como siempre 遊人庵的日常

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「龍馬伝」出直し学習会VOL4

2010-03-14 11:50:31 | Cafe de 大河
安政の大獄から桜田門外の変直前まで(2)
各藩の事情・続きです。

薩摩

 嘉永6年にペリーがやってきたとき、薩摩藩主は英明で聞こえた島津斉彬。藩内分裂した粛清さわぎ(お由羅騒動)がやっと終息して、盟友阿部伊勢守の根回しでオヤジを隠居させ、40代の遅咲きで、2年前の嘉永四年に藩主になったばかりでした。
 阿部伊勢守が斉彬を薩摩藩主にしたかったのは、外圧に耐える強い幕府を作るため、まずは英明な将軍を、具体的には一橋慶喜を将軍継嗣にしようという、政治的同盟のためでした。阿部伊勢守と組んだ斉彬は、外様ですが中央政界に強い影響力を持つにいたります。そして自分の養女にした篤姫を将軍正室に送り込み…というのは、一昨年のドラマ見てた人にはいまさら説明不要ですね、はい。
 黒船騒動のとき、斉彬は真っ先に、大船建造の解禁を幕府に要請します。この人は時代の最先端をいく開国主義者で、海上防衛というよりも、積極的に貿易などをおこなって、外貨を獲得して世界経済に参入、富国強兵・殖産興業で日本を改革していこうという、かなり豪華なデザインを描いていたんですね。
 造船所に続いて、溶鉱炉や反射炉、特産品の薩摩切子を生産する硝子工場などを次々とつくった斉彬政権は、当時の日本ではまず他に考えられない、夢の未来工場の様相でした。その影響下、薩摩藩士たちものびのび花開いていきます。まあ、殿様がそうですので、そんなに攘夷攘夷と目の色を変えてもいなかったのです…が。
 事情が一変したのが、安政5年、大老井伊直弼の違勅条約です。これに抗議する声が、そのまま尊皇攘夷・幕政批判に直結して、日本中がゆれるさなか、改革の旗手だった島津斉彬が、国許で軍事演習をやっているとき、にわかに病を発して急死してしまうんですね。
 斉彬が亡くなったのとほぼ同時に、将軍家定も薨去、継嗣は紀州の徳川慶福に決定し、まもなく、水戸徳川家の密勅騒動のからみで、島津家の朝廷工作を担当していた近衛家が罪に問われたりと、薩摩には大逆風が吹きはじめるんですね。
 この逆風への抵抗として、許すまじ井伊、尊皇攘夷!と叫んで突出してきたのが、斉彬を慕っていた若き下級藩士たちでした。若手のリーダーの西郷吉之助は、将軍継嗣の根回しで京都を飛び回っていた関係で、ネゴシエーター役の僧・月照とともに入水自殺を図ります。その後島流しにされますが、これはいわば、安政の大獄から西郷を守る方便だったんですね。
 斉彬の近代化事業はことごとく破却され、薩摩は時代を逆行していきます。次の藩政は、藩主後見役になった斉彬の弟・島津久光が担いますが、この人が、斉彬のやってきた政治改革構想を、ちょっと歪んだかたちで継承してしまうんですね。
 まあ、時代も短期間で激変し、そのなりゆきもあったのですけど…。つまり、久光は下級藩士たちによって、攘夷のカリスマに祭り上げられてしまうんです。斉彬の残した藩兵と近代軍備をもって、クーデターをいつでも起こせる!という、幕府にとっては隠然たる軍事的脅威となり、久光本人の意思と関係なく暴走しはじめました。この妄想クーデターに飛びついたのが、自藩の藩主に期待できなくなった水戸の過激派連中だったんですね。
 こうして久光の挙兵計画は、本人まったく関係ないところで勝手に壮大な脚本を書き上げられて、ついには実行目前まで運んでしまうんですが、知って驚いたのは当の久光です。そんな気ぜんぜんないんですから。びっくり仰天して、突出する若手藩士を自筆の手紙で説諭し、そんなことで薩摩の妄想クーデターはいったんは終息します。
 が、転がり始めた石は止まらず、薩摩のバックアップがなくなってもクーデターは止められなかった水戸の連中が、止むに止まれず起こした事件が、万延元年3月3日、雪の桜田門外…。そういうわけで、井伊大老を暗殺した水戸の浪士団の中には、国許から見捨てられた一人の薩摩藩士(有村治佐衛門)も参加しておりました。

