como siempre 遊人庵的日常

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龍馬伝・出直し学習会VOL3

2010-03-14 11:37:17 | Cafe de 大河
安政5年~6年 安政の大獄から桜田門外の変直前まで(1)

「こんな恥ずかしい思いは初めてぜよ!」

…って半平太さんはいうけど、それぞれの藩の事情は、ホントのとこどうだったのでしょうか?

ということで、この濃厚な安政年間を、ドラマでは具体的な歴史事情などは思い切りよくカットしちゃってますので、補足的に。同時進行で、水戸・長州・薩摩・土佐のそれぞれの藩内事情を整理してみましょう。

水戸

 幕末を沸騰させた「尊皇攘夷思想」は、そもそも水戸藩にルーツを発していますので、水戸は当時、華やかな思想界のスター格。諸藩士の憧れのまとで、攘夷の総元締め的存在でした。
 嘉永6年にペリーが来航し、開国か攘夷かで日本中が沸騰したあと、水戸藩では、攘夷思想を呼号してさわいでいただけではなく、国防を中心とした藩政改革に取り組みます。
他藩に先駆けて農民階級を徴募して軍事組織に組み込んでます。農民の壮丁を兵士に教育するため、訓練機関の郷校も速やかに整備されました。
 こういうことは、前水戸藩主・徳川斉昭と、そのブレーンの藤田東湖という攘夷思想の二大カリスマが、藩政をがっちり仕切って、トップダウンで改革が可能だったという事情があります。
 しかし、安政2年の江戸大地震で、藤田東湖が倒壊した藩邸で圧死という非業の最期を遂げますと、改革は自然と迷走。とくに、暴走体質の徳川斉昭を操縦できる人は藤田東湖しかいなかったのですね。
 で、安政5年。かねて斉昭の天敵の彦根藩主・井伊直弼が大老となり、天皇の意思を裏切って各国との通商条約をフライングで締結しますと、この条約の是非をめぐって、徳川斉昭と激しく対立することになります。
 違勅問題で井伊をつるし上げるため、斉昭は、尾張藩主徳川慶恕、越前藩主松平慶永をともなって江戸城に押しかけ登城し、座り込みで抗議します。それが原因で蟄居をいいわたされ、息子の一橋慶喜ともども、事実上政治生命を絶たれます。
 その裏では、余命いくばくもない13代将軍・徳川家定の後継をめぐり、朝廷を巻き込んでの政治工作が過熱化していたのですけど、その工作の成り行き上、落し物として現れたのが、有名な「戊午の密勅」でした。
 天皇から水戸藩主へ、今後の政治を幕府と協力して攘夷を頑張ってくれ…という、べつになんてことない、時候の挨拶みたいな内容なんですが、天皇が幕府の頭を飛び越えて大名に連絡をとるというのが前代未聞だったので、政治的陰謀のレベルの大問題に盛り上がってしまいました。
 このとき、幕府から水戸藩主・徳川慶篤に、勅書返還の強要があったことで、水戸藩には大ブーイングが巻き起こります。幕府の抑圧に抗議するため、水戸藩士千人以上の有志が集団越境し、江戸までデモ行進を行うというたいへんな騒動に発展します。
 で、安政6年。この戊午の密勅と、水戸藩士のブーイングにに過剰反応した井伊直弼が、踏み切ったのが水戸系尊攘思想家の大パージ。いわゆる安政の大獄です。
 このときも、水戸藩の家老が密勅がらみで逮捕されて江戸に連行されたりし、藩士たちはまたぞろ越境デモで抗議してさらに事態を悪くします。結局、徳川斉昭は永蟄居。密勅の運搬にかかわった藩士四人が死罪。水戸藩はこのときから、藩主ではなく天皇の兵隊として動く先鋭的過激集団と、従来の御三家の分を守る穏健派に分裂、さらに内部分裂を繰り返して消耗していく、不毛の迷路にはまりこんでいくのですね。


