como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

「篤姫」出直し学習会VOL25

2008-09-05 22:33:15 | Cafe de 大河
幕末事件ファイル 寺田屋事件(1)

 前回、めでたく薩摩藩の実権を握ったものの、オフィシャル・シーンで通用する官位官職もない島津久光が、藩兵を率いて幕府に殴り込みをかける決意をしたところまでみました。今回のテーマは、

久光上京のウラで、何が起こっていたのか。

 久光の引兵上京が、京都の寺田屋で薩摩藩士の同士討ちという悲劇におわるまでには、政治の表通りと裏通りで二通りの事情が平行しておこっています。そのふたつの平行線がある時点でかち合ってしまい、避けられないクラッシュを起こしたのが、寺田屋事件ということなんですが、そこらへんはややこしい部分も多い。そこで、自身の勉強もかね、ちょっと細かく見て見たいとおもいます。よろしかったら、おつきあいください。

ファイル1…文久元年

オモテ/島津久光、上京を決心する
 文久元年11月、島津久光は、来年早々に兵を率いて京都に上り、天皇の勅旨をいただいて、幕府に政治改革を促す。つまり「公武合体のお手伝い挙兵」をすると藩内に周知しました。
 ただ、そういう動きをおこすと、当然ながらいったんは謀反ととられてしまいます。江戸に藩主が滞在していると危険なので、新藩主・島津忠義が参勤で江戸入りしないでいいよう策を打ちます。乱暴ですが、三田の薩摩藩邸に狂言放火して、全焼させたんですね。薩摩藩邸は、もっと幕末が押し詰まってからも、戦略的な狂言放火で焼かれており、なにかそういう因縁の場所のようです。
 文久元年暮れ、島津久光は大久保一蔵を京都に派遣。島津家と朝廷のパイプ役である近衛忠房に、上京して天皇に面談する計画を宣言します。

ウラ/清川八郎の暗躍。
(清川八郎は毀誉褒貶の激しい人物ですけど、ここではもっぱら、悪いほうにばかり言うことをあらかじめご了承願います)。
 出羽庄内の庄屋の出身である清川八郎こと本名斉藤元司は、異常に自負心が強く、自分ほどの天才が世に出て歴史を動かさないのは間違っている!と根拠なく思う男でした。
 頭もよく、器用な人で、しかも実家は金がうなるほどあったので、江戸へでて学問と剣術を身につけ、道場兼塾を開きます。ここは、まもなく清川のように自負心が強い乱暴者の溜まり場になりますが、その常連に、江戸詰薩摩藩士の伊牟田尚平がいました。
 万延元年、アメリカ領事ハリスの通訳・ヒュースケンを暗殺したのはこの男です。この件で足がついた伊牟田を匿ってやったことから、清川は、薩摩系の過激な志士たちと縁ができます。その縁で、島津久光が兵を率いて京都に上り、天皇の許しを得て幕府に改革をせまる動きのあることを知るのですね。
 文久元年、江戸で町人を斬る事件を起こしてお尋ね者になった清川は、しばらく江戸から逃亡している間に、各地の、とくに九州の諸藩の過激派を一まとめにし、討幕の義兵をあげるということを発想しました。島津久光の挙兵に便乗し、ドサクサ紛れに乗っ取って、薩摩を担いで幕府に殴りこむというものです。
 11月、清川は京都に飛び、中山権大納言(明治天皇の外祖父)の元家来、田中河内介に会います。バリバリの尊王家で、幕府を憎む河内介が清川と話しあううち、ことはおそろしく壮大なことになっていきました。
 「勤皇の宮さん」こと青蓮院宮朝彦王の令旨を賜り、薩摩軍の上京にあわせて諸藩の志士を糾合。朝彦王を征夷大将軍にかついで幕府をぶっ潰す!というものです。
 この大計画を持って九州へ飛んだ清川は、熊本の国学者・平野国臣、筑前の神主・真木和泉守ら、勤皇志士のリーダー格を抱き込み、ありもしない宮様の令旨をさもあるように思わせて、天皇の名の下に、九州の同志達を募集する話をまとめました。
 まずは伊牟田の手引きで平野国臣が薩摩にオルグに入ります。久光の提唱する公武合体に飽き足らず、ただちに討幕の挙に出るべきである!と日ごろ叫んでいる誠忠組の過激派の一部が、清川プロジェクトに賛同して協力を申し出ます。
 こうして、薩摩のなかでも不穏分子が動き始めました。。

