石和の鵜飼は・・・、800年の伝統を今に伝えています!
石和温泉郷伝統の笛吹川の鵜飼は、古式ゆかしい「徒歩鵜(かちう)」です!
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笛吹川 石和の鵜飼「徒歩鵜」と観賞の風景
徒歩鵜(かちう)とは・・・、
ウイキペディアによると・・・、笛吹市の笛吹川や有田市の有田川で行われる鵜飼は、徒歩鵜(かちう)と呼ばれ、これは小舟を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽の鵜を操り、直接浅瀬に入って漁をする古式の鵜飼漁法である。
鵜飼をする人を「鵜使い」または「鵜匠(うしょう、うじょう)」と呼ぶ。
・鵜匠の衣装は、風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。
・通常の漁期は、5月半ばから10月半ばまでの、満月の日以外の日に行われる。
注)満月の日は篝火(かがりび)に集まって来るアユが月明かりに惑わされるのを避けるため。
参考:有名な長良川の鵜飼のように、鵜飼船(小舟)を使う鵜飼いが一般的に認知されているが、1人の鵜匠が5羽から12羽程度の鵜を一度に操るので、徒歩鵜より効率は良い。
注)長良川の鵜飼は「御料鵜飼」にも指定され、宮内省(現宮内庁)式部職の鵜匠が計9人いて、累代世襲で受け継がれている。一人の鵜匠が12羽の鵜を操っての漁法は流石に皇室御用の鵜飼です。1300年の歴史を遡る。毎年5月11日~10月15日のアユ漁のうち、宮内庁の御料場で行い献上する漁を「御料鵜飼」という。
明治神宮や伊勢神宮へも奉納されている。
ちなみに、有田市と益田市を除く全国11ケ所の鵜飼に使われる鵜(ウ)の全てが海鵜(ウミウ)で、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用しているようです。注)カワウは天然記念物だが、愛知、岐阜では大量のカワウによるアユの食害が深刻化しているて、岐阜県では有害鳥獣として駆除が認めらている。
注)島根県益田市の高津川で行われる鵜飼いは、日本で唯一「放し鵜飼」と呼ばれるもので、鵜に手綱をつけずに行う漁法で、あくまで鵜匠の生計のため。漁期は一般の鵜飼が終わる秋頃から翌初春にかけて行うようです。
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山梨県(甲斐国)、特に笛吹市は、「甲斐国1000年の都」として、往古は甲斐国の中心地にあり、さまざまな歴史と史蹟を残すところです。
”石和に伝わる夏祭り恒例の「笛吹川・石和鵜飼」を観賞!
この夏、”鵜飼”ゆかりの史蹟と・・・、イベント”石和鵜飼”を観賞したので紹介します。
2011年8月4日(木)20PM~21PM
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石和の鵜飼は「徒歩鵜(かちう)」という古式ゆかしい技法!
静々と流れる笛吹川の清流を舞台に、”河畔の薪能”を観賞しているような幽玄の舞台の雰囲気がありました!
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鵜飼について、もう少々調べてみました。
【鵜飼漁法が行われていた地域】※参照ウイキペディア
鵜飼・鵜飼い・鵜養(うかい)は、鵜(う)を使って、アユなどを獲る漁法の一つで、中国、日本などで行われている漁法であると紹介されている。ヨーロッパでも16~17世紀にはスポーツとして行われていたようです。
日本では、①山梨県笛吹市(笛吹川)、②岐阜県岐阜市(長良川)、③岐阜県関市(長良川)、④愛知県犬山市(木曽川)、⑤京都府京都市(大堰川)、⑥京都府宇治市(宇治川)、⑦和歌山県有田市(有田川)、⑧広島県三次市(馬洗川)、⑨島根県益田市(高津川)、⑩山口県岩国市(錦川)、⑪愛媛県大洲市(肱川)、⑫大分県日田市(三隈川)、⑬福岡県朝倉市(築後川)注)⑬は17世紀前半まで徒歩鵜(かちう)が行われていた。
以上の11都道府県、13ケ所が伝統的な鵜飼漁地として伝わっています。
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石和市役所PRポスター抜粋 「全国鵜飼マップ」
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【鵜飼の歴史】
