黒い陰謀がつくった明治維新。なんて、いきなり気のめいる話から初めてもなんですから、まずはドラマの開始にあわせ、幕末に至るまでの薩摩藩の立ち位置を、ざっと眺めてみましょう。
☆徳川体勢の仮想敵
日本の事実上の最西端、薩摩・島津家は、徳川時代の大名の中では最古の、鎌倉時代の守護大名いらいの家柄です。由緒正しさで言ったら徳川家なんかメではありません。
関が原の戦いで西軍とともに敗れた島津義弘は、すばやく薩摩に戻って立て篭もり、徳川家康に臨戦態勢を敷きました。けっきょく徳川家に臣従して幕藩体制に組み入れられたのですけど、関が原より268年間、薩摩はずっと徳川体制の仮想敵国でした。
徳川家康が遺言で「わが屍を西に向けよ」と言ったのは暗に薩摩をさしているといわれますし、江戸に至るまでの道筋に熊本城、名古屋城という要塞を築き、さらに大井川に架橋しないといった防衛線を引いたのも、薩摩対策だといわれています。
こんなに強く警戒された薩摩は、何がそんなに恐れられたのかというと、やはり何よりも兵馬が強かったからですね、伝統的に。そして徳川家よりずっと古い由緒、強固な領国支配。中央から遠いので目が届かず、独立国としてなんとなく怪しい動きをしていそうでした。
徳川幕府から見れば、いつ島津がその気になって反徳川の兵を挙げるか…というのが常に脅威だったのです。少なくとも、江戸時代の前半くらいまでは。
☆ 鎖国内鎖国…薩摩飛脚
薩摩は国境警備も厳重で、よその国の人間はめったに入国できないことで有名でした。
ほとんど「鎖国内鎖国」の状態だったので、薩摩のなかで何が行われているのか、よその国の人にはほとんどわかりません。
幕府は薩摩の動向がいつも不安だったので、隠密などをしきりに潜入させていました。が、これがなかなか生きて帰ってこられないわけです。公儀隠密は飛脚に変装していくことが多かったのですが、薩摩に行くとほとんど殺されて消息を絶ってしまうため、「薩摩飛脚」という都市伝説が恐怖とともに語られたりしました。
☆実は赤字大国
がしかし、幕府からこんなに恐れられた薩摩の台所事情はというと、これが借金まみれの火の車でした。
薩摩の石高は、七十万石。全国300の大名家の中でもトップ5に入る富裕国のはず…なんですが、これは表向きで、実質石高は50万もなかったのではないかと言われます。
というのは、まず総人口に対して武士の数が異常に多かった。これは、秀吉の九州攻めや関が原の敗戦で領地を失ったあとも、九州全土を支配していた全盛期の大家臣団をリストラせず、そのまま江戸時代に突入したからなんですね。この膨大な武士人口を養うのはさすがに無理なので、中の下以下クラスの武士には、田畑を耕して自給自足してもらってました(これは他の藩には例の無いこと)。
それにしても武士=公務員の数は絶対的に多い。さらに、藩主宗家にくわえて四つもの島津分家(重富、垂水、加治木、今和泉)がある。さらに、江戸から遠いので参勤交代の経費も大変。…
などなどと、とにかく公費の掛かりがべらぼうで、それを負わされる百姓の負担は過酷でした。あまりの過酷さに百姓の夜逃げが絶えず、農地は荒れ、総生産はさらに減少していく…と、まあ典型的な構造的財政赤字に陥っていたわけです。
さらに江戸年間には、幕府の普請を何度もやらさせれ、巨額の出費を強いられました。大名家の財力を削ぐため、公共工事の丸投げは幕府のよく使う手でしたが、経済的に瀕死の薩摩にとっては、この負担はシャレになりません。
とくに「宝暦の木曽川治水」普請の悲劇は有名。膨大な出費とともに関係者の事故死、過労死が相次いぎ、ついに責任者の総奉行が自殺するという悲惨を極めたものでした。この惨劇のせいで、藩内に猛然と反幕の風が巻き起こったというのも無理ない話です。