 ファイル2 文久2年1月~3月上旬

オモテ/西郷の反対。久光挙兵を決意
文久2年2月、西郷吉之助が奄美大島流罪から帰還します。
 若い下級藩士たちが兄貴としたう西郷は、若い者達をまとめて久光を助けることを期待されたのでしたが、引兵上京の話を聞いた西郷の反応は「断固反対」というものでした。
 カリスマ藩主・島津斉彬の高弟だった西郷の頑なな反対に、久光はひどく心証を害します。が、盟友の大久保一蔵とよく話し合った西郷は、久光の上洛につきあい、出来る限りサポートする線で合意しました。
 清川八郎の扇動で、各地の過激派や浪人志士が久光挙兵に呼応する動きがあることを、西郷・大久保らは掴んでいました。文久2年3月初旬、西郷は、不穏な動きを調査する目的で、一足はやく薩摩を発ち、下関に向かいます。同行したのは、西南戦争の最期の地まで西郷と行動を友にすることになる、村田新八でした。
 西郷を先発させたのち、3月16日、島津久光は藩兵千人あまりを率いて、鹿児島を出発します。

ウラ/九州の志士集結。討幕挙兵へ
 文久2年1月。清川は、誠忠組の柴山愛次郎橋口壮介に京都で会います。そこで、清川グループの過激派と薩摩の藩兵を合流させ、久光の挙兵を討幕軍に転用する具体的な段取りを申し合わせました。
 真木和泉守らが乗ったことで、叛乱軍のボランティア募集はさらに規模を拡大。長州には、真木の高弟・淵上郁太郎がオルグに入ります。ここは下級藩士や浪士のレベルではなく、例の長井雅楽の航海遠略策(VOL25参照)に反対する、藩上層部が名乗りを上げて合流の意志をみせました。
 こうして、九州の反乱軍志願者が続々と関門海峡を通過するなか、3月22日、西郷と村田は下関に到着。勤皇商人の白石正一郎宅にとまり、長州藩の重役・山田亦介(後に五稜郭を陥落させる官軍司令官・山田市之丞の叔父)に会います。
 そこで、西郷は、久光の挙兵がちょっと尋常でない波及効果を及ぼしていることを実感し、下手をすれば大火事になる非常事態を知りました。
 というのは、島津久光は幕府を倒す気なんかはサラサラ無くて、あくまで「天皇の勅許のもと幕政改革して、幕府と朝廷の不仲を取り持ち、有力外様大名が政治参加する道を開く」という目的。千人の挙兵も、「薩摩にはこれだけの実力がありますよ」という示威行動なのわけです。
 ところが、口コミで集結した勤皇の志士たちはというと、これが直ちに幕府に対する宣戦布告だ、戦争だ!と思い込んでいます。すっかりその気で興奮している過激派を、「いや、うちの殿様は幕府に敵意なんかないから」とかいって説得できるものではありません。
 とるものもとりあえず西郷は下関を発ち、志士たちの集結する大坂に出発します。後からくる久光一行には、どういうわけか置手紙も伝言も残しませんでした。

