幕末内憂事情 斉昭と直弼(1)
出直し学習会です。
幕末の混乱を内憂外患と申しますように、今回は「外患」から「内憂」のほうに目を向けてみたいと思います。
安政の大獄は、一般的な幕末紙芝居の1枚目に来る事件でして、大老・井伊直弼が手当たり次第に反幕勢力を処刑し、怨みを買った自分も桜田門外の変で暗殺されてしまい、反動が一気に噴出して、「テロの時代」を誘導した…とまあ、おおむねこんな感じに理解されております。
が、この安政の大獄、突き詰めれば、徳川斉昭と井伊直弼という政治家ふたりの政争でして、巻き込まれて処刑された人たちこそ良い面の皮なのですね。
幕末劇の第1シーンに欠かせない役者、井伊直弼。司馬遼太郎氏の小説「桜田門外の変」で、こんなふうにシビアに総括されてます。
ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無と言っていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、そのもっとも重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。
そんな、まあいうなれば貧乏くじを引かされた井伊直弼。どんな人なのか、ちょっとその人となりを見てまいりましょう。
井伊直弼という男。
近江・彦根藩25万石は、徳川四天王の一角・井伊直政を藩祖とする名門中の名門。名実ともに譜代筆頭の家柄です。
井伊家の家臣団は、戦国時代の武田軍団のスタイルを踏襲した「赤備え」。見栄えも実力も、徳川軍団最強とうたわれました。が、長く続く太平の世に、最強軍団がその真価を発揮する場面はありません。
井伊家のような名門は、キャリア官僚職の老中にはなりません。そのかわり、非常時にのみ置かれる独裁的な最高権力「大老」は、まず井伊家からというのが不文律的でした。実際、江戸幕府260年にわたって、5人もの大老を出しています。
栄えある井伊家5代目の宰相となった13代藩主・直弼は、実は藩主の十四男(!)。側室の子でもあり、普通ならこういう存在が日の目をみることはありません。
前回、殿様ファイルでつらつら見ましたが、この時代に頭角を顕した殿様の多くがそうであるように、井伊直弼も、日陰の存在から驚異の強運で藩主の座をゲットし、中央政界に出てくるのです。
彦根藩主が長兄の井伊直亮に代替わりし、ほかの兄弟たちもつぎつぎに養子先がきまってはけていっても、直弼ひとりに貰い手がありません。
彦根に残った直弼は、わずかな扶持を小遣いに貰いながら、厄介者の生活をつづけます。「埋木之舎(うもれぎのや)」という自虐的な雅号をなのり、同名の草庵に隠居の如く閉じこもって…。
が、直弼は腐ってグレることもなく、ありあまるヒマをつかって趣味道と勉学に没頭しました。茶道と歌道はかなりの域に達し、勉学も、本居宣長派の国学は、どんどんハマッて師を越え、新たな師を求めてやまぬようになります。
そして、暗い生活のなか28歳になった直弼の耳に、ひとりの異色な国学者の名が届きました。
その男の名は…長野主膳。
長野主膳という男。
長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)。この人物の出自はミステリーに包まれています。史実に登場するのは24歳ごろのこと。漂白の国学者として伊勢の国に姿をあわらし、その道で、ある種の有名人になりました。
島崎藤村の「夜明け前」にも出てきますように、幕末のころ、各地の庄屋や本陣のあるじといった層の人たちには、国学に造詣の深いひとが多く、勉強会を開いたり、学者のパトロンになったりして、横のつながりも密だったのですね。
長野主膳は、そういうネットワークの中を渡り歩き、知識層を相手に和歌を教えたり、国学の出張講座などをして生計をたてていました。人品骨柄いやしからず、若くイケメンで、学識も深く、さらにそれまでの出自・前半生などがまったく謎というミステリアスな存在感も、全国の国学愛好家たちをいたくシビレさせたものと見えます。
こうして、全国の主膳ファンのネットワークからめぐりめぐって、彦根藩の厄介である井伊直弼の耳にも、その評判は届きます。
天保13年、直弼が埋木之舎に招待するかたちで、ふたりの対面はかないました。ときに、二人とも同年の28歳。