☆バブル殿様の華麗なる生活
その借金大国薩摩にさらなる痛手を負わせたのが、バブル殿様・島津重豪(しまづ・しげひで 1745 -1833)です。
とにかく進取の気性に富んだ殿様、といったら聞こえはいいですが無類の新しもの好きで、長崎で蘭学にハマり、金に糸目を付けずに洋書や舶来品を収集しまくりました。江戸の高輪に西洋ふうの御殿を建て、洋式生活を営み、蘭学講座を開講し、さらに本草学に凝って広大な薬草園を作ったりしました。
国もとの薩摩でも、戦国時代いらいの古くさい藩風を一掃しようと大改革に取り組みました。鎖国内鎖国を解く英断を下し、医学や工学や天文学の研究施設をつくったり、さらに新風を吹き込むため、それまでは居なかった遊女や芸者を城下に入れて色町を営んだりもしました。この人、自分の娘を十一代将軍・家斉の御台所におさめたので、その後光もあって誰も文句をいえず、やりたい放題です。
それもこれも、薩摩の構造改革に燃えてのこと…なんですが、なにせ経済観念というものがゼロ。張り切れば張り切るほど湯水のように金は出て行く。そんなこんなでドツボにはまり、この御仁が89歳の長寿で死ぬまで藩を仕切ったつけで、国もとはビンボーもどん底、逆さにして振ってもなにも出ない状態にまで落ちてしまいます。
が、この島津重豪が、ほとんど手当たり次第に持ち込んだ最先端科学、政治改革熱、開国主義、そういうものが曾孫の島津斉彬(=高橋英樹)に受け継がれて、長期的には薩摩が明治維新を牽引する原動力になった…とは、いえないことはないかもしれません。
が、とりあえず斉彬にとっては、重豪ゆずりの蘭学狂い=蘭癖(らんぺき)が、島津家のお家騒動の火種のひとつになるほうが先でした。
☆調所広郷の登場
バブル殿様・重豪は、息子の斉宣(なりのぶ)に家督を譲ると、悠々自適の隠居の身になり、散財にも拍車がかかります。新藩主の斉宣は、あまりの財政赤字のすごさに呆然となって、超緊縮財政に転換。とうぜん隠居のお小遣いも大幅カットされますが、これが気に入らなかったバブル殿様は、せがれを無理に隠居させ、財政改革担当たちを処刑しちゃいます。ひどい話です(近思録崩れ事件 1809年)。
そして新たに藩主となったのが、バブル殿様の孫にあたる島津斉興(しまづ・なりおき=長門裕之)。このとき財政改革担当相として声がかかったのが、お茶坊主出身の調所広郷(ずしょ・ひろさと=平幹二郎)だったわけです。
調所が行政改革に着手したとき、薩摩藩の借財は500万両あったといいます。これって現在の金額に直すと…ざっと五千億円!?
…ということで、その後しばらく、薩摩にはものすごい「痛みをともなう改革」の嵐が吹き荒れることになります。明治維新までまだ30~40年もある頃のことでした。
ここからが、ドラマのお話になります。
つづく☆
いちおう、風林火山学習会を大河ドラマ全般に広げて大河塾と改称しましたが、私が塾頭とか講師だなんて偉そうな態度を取る気は毛頭ありません。皆さん、友として学びましょう(ってワタシは吉田松陰か)。
『篤姫』出直し学習会開講にあたりまして、約1年ぶりに手元の幕末関連の資料をチェックしてみましたら、「いや~、幕末ってこんなに複雑だったんだね~」と早速腰が引けました。昨年1年間、素朴でローカルな甲信越地方の戦国時代にドップリ浸っていたので、なにかタイムスリップしたような…と、こんな不甲斐ないことで大丈夫か。
とかく幕末史というのは、ヒーロー志士メインでみる分にはドラマチックで楽しいんですが、政治史となるこんがらがって、萎えてしまいがち。そのあたりの克服は、私自身の長年の課題でもあります(汗)。