長州

 嘉永6年のペリー来航をきっかけに、二百年来厳禁されていた、諸藩による造船が解禁となります。諸藩はそれぞれの考えで、国防にいそしんでいいことになりました。
 長州藩では、さっそく自家製の木造軍艦に着手。二つの国産砲艦(木造)をつくり、その後も外国から買い入れるなどして、ちゃくちゃくと海上防衛システムを構築していきます。国の三方が海という立地の長州では、外敵に対する緊張感がふつうよりずっと強かったのですね。
 こういう危機感は、武士階級だけでなく農民にも浸透していて、お殿様以下農工商までも、一致団結して国防に協力しよう。そのためには増税や厳しい窮乏生活も耐え忍ぼうという、この涙ぐましい一体感は、その後長州が幕府から追討されて孤立、一藩臨戦態勢を固めたときに大いに力を発揮することとなります。
 さて、その黒船に単身密航して敵情を探ろうという、無謀きわまる冒険をしたのが吉田松陰ですが、この人は罪人として長州に護送され、そのまま牢獄送りとなります。獄中生活のなかで深く内省し、読書と思索の日々を送り、なりゆきで、塀の中のお仲間に孟子の講義などをするようになります。これが評判となり、自宅軟禁に切り替わったあとも、松陰を慕う生徒があつまって、自然に発足したのが松下村塾でした。安政4年のことです。
 この松下村塾から、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎をはじめ、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)、佐世八十郎(前原一誠)などなど輩出したのは今更言うまでもないですが、その存在した期間は、ほんとに2年にもならなかったのですよね。
 藩政のほうは、当時保守派が政権をとっていて、「朝廷に忠節・幕府に信義・祖先に孝道」という無難な藩是三大綱を掲げておりましたが、井伊大老が、朝廷に無許可で諸外国と条約を結んだということが、日本を揺るがす大問題になりますと、他藩に歩調をあわせて、保守派から改革派へ潮目が変わり、先鋭的攘夷イデオローグが藩是を駆逐。改革派の首魁・周布政之助が執政として政権交代します。
 この周布政之助の登場で、松陰門下の下級藩士たちに活躍の場があたえられ、だんだん過激になっていって、幕政批判と朝廷への接近、さらに進んで幕府転覆のような暴走になっていくのですが、その騒動の中心的人材を養成したのが松下村塾です。
 吉田松陰本人は、攘夷主義者だけど鎖国主義者ではないという、いっぷう変わった主張の持ち主だったみたいで、富国強兵して世界に伍していくのはいい、ただ、拙速な開国で諸外国の侮りを受け、異国に蹂躙されるのはあってはならない、という考え方でした。ですので、外国のいいなりに不平等条約をむすばされ、しかも天皇の反対を無視して見切り発車で行った幕府、特に井伊直弼への憤懣はひとかたならぬものがあり、このあたりから、松陰はだんだんと過激になっていきます。
 過激といっても公式には自宅軟禁・保護観察中の罪人ですから、行動の自由はありません。それでさらにエスカレートした節もあるみたいで、アブナい計画を立てまくります。幕府要路の暗殺や、藩主を立てて京都でクーデターをおこす、同時多発テロ、その第一弾として老中・間部詮勝の暗殺をするため、武器を貸与してくれと藩政府に要望書を提出したもんですから、びっくりした藩に逮捕されて再び投獄されます。罪に問うより、どっちかというと保護のために。
 その獄中で「那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(=自由)を唱へねば腹悶医し難し……今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む他頼みなし」という、有名な「草莽崛起論」を提唱するんですね。この、一種の反封建論が、その後の志士の思想のひとつのよりどころになっていきます。
 どんどん過激化する師匠に、松下村塾の弟子たちも引いてしまい、弟子が師匠を諌めたりすることになりますが、松陰は意地になって「僕は忠義(このばあいは朝廷への忠義でしょうね)をするつもり、諸友は功業をなすつもり」といって弟子たちと絶交宣言。
 この絶交状態のまま、安政6年、松陰には安政の大獄のパージがふりかかり、ある意味とばっちりで江戸に送られてドサクサ処刑されるという非業の最期を遂げます。この松陰の無念が、弟子たちを徳川打倒の一念に駆り立てていく、という流れになるのですが…。

(続きます)


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