初対面から、なにかビビビビ…と響きあうものを感じたふたり。直弼は、主膳と対面した翌日に、「会いたい、寂しい、もう離れていられない」と綿々と書き綴った長文のラブレターを主膳に送るほど(!!!)、ふたりは運命的に結び付けられたのでした。
いや、でもホモとかそういうことじゃないんですね。まあ…その気も皆無じゃなかったかもしれませんが。
直弼と主膳は、不思議としかいいようのない関係を結び、のちには一人の女性を共有する(!!!)という、ここまでくるとアブノーマル…という関係で密に結ばれて、桜田門外のカタストロフまでを二人三脚で生き抜くことになります。
かくして、不遇時代の井伊直弼と、スピリチュアル・アドバイザーの長野主膳、めぐりめぐって安政の大獄を引き起こすことになる異様なコンビが、磁石の両極が引き合うごくめぐり合ったのでした。
ときに天保13(1842)年。桜田門外の変まで、あと18年。(笑)
強運の直弼
弘化3年(1846)年、彦根藩主である兄・井伊直亮の長男が亡くなります。
ほかに跡取りのいない藩主の世子として、ひとり部屋住みとして残っていた32歳の直弼が、瓢箪から駒で浮上することになりました。
実はこの井伊直亮という人、ひとことで言ってバカ殿で、先代藩主の実の父も「早々に隠居させるがよし」と遺言していたほど。藩主・直亮は、わが子の代わりに弟の直弼を養子扱いにして、江戸屋敷に呼び寄せ、世継ぎとさだめます。
が、直亮は直弼を徹底的にイビり抜きました。江戸屋敷に置いたもののろくに小遣いもやらず、世子の掛かりの予算も組んでやらないのです。譜代筆頭の井伊家世子には、ふさわしい格の式服や、供ぞろえも必要なのですが、兄がお金をくれないので直弼はそういう支度ができず、登城もままならずに「病気」と偽ることも一再ではなかったといいます。
が、その面倒な兄も4年後には死んでしまい、嘉永3(1850)年、直弼は36歳にして彦根藩主となりました。
このとき長野主膳は、藩主の学問の師として、正式に彦根藩に登用されます。
譜代筆頭の溜間詰めという名門を継いだ直弼でしたが、ちょうど嘉永の外圧・黒船が押し寄せた時期。幕府政界は大混乱していましたが、名門すぎて官僚職につけない彦根藩の立場は、あまりぱっとしたものではありませんでした。
湾岸警備や、お台場建設、京都の御所のお手伝い普請など、ようは幕府の都合でいろいろと面倒な仕事をさせられ、お金ばっかり遣わされ、サッパリいいことはなかったのです。金がかかるところには都合よく回されて、それでいて政治に口出しはできない。
凡庸な殿様なら、お家大事で素直にいいなりになったでしょうが、長年冷や飯をくっていた直弼は、屈折しまくっています。
幕府の無体に逆らえないというならば、誰にも反駁をゆるさない立場に、自分が登ればいいんだ。
そう…。伝統的に井伊家の専任であった「大老」という職が、このとき、直弼の視野にはいってきます。
ときの老中首座・阿部正弘は、井伊直弼が大老への道のてはじめに、老中になる道をさぐりはじめると、これを徹底的に拒絶したといわれます。性格が合わなかったのでしょう。
この阿部正弘が、安政四年に急逝してしまうと、直弼の出世にも、急に明るい展望がひらけるのでした。
なんというか強運な人で、本人が特になにもしなくても、敵はしぜんに消滅していくのです。
そんな直弼の前に、生涯の宿敵として水戸の老公・徳川斉昭が立ちはだかりますが、この男の存在が、逆に直弼を念願の大老に押し上げることになろうとは。どこまで強運なのでしょうか、そして、その強運はどこで尽きてしまったのでしょうか。
つづきます。
出直し学習会です。
幕末の混乱を内憂外患と申しますように、今回は「外患」から「内憂」のほうに目を向けてみたいと思います。
安政の大獄は、一般的な幕末紙芝居の1枚目に来る事件でして、大老・井伊直弼が手当たり次第に反幕勢力を処刑し、怨みを買った自分も桜田門外の変で暗殺されてしまい、反動が一気に噴出して、「テロの時代」を誘導した…とまあ、おおむねこんな感じに理解されております。
が、この安政の大獄、突き詰めれば、徳川斉昭と井伊直弼という政治家ふたりの政争でして、巻き込まれて処刑された人たちこそ良い面の皮なのですね。