なのでこれを機会に、明治維新にいたるまでの日本を楽しく解体していき、ドラマを楽しむ一助に出来ればと思います。よろしくお願いします。
それではさっそく…
幕末・薩摩の事情(1)
幕末の薩摩といえば、名君島津斉彬公や西郷さんに率いられ、日本の夜明けを牽引した雄藩というイメージが第一だと思います。
ですが、なんで幕薩摩に牽引されることになったのか?という視点で幕末史を掘り下げてみると、本当はけっこう怖い裏面史が見えてきたりします。維新の志士が颯爽と「日本をせんたくいたし候」どころじゃなく、真っ黒い陰謀がつくった明治維新。なんて、いきなり気のめいる話から初めてもなんですから、まずはドラマの開始にあわせ、幕末に至るまでの薩摩藩の立ち位置を、ざっと眺めてみましょう。
☆徳川体勢の仮想敵
日本の事実上の最西端、薩摩・島津家は、徳川時代の大名の中では最古の、鎌倉時代の守護大名いらいの家柄です。由緒正しさで言ったら徳川家なんかメではありません。
関が原の戦いで西軍とともに敗れた島津義弘は、すばやく薩摩に戻って立て篭もり、徳川家康に臨戦態勢を敷きました。けっきょく徳川家に臣従して幕藩体制に組み入れられたのですけど、関が原より268年間、薩摩はずっと徳川体制の仮想敵国でした。
徳川家康が遺言で「わが屍を西に向けよ」と言ったのは暗に薩摩をさしているといわれますし、江戸に至るまでの道筋に熊本城、名古屋城という要塞を築き、さらに大井川に架橋しないといった防衛線を引いたのも、薩摩対策だといわれています。
こんなに強く警戒された薩摩は、何がそんなに恐れられたのかというと、やはり何よりも兵馬が強かったからですね、伝統的に。そして徳川家よりずっと古い由緒、強固な領国支配。中央から遠いので目が届かず、独立国としてなんとなく怪しい動きをしていそうでした。
徳川幕府から見れば、いつ島津がその気になって反徳川の兵を挙げるか…というのが常に脅威だったのです。少なくとも、江戸時代の前半くらいまでは。
☆ 鎖国内鎖国…薩摩飛脚
薩摩は国境警備も厳重で、よその国の人間はめったに入国できないことで有名でした。
ほとんど「鎖国内鎖国」の状態だったので、薩摩のなかで何が行われているのか、よその国の人にはほとんどわかりません。
幕府は薩摩の動向がいつも不安だったので、隠密などをしきりに潜入させていました。が、これがなかなか生きて帰ってこられないわけです。公儀隠密は飛脚に変装していくことが多かったのですが、薩摩に行くとほとんど殺されて消息を絶ってしまうため、「薩摩飛脚」という都市伝説が恐怖とともに語られたりしました。
☆実は赤字大国
がしかし、幕府からこんなに恐れられた薩摩の台所事情はというと、これが借金まみれの火の車でした。
薩摩の石高は、七十万石。全国300の大名家の中でもトップ5に入る富裕国のはず…なんですが、これは表向きで、実質石高は50万もなかったのではないかと言われます。
というのは、まず総人口に対して武士の数が異常に多かった。これは、秀吉の九州攻めや関が原の敗戦で領地を失ったあとも、九州全土を支配していた全盛期の大家臣団をリストラせず、そのまま江戸時代に突入したからなんですね。この膨大な武士人口を養うのはさすがに無理なので、中の下以下クラスの武士には、田畑を耕して自給自足してもらってました(これは他の藩には例の無いこと)。
それにしても武士=公務員の数は絶対的に多い。さらに、藩主宗家にくわえて四つもの島津分家(重富、垂水、加治木、今和泉)がある。さらに、江戸から遠いので参勤交代の経費も大変。…
などなどと、とにかく公費の掛かりがべらぼうで、それを負わされる百姓の負担は過酷でした。あまりの過酷さに百姓の夜逃げが絶えず、農地は荒れ、総生産はさらに減少していく…と、まあ典型的な構造的財政赤字に陥っていたわけです。