鵜飼は、奈良時代「日本書記」(720年)神武天皇の条に「梁を作って魚を獲るものあり、天皇これを問う。対えて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、これ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と養鵜部が見え、「古事記」(712年)天皇の歌にも鵜養のことを歌った歌謡が載っているくらい鵜飼の歴史は古いようです。
また、中国の史書「隋書」開皇20年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として「小さな輪を鳥に掛け日に100匹は魚を獲る」と記されているそうです。・・・ウイキペディアは、ここまで詳しく調べてあるので勉強になります。
特に、平安時代の延喜年間(901年~923年)になると、当時、長良川河畔に七戸の鵜飼があったのを、国司藤原利仁は、そこから鵜飼アユを献上させ、時の天皇に取り入って、七郷を鵜飼に要する篝松の料として賜り、「鵜飼7郷」と呼ぶ領地を得た話など、鵜飼のアユが天皇への献上魚として有名になったことで、公家や武家の中にも鵜飼が流行っていった歴史があるようです。
安土桃山時代以後は、幕府や各地大名によって鵜飼が保護され、鵜匠と魚場の確保は、大名のメンツにかかわって行われていたようです。
当時のアユ漁としては、鵜飼漁法は、魚に傷がつかず、鵜の食道で一瞬にして気絶させるため、鮮度を保つ効果もあって、特に献上品として珍重されていたようです。
明治23年(1890年)には、長良川の鵜飼アユは明治天皇の大膳職に上納され、宮内庁のアユ漁の御猟場にお編入されたことで、長良川の鵜飼だけは保護が続いていった歴史があります。反面、明治維新で各大名が衰退したため、各地の鵜飼は次第に減少していったようです。
現在の鵜飼は、漁獲効率の良い漁法ではないため、観光客が屋形船や桟敷からそのショー演出を観賞して楽しみ、アユ料理でもてなす観光事業として行われているところがほとんどです。石和でも、観光イベントとして保存しています。
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”能”の「鵜飼」は、ここ石和の鵜飼山遠妙寺が発祥の地!
江戸時代の娯楽と云えば、歌舞伎、浄瑠璃、能、浮世絵などがあり、その題材として人気があったものの中に、「日蓮もの」があったようです!
詳しくはわかりませんが、能の「鵜飼」はその「日蓮もの」で、大評判を呼んだ舞台であったようです。五番目もの、鬼もの、太鼓ものに分類され、禁漁の罪を犯したために殺された漁師の悲劇と、その鵜飼の業の見事さ、そして法華経による救済を描く、旅僧が石和を訪れることから始まる物語。
ウイキペディア掲載抜粋
鵜飼の業の面白さを見せることに主眼が置かれた素朴で古風な物語(曲)と評されていたそうです。
原作は、榎並(えなみ)左衛門五郎が作り、後に、世阿弥(ぜあみ)元清が改編したもので有名になったようです。
謡曲「鵜飼」のあらすじ・・・、※ウイキペディアによる
安房の国清澄出身の僧(ワキ)が、従僧(ワキヅレ)を伴い、甲斐国石和を訪れる。一行は、所の男(アイ)に教えられて、川辺の御堂で一晩を過ごすことにするが、その夜、松明を持った鵜飼の老人(前シテ)が姿を見せる。話すうちに従僧が、かつてこの地を旅した時、よく似た鵜使いの老人に一宿一般の恩を受けたことを思い出すと、その老人は「その鵜使いは後に、禁漁の石和川で鵜を使って漁をしたため、村人たちの処刑にあい、簀巻きにされて川に沈められて殺されました」と語り、実は自分こそがその死んだ亡霊なのだと名乗る。老人は僧の求めに応じて、懺悔のため、かつての鵜飼の業を披露する。その面白さに、老人は殺生の罪を忘れて酔いしれるが、やがて闇の中に姿を消す。改めて、所の男から事情を聴いた僧たちは、河原の石に一字づつ「法華経」の経文を書き、それを川に沈めて鵜使いの老人を供養する。するとそこに、地獄の鬼(後シテ)が現れ、鵜使いが無事に成仏を遂げたこと、そしてそれを可能にした「法華経」の有り難さを称えて舞う。・・・というあらすじです。
この石和郷に伝わる伝説では、その僧侶が、出身が安房国清澄であること、向かう先が甲斐国石和であることから、身延山久遠寺を開いた日蓮上人をモデルとして作られていると言われています。また、従僧は鵜飼山遠妙寺に伝わる日朗、日向上人、そして鵜飼の老人は、鵜飼山遠妙寺で弔われている鵜飼勘作翁といわれ、まさに、日蓮上人実名の伝説は、謡曲「鵜飼」のあらすじ通りに伝えられているのです。