そして土佐

 土佐藩主・山内豊信は、藩主や継嗣が相次いで病死するというタイミングで、末端の連枝から引き上げられて、補欠の補欠から藩主になってしまった人物でした。
 この種のにわか藩主が大抵そうであるように、藩主としての帝王学などは何も受けてませんし、ふつうの藩主継嗣は江戸で生まれて江戸で教育されるのに、この人は土佐を一歩も出たことがないのです。そんなわけで、嘉永元年にいきなり藩主になっても、どうしていいか分からない飾り物の時期が数年続いたようです。
 その豊信が、また突然に表舞台に躍り出たきっかけが、嘉永六年のペリー来航だったんですね。
 このとき、幕府は各藩に急遽の沿岸警備を申し付けるとともに、にわかの外圧にどう対応するべきか、全国の藩主たちに緊急アンケートを実施しました。こんなことは、徳川幕府300年ではじめてのことで、まさに非常時です。
 藩主としての帝王学を受けていない豊信が、この前代未聞の藩主アンケートに回答するため、目をつけた人物が吉田東洋でした。
 この人は前藩主・山内豊熈の時代に抜擢されて郡奉行や舟奉行などをつとめ、まだ国防問題など表面化していないころから、「時事五箇条」という海防論を展開。土佐の海上防衛に着手しようとしていたとき、豊熈が急死してしまって、海防計画も頓挫していたのでした。
 この東洋に目をつけて、自分のブレーンに引き上げた豊信は、東洋の提唱する富国強兵・海防強化というな対外政策を引っさげて、江戸政界に華麗にデビューします。藩祖一豊の時代から忠実な親徳川だった土佐から、いきなり出てきた斬新な幕政批判は、幕府を動揺させ、改革派勢力を喜ばせました。じぶんの影響力に目覚めて勢いづいた豊信は、島津斉彬らのグループに合流して一橋慶喜を将軍継嗣にプッシュ、改革派の一角とみなされるようになります。
 で、安政5~6年にかけて水戸家の密勅騒動のあおりと、将軍薨去などが続き、おなじグループの島津斉彬が亡くなって、豊信は水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、宇和島の伊達宗城らと共倒れで、蟄居謹慎を言いつけられることに。こういう場合幕府の顔色をうかがって、藩主を強勢隠居させるというのはどこの藩でもやったことで、豊信も仲間たちと一緒に藩主の座をおりて、「容堂」と号する隠居になりました。ちなみに、このときまだ33歳です。

 豊信・東洋のタッグででバリバリと藩政改革していた土佐ですが、そんなに先鋭的な若手勢力が藩内から勃興する、ということはまだ無かったのです。
 前の学習会でも見ましたように、土佐にはハッキリした身分差別があったわけですね。ずっと差別され続けていた下士には、その差別をバネにするほどのパワーはまだ育ってませんでした。
 土佐の人材育成も、下士はあまり視野にはいってなく、上士対象でおこなわれました。水戸でもやったように、土佐でも民兵の組織化など軍制改革がおこなわれ、その予算を捻出するためにダイナミックな財政改革も始まります。藩士たちに「半知借上げ」、ようするに給与を半額凍結するという、思い切ったことをし、さらに事業仕分けを行って、前藩主時代からの旧保守勢力をバリバリ整理。このとき、あらたな人材として上士の若手から抜擢されて世に出たのが、乾退助(板垣退助)、後藤象二郎らでした。

 で、大騒ぎの安政5年。藩主豊信が処分されたことは、長く圧迫されていた土佐の下士たちをにわかに元気づけました。あまり活躍の目がなかった彼らが、急に殿様へのシンパシーを表明したのは、幕府と井伊直弼の強権に対する抵抗という、アンチ勢力としての大義名分を手にしたからでしょうね。
 同時に、攘夷の総本山たる水戸で騒ぎがおこり、影響は土佐にも波及してきます。薩摩にもいった水戸の過激派たちは、土佐の下士たちにも連携を呼びかけているんですね。
 どうも、水戸の激派は全国の不満分子を糾合し、薩摩の島津久光を担ぎ上げ、一気呵成のクーデターを起こそうという計画だったようですが、前述のように薩摩が降りて、足並みはそろいません。土佐はというと、そんな激派に同調できるほど思想的に進んでいたり、組織化されている反動勢力じたい存在してませんでした。例外的に一歩先をいっていた武市瑞山などが、ものすごく焦っていたわけですね。

 そして、このときまだ表舞台にはぜんぜん登場していない、われらが主人公・坂本龍馬なんですけど、松浦玲著「坂本龍馬」(岩波新書)によりますと、この安政5年11月、土佐にオルグにやってきた水戸の住谷寅之助に、国境まで会いにいっているそうです。
 関所を通過して土佐に入れるように計らってくれとの依頼に応じたようですが、どういう事情で龍馬が、水戸との縁に深入りしていたのでしょう。
 龍馬は住谷らに国境で会いますが、なんだか事情がわかんないからいったん帰ってくれないか、みたいなことを言って引き取ってもらう説得をしたようですね。住谷の書状に、「坂本龍馬って、まじめで誠実で良い人物だったけど、たんなる剣術使いで、なにも事情がわかってなかった」という趣旨の文章がのこっているそう。
 そんな龍馬が水戸の激派中の激派に会うくらいですから、土佐の尊攘勢力も、まったく足並みがそろってなかったのでしょう。
 山内容堂の謹慎処分や安政の大獄の大パージへの抵抗として、下級藩士たちが土佐勤皇等として団結、薩摩の島津久光のケースのように、容堂を担ぎ上げて挙藩勤皇という濃い道に進んでいく…までには、あと数年を待つことになります。


ううむ、こうしてみると、やっぱり安政5年というのは、幕末史上、非常に大きなターニングポイントだったのだなあ。
その重要な年を、主人公と幼馴染の恋愛模様と、理不尽な別れというオハナシに要約したのは、かなり思い切った演出だけど…。今後の展開のために、はたしてあれで良かったんでしょうか??


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