さらに江戸年間には、幕府の普請を何度もやらさせれ、巨額の出費を強いられました。大名家の財力を削ぐため、公共工事の丸投げは幕府のよく使う手でしたが、経済的に瀕死の薩摩にとっては、この負担はシャレになりません。
とくに「宝暦の木曽川治水」普請の悲劇は有名。膨大な出費とともに関係者の事故死、過労死が相次いぎ、ついに責任者の総奉行が自殺するという悲惨を極めたものでした。この惨劇のせいで、藩内に猛然と反幕の風が巻き起こったというのも無理ない話です。
☆バブル殿様の華麗なる生活
その借金大国薩摩にさらなる痛手を負わせたのが、バブル殿様・島津重豪(しまづ・しげひで 1745 -1833)です。
とにかく進取の気性に富んだ殿様、といったら聞こえはいいですが無類の新しもの好きで、長崎で蘭学にハマり、金に糸目を付けずに洋書や舶来品を収集しまくりました。江戸の高輪に西洋ふうの御殿を建て、洋式生活を営み、蘭学講座を開講し、さらに本草学に凝って広大な薬草園を作ったりしました。
国もとの薩摩でも、戦国時代いらいの古くさい藩風を一掃しようと大改革に取り組みました。鎖国内鎖国を解く英断を下し、医学や工学や天文学の研究施設をつくったり、さらに新風を吹き込むため、それまでは居なかった遊女や芸者を城下に入れて色町を営んだりもしました。この人、自分の娘を十一代将軍・家斉の御台所におさめたので、その後光もあって誰も文句をいえず、やりたい放題です。
それもこれも、薩摩の構造改革に燃えてのこと…なんですが、なにせ経済観念というものがゼロ。張り切れば張り切るほど湯水のように金は出て行く。そんなこんなでドツボにはまり、この御仁が89歳の長寿で死ぬまで藩を仕切ったつけで、国もとはビンボーもどん底、逆さにして振ってもなにも出ない状態にまで落ちてしまいます。
が、この島津重豪が、ほとんど手当たり次第に持ち込んだ最先端科学、政治改革熱、開国主義、そういうものが曾孫の島津斉彬(=高橋英樹)に受け継がれて、長期的には薩摩が明治維新を牽引する原動力になった…とは、いえないことはないかもしれません。
が、とりあえず斉彬にとっては、重豪ゆずりの蘭学狂い=蘭癖(らんぺき)が、島津家のお家騒動の火種のひとつになるほうが先でした。
☆調所広郷の登場
バブル殿様・重豪は、息子の斉宣(なりのぶ)に家督を譲ると、悠々自適の隠居の身になり、散財にも拍車がかかります。新藩主の斉宣は、あまりの財政赤字のすごさに呆然となって、超緊縮財政に転換。とうぜん隠居のお小遣いも大幅カットされますが、これが気に入らなかったバブル殿様は、せがれを無理に隠居させ、財政改革担当たちを処刑しちゃいます。ひどい話です(近思録崩れ事件 1809年)。
そして新たに藩主となったのが、バブル殿様の孫にあたる島津斉興(しまづ・なりおき=長門裕之)。このとき財政改革担当相として声がかかったのが、お茶坊主出身の調所広郷(ずしょ・ひろさと=平幹二郎)だったわけです。
調所が行政改革に着手したとき、薩摩藩の借財は500万両あったといいます。これって現在の金額に直すと…ざっと五千億円!?
…ということで、その後しばらく、薩摩にはものすごい「痛みをともなう改革」の嵐が吹き荒れることになります。明治維新までまだ30~40年もある頃のことでした。
ここからが、ドラマのお話になります。
つづく☆
しかし五千億円もの借金・・・どうやって返すのやら。「痛みを伴う改革」、「税率の引き上げ」など、なんだか我が国の財政事情のコトを指摘されているようでもあり、なかなか笑えませんネ。「出直し学習会」、続きをぜひとも期待しております!!
