como siempre 遊人庵的日常

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「平清盛」序盤10回を振り返って考える

2012-03-24 13:45:31 | Cafe de 大河
 はい、先日、「清盛」の当初の見極めライン「第10回」を、とりあえずクリアして、まあ暫定ではありますが、引き続き視聴を続けてみる旨、申し上げました。
 当初、その10回を「おおーっ、いいじゃんいいじゃん、期待してなかったけど!」という感じでクリアできれば重畳、と思ってたんですけど、予想とはだいぶ違ってまして。ドラマ的には限りなく疑問符がつく出来なのだけど、俳優陣などの一部にかなり気合のはいった人がおり、もうすこし見守りたい、と。

 ただ、見守ったところでドラマ的に劇的に良くなるとか、大河ドラマ起死回生の神作品に化けるんじゃないかとか、そういう期待はもう持てないだろう…と、実は思っています。

 大河ドラマも長年視聴を続けていると、話数二桁にはいったところでドラマとして心を掻き立ててくるものが何もない、その場限りのネタ的な面白さしかない、となるともう底が割れるというか。ここで駄目なら最後まで期待が持てないことは、経験的にわかります。

 あんまりネガティブなことをいわず、ネタとしてでも面白がってみよう、と心がけてはきましたが、実は、「清盛」の時代考証を担当している方のTwitterから、このようなものを拾ってしまい、一気に気持ちが萎えました。



 これはただ事ではない気がします。
 時代考証っていわば裏方さんじゃないですか。そういう人が、「視聴率が悪いのはオレのせいじゃない」という意味のことを公言する。非公式にではあっても、不特定多数の目に触れる場所でそういうことを言ってキレる。これは今までになかったことだと思います。
 というか、クズみたいな大河ドラマは、ここ直近3年に限らずほかにもありましたが、「時代考証が悪い」とおおっぴらに批判されることは、まずなかったですよね。いや、あるにはあったけど、それはあくまでドラマの脚本・演出・演技等がダメなことのあとにくるもので、時代考証そのものがドラマの質の悪さの直接原因だとは、だれも思わない。最悪でも時代考証が「悪い」んじゃなくて「機能していない」と思うだけですよ。

 というか、べつに研究者の良心なんかいちいち疑いながら見てないし…。

 この人が極端に自意識過剰なのか、なにかほかに事情があるのかわかりませんが、この一連のたわごとから見えてくるのは、ドラマ全体の不協和音だと思います。

 第10回までを総括して思うことは、とにかく万事がちぐはぐだ、ということですね。
 脚本も演技も、美術や映像も、もちろん時代考証も、それぞれ力は入ってるんだけど、それがサッパリかみ合っていない。それぞれが変なふうに突出して、唐突にみえるばかりで、ストーリーに有効に機能して動いていかない。意味不明のストーリーの流れのなかで、よくわからない小汚い役者たちが、てんでに意味不明のことを無意味な大声で絶叫しているだけのドラマ、としか言えないです。残念ながら。
 これは龍馬伝よりずっと悪い状況だと思いますよ。真面目に。とりあえず龍馬伝は、あのアイドル歌手をあの手この手で持ち上げて、強引にでもストーリーとしてまとめていこうという、求心力だけはありましたからね。当時わたしはそれが不愉快だったけど、今思うと、そういう変形した求心力もない今年よりはだいぶマシだったと思う。

 視聴率が悪いのは誰のせいでもない、こういう無意味な不協和音が画面にダダ洩れしているせいじゃないですかね。
まあ…しいていえば、それらのマテリアルを有効に機能させて動力にできない、粗悪な脚本が一番悪いのでしょうが。

一連のツイートを見物して、一番萎えたのは、どうも大河ドラマは話を「わかりやすくする」という方向に、ほとんど焦燥を感じて突き進んでいるらしいことです。
それは違うだろう…と思います。この方向で、わかり易くと努力すればするほど、ドラマはこれからどんどん寒くなっていくのは賭けてもいいです。

昨日まで読んでいた「日本の1/2革命」(池上彰・佐藤賢一 集英社新書)という本で、池上彰さんが言われてることに思わず膝を打ったので、ご紹介しますね。

「そもそも、われわれがなぜ佐藤(賢一)さんのお書きになるような歴史小説を読むかというと、一つはもちろん、面白いからです。人間のエンターテイメントとして面白いからです。でもそれだけじゃなくて、もう一つは、歴史を学べるからなんですね。歴史というのは、そのまま同じ形では繰り返さないけれど、同じ人間である以上、同じような状況になれば同じような行動をとる。それがまた、現代につながってきて、これから現代を生きるうえでの指針になり、参考になる。そこのところが面白いから読むんですね」

「過去の歴史を見ることによって、未来への大きなライトにはならないまでも、暗闇の未来を照らす懐中電灯くらいにはなると。たとえば、いま、中国政府はなぜこんな要求をしてくるのかと思うとき、その答えは歴史をさかのぼった過去の中にあるんです。現在の問題は過去につながっていて、過去の問題は現代につながっている」


 わたし、何年もだらだら大河ドラマのレビューっぽいものを続けてきて、何回か「神が降りた」と言ったことがあります。
 それは、まさに上のようなことなんですよね。まっとうに、真剣に、歴史というものに取り組んだドラマには、かならず、現代と呼応するというか、ピタッと波長が重なるような、「歴史の神が降りる」瞬間があるんです。これはもうホント、絶対に。たぶん、制作しているほうも意識して出すものではないと思うんですけど。
 積極的に「歴史に学ぶ」というより、だいぶ感覚的な、雲をつかむような現象ではありますが、ようはそういうことです。
まさにそれを見たいから、わたしは大河ドラマを見続けているんだろう…と思っています。

 ただそれは、小手先の小細工で「わかり易く」「面白く」とドラマを弄んでみたところで、出せるものでは絶対にない。
むしろ、現代人の浅知恵で考える「わかり易さ」を大幅に無視したところに、過去と現代がつながる周波数は隠れているのではないか、と思います。
 そして、その同じチャンネルで歴史を感じ取ったとき、小手先のわかり易さを超えたところで、視聴者には、なにかが「わかる」のものなのではないでしょうか。

 そういう大河ドラマを期待するのはもう無理かなあ…と、毎日曜日に暗い気持ちになってしまうのですけど。
 でも「坂の上の雲」でまさにそれをやったのですから。どうして大河ドラマで出来ないのでしょうか。


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