幕末劇の第1シーンに欠かせない役者、井伊直弼。司馬遼太郎氏の小説「桜田門外の変」で、こんなふうにシビアに総括されてます。
ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無と言っていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、そのもっとも重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。
そんな、まあいうなれば貧乏くじを引かされた井伊直弼。どんな人なのか、ちょっとその人となりを見てまいりましょう。
井伊直弼という男。
近江・彦根藩25万石は、徳川四天王の一角・井伊直政を藩祖とする名門中の名門。名実ともに譜代筆頭の家柄です。
井伊家の家臣団は、戦国時代の武田軍団のスタイルを踏襲した「赤備え」。見栄えも実力も、徳川軍団最強とうたわれました。が、長く続く太平の世に、最強軍団がその真価を発揮する場面はありません。
井伊家のような名門は、キャリア官僚職の老中にはなりません。そのかわり、非常時にのみ置かれる独裁的な最高権力「大老」は、まず井伊家からというのが不文律的でした。実際、江戸幕府260年にわたって、5人もの大老を出しています。
栄えある井伊家5代目の宰相となった13代藩主・直弼は、実は藩主の十四男(!)。側室の子でもあり、普通ならこういう存在が日の目をみることはありません。
前回、殿様ファイルでつらつら見ましたが、この時代に頭角を顕した殿様の多くがそうであるように、井伊直弼も、日陰の存在から驚異の強運で藩主の座をゲットし、中央政界に出てくるのです。
彦根藩主が長兄の井伊直亮に代替わりし、ほかの兄弟たちもつぎつぎに養子先がきまってはけていっても、直弼ひとりに貰い手がありません。
彦根に残った直弼は、わずかな扶持を小遣いに貰いながら、厄介者の生活をつづけます。「埋木之舎(うもれぎのや)」という自虐的な雅号をなのり、同名の草庵に隠居の如く閉じこもって…。
が、直弼は腐ってグレることもなく、ありあまるヒマをつかって趣味道と勉学に没頭しました。茶道と歌道はかなりの域に達し、勉学も、本居宣長派の国学は、どんどんハマッて師を越え、新たな師を求めてやまぬようになります。
そして、暗い生活のなか28歳になった直弼の耳に、ひとりの異色な国学者の名が届きました。
その男の名は…長野主膳。
長野主膳という男。
長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)。この人物の出自はミステリーに包まれています。史実に登場するのは24歳ごろのこと。漂白の国学者として伊勢の国に姿をあわらし、その道で、ある種の有名人になりました。
島崎藤村の「夜明け前」にも出てきますように、幕末のころ、各地の庄屋や本陣のあるじといった層の人たちには、国学に造詣の深いひとが多く、勉強会を開いたり、学者のパトロンになったりして、横のつながりも密だったのですね。
長野主膳は、そういうネットワークの中を渡り歩き、知識層を相手に和歌を教えたり、国学の出張講座などをして生計をたてていました。人品骨柄いやしからず、若くイケメンで、学識も深く、さらにそれまでの出自・前半生などがまったく謎というミステリアスな存在感も、全国の国学愛好家たちをいたくシビレさせたものと見えます。
こうして、全国の主膳ファンのネットワークからめぐりめぐって、彦根藩の厄介である井伊直弼の耳にも、その評判は届きます。
天保13年、直弼が埋木之舎に招待するかたちで、ふたりの対面はかないました。ときに、二人とも同年の28歳。
初対面から、なにかビビビビ…と響きあうものを感じたふたり。直弼は、主膳と対面した翌日に、「会いたい、寂しい、もう離れていられない」と綿々と書き綴った長文のラブレターを主膳に送るほど(!!!)、ふたりは運命的に結び付けられたのでした。
いや、でもホモとかそういうことじゃないんですね。まあ…その気も皆無じゃなかったかもしれませんが。
直弼と主膳は、不思議としかいいようのない関係を結び、のちには一人の女性を共有する(!!!)という、ここまでくるとアブノーマル…という関係で密に結ばれて、桜田門外のカタストロフまでを二人三脚で生き抜くことになります。