ファイル3 文久2年3月下旬~4月上旬

オモテ/西郷・大久保、涙の談合。西郷の逮捕、再び流罪に。
 3月28日、下関に着いた久光は、西郷が約束どおり下関で待っていず、勝手に大坂に移動したと聞いて激怒します。
 大久保は、自分が行って何があったか確かめてみるととりなし、許可を経て、西郷を追って大坂へ。4月6日、大久保は大坂に着き、久光は兵庫に移動します。
 西郷と大久保は、京都郊外の宇治で落ち合い、緊急事態になっていることについて話し合います。大久保はすぐ藩主に報告するため兵庫に引き返しますが、実はそのとき、久光はすでに西郷の捕縛命令を出していました。
 浪人志士が集まって叛乱を企てていることは、このころには久光の耳にも入っていました。密偵を大坂に放って調べさせた久光は、西郷が浪人たちをかたらって謀略をおこし、自分を陥れようとしている…と、悪意の解釈をしたんですね。
 そうとは知らぬ西郷は、7日、大久保の後を追って兵庫にやってきます。
 西郷は、実はなみなみならぬ決意を秘めて久光に直談判にやってきたのですが、西郷を迎えた大久保は、久光の心証がフォロー不可能なほど悪くなっていると知って絶望しています。そのタイミングでの西郷の登場に、もう死刑になるにちがいない、自分も生きていられないから、一緒に死のう、と口走ってしまいます。
 大久保を死なせるわけにもいかない西郷は、とにかく久光に詫びを入れ、縛につこうと、久光の御前に出頭。怒り心頭の久光に、ただちに処刑を命じられても仕方ないところ、場所はアウェーであり、西郷ファンの過激藩士が周囲にゴロゴロしている状況から、とくに罪一等を減じて再度の流罪。それに先立って、村田新八とともに兵庫から国許に送り返されることになりました。

ウラ/西郷の決意、それは…。
 西郷が大坂に着いたとき、あたりはすごいことになっていました、薩摩藩の蔵屋敷二十八番長屋や、旅籠屋「魚太」を中心に、清川八郎、平野国臣、真木和泉守、田中河内之介ら大物や、かれらのオルグで集まったボランティア、その数3百人あまりが集結していたんですね。
 このとき西郷は、長州の過激派中の過激派、久坂玄瑞などとも会っています。
 このあたりはかなり小説的な解釈になるのですけど、西郷自身、公武周旋なんていうタルイことをやってる場合ではなく、このまま一気呵成に幕府をぶっ潰してしまうのが、亡き斉彬の悲願を達成する道なのではないかと、たぶん思った。また、薩摩を中心に結集して命をすてる覚悟で来ている300余人を目の前に、素直に感動したということもあったようです。
 なんとしてもこの人々の志を生かし、一分が立つようにしなくてはならない。ということで、これは西郷というひと特有の行動なんですが、自分をポーンとそこに投げ出してしまうんですね。「わたしの命あげます。一緒に死にましょう」と、こうなるわけです。
 もう勢いは止められない、流れに任せて、討幕に突っ走ってしまったほうがいいとフッ切れた西郷は、そのことを久光に献策しに行ったと、どうもそういうことのようなのですが…。

 このとき西郷が下手な献策をしていたら、間違いなく首が飛んでいたでしょうから、問答無用の強制送還&島流しになったのは、日本の歴史のためによかったことでした。
こうして、西郷不在になってタガがはずれたオモテ通りとウラ通りの住人は、久光の上洛をきっかけに、悲劇のクラッシュにむけて突っ走ることになります…が、その顛末は、長くなりますのでまた次回。


続きます☆


3 コメント

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Unknown (くまま)
2008-09-06 09:15:23
ああ、そういうことになっていたんですね。
いやあ、おもしろくて一気読みしました。「続く・・・」次回が待たれます。
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Unknown (sarnin)
2008-09-06 10:10:48
このあたりの薩摩の動きがごちゃごちゃして分からなかったんです。なるほど、ウラとオモテの動きがあったんですね。わたしも次回を楽しみに待っています。

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よかった~☆ (庵主)
2008-09-06 20:51:32
>くままさん
>sarninさん(いらっしゃいませ♪)

ありがとうございます~。実はわたしもここらへんの事情はよくわかってなくて、「西郷さんはなんで大坂へ勝手にいって、島流しになったのかな?」とか、漠然と思ってたんですね。
なので、この機会にしっかりウラ・オモテを把握できてよかったです。
この入り組んだ事情を、サクッとわかりやすく解く方法ないかな~と思って、今回はちょっと苦心したので、コメントいただけて嬉しいです。
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