初めてお伺い致します。
私もまたなおみさんのところで一方的に存じ上げておりますikasama4です。
よく時代劇で
薩摩は公儀隠密が忍び込むのが至難の場所と言う藩で
有名ですね。
そういう隠密活動が一番に難しくしてるのはやはり薩摩の方言なのでしょう。
薩摩の方言と言えば第二次世界大戦で
日本軍が重要機密の情報を暗号に薩摩の方言を用いたそうですからね。
しかも、早口で(  ̄ノ∇ ̄)
恐るべし薩摩弁(; ̄∀ ̄)
まぁ徳川の仮想敵政策は徹底してましたからね。
関が原で西軍についた宇喜多一族が八丈島に流されますが
その宇喜多一族が関が原で西軍についた罪が赦されたのは
明治時代になってからの事らしいですからね。
呆れるくらいのシツコサです(; ̄∀ ̄)
だからこそ薩摩も徹底したのかもしれませんね。
目には目を
恨みには恨みをって感じで(笑)
さてさて、たくさんの借金を作った事で有名な重豪さん(笑)
たしかに内政は芳しい結果は得られなかったみたいですが
自分の娘を将軍家の正室にしたり、調所広郷を登用したり
学問所とかを作り、武士のみならず
百姓農民にも教育の機会を与えたりと
人を育て、人を使う才能は優れていたのかもしれませんね。
ただ、人物に関しては仰るようなバブル殿様であり
しかも大変な酒豪で、彼の相手をするのを誰もが嫌がったというのですから
彼と付き合うのは公私共に大変だったのでしょうね(苦笑)
まぁ彼の存在があったからこそ
斉彬という人物が生まれ
そして一が将軍家御台所となるキッカケを作ったのは
間違いないのかもしれません。
先祖の遺産は時として思わぬ縁を生み出すので
それを辿ると実に面白いです。
ではでは今後ともよろしくお願い致します。
ちょくちょくと寄らせて頂きます。
いやホント、この時代の薩摩の農民に生まれなくてよかったです(笑)。
次回あたり出てくると思いますが、奄美大島の砂糖黍農民の地獄だとか、だんだん調べていたら気持ちが暗くなるほどです。
今の日本からみるとシャレにならない…確かに(汗)。
>薩摩の歴代藩主は「仮想敵国」とされることをむしろ誇りとして、藩政の引き締めに当たっていたのなら、もしかしたら明治維新はもっと早くに来ていたのでは
うーん、これが実は面白いところでして。
ikasama4さんのご意見ともかぶるんですけど、バブル殿様がむちゃくちゃな散財をしたり、財政破綻スレスレまでいって、下級武士たちが貧困のどん底を味わったりと、そういう地獄をみたことが、ガラッと発想を転換して、薩摩がつきぬけて飛躍する原動力になったともいえるんですよね。で、その薩摩の飛躍がなかったら、明治維新は(ああいう形では)こなかったわけですから。
ほんと、歴史を俯瞰してみると意外なことが意外なふうに作用していて、ホントに面白いです。
いらっしゃいませ! 塾にご参加いただけて嬉しいです。その豊かな知識をあてにしております!よろしくおねがいします。
>第二次世界大戦で日本軍が重要機密の情報を暗号に薩摩の方言を用いた
そ、そうなんですか…(汗)。そのころまで海軍の薩摩閥って続いていたのかなあ。
そういう話じゃないですね(笑)。でもそれって、対日本人用の暗号ですか? 日本人でもまず分からないですよね。
西南戦争のときに、鹿児島に送り込むスパイが言葉で露見しないよう、警視総監川路利良は同郷の中原尚雄を送り込んで、けっきょくそれが露見したら薩摩飛脚よりむしろ大事になってしまい、西郷さんに刺客を差し向けた!というので殺意をよんで、西南戦争勃発の引き金になった…というのも、薩摩と隠密と特殊な言語のからみの皮肉というか、悲劇でありますね。
そういえば、バブル殿様は将軍の岳父だったんですよね。
このひいおじいさんを意識して、斉彬が篤姫の大奥入りの台本を書いたのは間違いないですね。やっぱり、あの無茶苦茶な放漫財政は、大きな実りを生んでいるんだ(笑)
>先祖の遺産は時として思わぬ縁を生み出すので、それを辿ると実に面白いです。
おっしゃるとおりです。何よりこの縁を発見するのが楽しくて、歴史を好きでいるのかもしれないと思います(笑)。