かくして、不遇時代の井伊直弼と、スピリチュアル・アドバイザーの長野主膳、めぐりめぐって安政の大獄を引き起こすことになる異様なコンビが、磁石の両極が引き合うごくめぐり合ったのでした。
ときに天保13(1842)年。桜田門外の変まで、あと18年。(笑)
強運の直弼
弘化3年(1846)年、彦根藩主である兄・井伊直亮の長男が亡くなります。
ほかに跡取りのいない藩主の世子として、ひとり部屋住みとして残っていた32歳の直弼が、瓢箪から駒で浮上することになりました。
実はこの井伊直亮という人、ひとことで言ってバカ殿で、先代藩主の実の父も「早々に隠居させるがよし」と遺言していたほど。藩主・直亮は、わが子の代わりに弟の直弼を養子扱いにして、江戸屋敷に呼び寄せ、世継ぎとさだめます。
が、直亮は直弼を徹底的にイビり抜きました。江戸屋敷に置いたもののろくに小遣いもやらず、世子の掛かりの予算も組んでやらないのです。譜代筆頭の井伊家世子には、ふさわしい格の式服や、供ぞろえも必要なのですが、兄がお金をくれないので直弼はそういう支度ができず、登城もままならずに「病気」と偽ることも一再ではなかったといいます。
が、その面倒な兄も4年後には死んでしまい、嘉永3(1850)年、直弼は36歳にして彦根藩主となりました。
このとき長野主膳は、藩主の学問の師として、正式に彦根藩に登用されます。
譜代筆頭の溜間詰めという名門を継いだ直弼でしたが、ちょうど嘉永の外圧・黒船が押し寄せた時期。幕府政界は大混乱していましたが、名門すぎて官僚職につけない彦根藩の立場は、あまりぱっとしたものではありませんでした。
湾岸警備や、お台場建設、京都の御所のお手伝い普請など、ようは幕府の都合でいろいろと面倒な仕事をさせられ、お金ばっかり遣わされ、サッパリいいことはなかったのです。金がかかるところには都合よく回されて、それでいて政治に口出しはできない。
凡庸な殿様なら、お家大事で素直にいいなりになったでしょうが、長年冷や飯をくっていた直弼は、屈折しまくっています。
幕府の無体に逆らえないというならば、誰にも反駁をゆるさない立場に、自分が登ればいいんだ。
そう…。伝統的に井伊家の専任であった「大老」という職が、このとき、直弼の視野にはいってきます。
ときの老中首座・阿部正弘は、井伊直弼が大老への道のてはじめに、老中になる道をさぐりはじめると、これを徹底的に拒絶したといわれます。性格が合わなかったのでしょう。
この阿部正弘が、安政四年に急逝してしまうと、直弼の出世にも、急に明るい展望がひらけるのでした。
なんというか強運な人で、本人が特になにもしなくても、敵はしぜんに消滅していくのです。
そんな直弼の前に、生涯の宿敵として水戸の老公・徳川斉昭が立ちはだかりますが、この男の存在が、逆に直弼を念願の大老に押し上げることになろうとは。どこまで強運なのでしょうか、そして、その強運はどこで尽きてしまったのでしょうか。
つづきます。
やっぱり斉昭がガンですね、どう見ても。
ようこそいらっしゃいました。コメントありがとうございます。こちらこそよろしく!
>やっぱり斉昭がガンですね、どう見ても
いやいや、わかりませんよ(笑)。次回予告に、直弼とか、高畑淳子とか。やばそうな顔ぶれがチラチラ出てきて、江守も「意外といいひとになるかも…」とか思えてきました。
いや、史実的にはあきらかにガンなんですがね。いろんな意味で。
そういえば彦根の「いと重」という和菓子屋さんで「埋れ木」というのを売っていますよね。高価なのでもっぱらお土産&贈答品みたいですけど。一度彦根を訪れた時に買いましたけど、「水戸の梅」よりは格段に高級だな~と思いましたわ(笑)
明日の予習にぴったりのレポートまたまた有難うございます! 梅雀さんの井伊大老、どんなキャラで出てくるのか楽しみですよね♪
今日、近所の遊歩道を歩いていたら「おんなの道」と掲示が出ているので「??男は歩いちゃいけないのか?」と思ってよく見たら「みんなの道。ゴミを散らかさないようにしましょう。」というのを読み違えていたのでした。無意識のうちに篤姫マインドコントロールを受けているのか~? だんだん風林火山が遠ざかっていくような・・・
でも例の「おんなの道は一本道・・・」というのは、原作ではなくドラマオリジナルですよね?
>彦根の「いと重」という和菓子屋さんで「埋れ木」というのを売っていますよね
美味しそうですね
いや、実はいますごく彦根にいきたいんです。京都とセットで行きたいなあ。でも、いまちょっと家族に病人がでてゴタゴタしているので、それが片付いたら…と、計画中。
新幹線で京都方面にむかっていると、手前の丘の中腹?に「ひこね」って柴文字で書いてあるのがそそるんですよね。
>おんなの道=みんなの道
(笑)。
おんなの道はオリジナルだと思いますが…たぶん。
あ、でも元ネタはぴんから兄弟の歌かもしれませんよ。
一方は攘夷&異国と戦争を唱える徳川斉昭
もう一方は開国&戦争回避を唱える井伊直弼
これだから人の思考というのは不思議なもんです。
というか、水戸の場合は
背後に朝廷が暗躍してるような気がしますけど(苦笑)
長野主繕という方は初めて知りました。
そういう方がいたんですねぇ。
とっても濃密な関係だったようで(; ̄∀ ̄)
井伊家の藩祖・直政は
関が原等でも常に自ら敵陣に飛び込んでいくというくらい
勇猛果敢な方だったそうで。
直弼を見ているとこれはもう井伊家の血脈なのかもしれませんね(笑)
長野主膳は、幕末史前半のなかでも隠花植物のようにあやしい人物ですね。
隠花植物すぎて、あまり表の正史にとりあげられることのない人でもあるようですが。
安政の大獄のころ、京都で、主に公家のなかに入り込んで暗躍し、近衛家や、西郷さんが心中未遂をおこす僧・月照さんにも関わりますから、ドラマにもちょろっと出るかもしれませんね。
>同じような国学を学びながら
一方は攘夷&異国と戦争を唱える徳川斉昭
もう一方は開国&戦争回避を唱える井伊直弼
こういうのは面白いところですよね。
思想も、結局本人の性格を反映するというか。
そういえば吉田松陰の「下田踏海」は出てこないのかなあ。
初めてお邪魔します。
先週の「篤姫」で彦根が紹介されましたもので、
「井伊直弼」で検索したら
貴塾へたどり着きました。
彦根はいい所ですよ。
私のブログへもおいでいただきたいのですが、未だ未熟でどうやって
紹介すればいいのやら・・・。
又、お邪魔します。
ようこそいらっしゃいました。コメントありがとうございます。
いろんなところの地元の方が、名乗りを上げて下さるのがとっても嬉しいです。
「紀行」で地元が取り上げられるとワクワクしますよね。
彦根には、ほんとに近々行きたいと思っています。ひこにゃんにも会ってみたいし(笑)
トラックバックを送ってくださってもいいですし、このコメントフォームのURL欄にブログのURLを入力して下さっても。適宜にご利用ください。
お待ちしておりますね。
勉強は嫌いだったのですが、子供の歴史資料集に京都の寺院等、見てると興味がわいてきて、日本史を少し見直したいです。皆さん何でお勉強されているのですか?よくご存知で、うらやましいです。
ようこそいらっしゃいませ。コメントありがとうございます。
いいですね~、京都! 歴史好きにはエブリタイム憧れの場所です うらやましい~~!
1年にいちどは訪れたいですが、なかなか思うに任せず…。
でも、この初夏には久しぶりに京都にいけそう(彦根とセット)! いまからワクワクしてるんですよ。
>意外と前は通っても中には入ったこと無い,なんて所が沢山あります
地元って、そういうもんかもしれないですよね。去年の「風林火山」のとき、ワタシもつくづくそう思いました。
でも、思い立ったらいつでも史跡巡りできるって、このうえない贅沢ですよね。
歴史を勉強するなんて大層なものじゃなく(笑)、基本はミーハーで、興味あるところから手当たり次第に広げていくのが、楽しみのツボかと思います。
わたしも皆さんに教えていただいてばかりです。
こんな陋屋でございますが(笑)。どうぞいつでも遊びにお寄りくださいね。