余談ですが、なぜ、日蓮上人の名が謡曲には出てこないのか?ということについて、「高僧の効力より、広く仏教の功徳を説こうとしたため」という説が有力のよう。
尚、舞台となった石和川は現在は笛吹川と呼ばれ、かつては、鵜飼川の名もあった。現笛吹市石和の「鵜飼山遠妙寺」には、鵜飼漁翁勘作という漁師が日蓮に救われたという能と同様の伝承、また勘作を祀る御堂があって、毎年9月16日に川施餓鬼が行われている。この時期に”薪能”があるらしいので、一度観たいと思っています。
また、【甲斐名勝志=江戸時代萩原元克著】によれば、この地に落ちて来たといわれる平時忠をモデルにした同様の話が伝わっていて、即ち、鵜飼勘助は落人で名を変えた平時忠であったとする話もあるのです。
石和に伝わる平時忠(鵜飼漁翁勘作)伝説・・・、笛吹市観光商工課パンフレットによる
鵜飼勘作とは、元の名を平大納言時忠といい、平清盛の北の方ニ位殿の弟。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した時、時忠が三種の神器の一つ「神鏡を朝廷へ奉還したことが認められ、一命を助けられて、能登の国へ流罪された。しかし時忠にとって、この地は安住の地ではなく、能登を脱出、遠く甲斐の国へ逃れて来て、この石和郷に住みついたと伝わる。公家時代の遊びで覚えた「鵜飼」業とするようになって、ある日、南北十八丁三里の間殺生禁止になっていた当時の「法城山観音寺」の寺領を流れる「石和川」で漁をしたのが見つかって、村人に捕えられ、簀巻きにして岩落としの水底に沈められて処刑された。以来、亡霊になって昼夜苦しんでいたところ、巡教行脚の日蓮上人の法力お蔭で成仏得脱できた。・・・という話です。
時忠伝説は、面白く、”謎々の如く”、物語は夢が広がりますネ!
ウイキペディアでは、時忠は文治5年(1189年)能登国の配地で生涯を終え、墓は石川県珠洲市大谷町則貞の国道249号線傍にあると記しています。
そもそも流罪地を脱出することは、即死刑になるので、そこから先は脱出しても記録にあるはずがないし、鎌倉源氏の時代になって、甲斐源氏が治める甲斐の国に落ちる話も面白いが、だからこそ永遠のミステリーで・・・、江戸時代になって世の平穏が保たれると、庶民の娯楽として、能、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵が流行した時代に、「平家の落人や義経伝説など源平合戦物語」などは、特に津々浦々でもてはやされ、そこに人気の「日蓮もの」の題材が重なることで、現代では、内田康夫のミステリードラマになりそうな題材になったものと思われます。ミステリーだからこそ、伝説として歴史に残るものもあり、伝説も大切にしたいものです。
このような伝説は、これ以上追及しない方が面白いですから、この辺で!?
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鵜飼の発祥の地・・・、石和の「鵜飼山遠妙寺」!
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左:鵜飼山遠妙寺本堂 右:鵜飼山遠妙寺山門
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鵜飼の亡霊済度の霊跡宗門施餓鬼根本道場鵜飼山遠妙寺・・・、今流で言えば、当時としては、わかりやすい宣伝力に富んだタイトルだと思います。
宗派は日蓮宗。本尊は十界曼荼羅 ※仁王門は市指定文化財。
創建:日蓮上人は川のほとりに塚を作ってこの地を去っているが、その後、本覚坊日養(にちよう)が鵜飼堂を建て、さらに日梵(にちぼん)が明徳元年(1390年)に場所を移して、堂宇を建立した。これが石和山鵜飼寺、現在の鵜飼山遠妙寺となっている。
この鵜飼伝説のお蔭で、遠妙寺は、日蓮宗の中でも、身延山久遠寺と並ぶほど江戸への出開帳が多かったようです。
鵜飼山にある由緒書きでは・・・、
文永11年(1274年)夏(≒約730年前)、宗祖(日蓮上人)が身延へ御入山の後、草庵が完成する迄の間約1ケ月、甲州御巡教の旅に出立された時、「日朗、日向両上人を従えられ石和の里鬼苦ケ島の辻堂に休息し給いしに、はしなくも鵜飼漁翁の亡霊に面接、亡霊の懺悔の物語を愍然(あわれ)に思われ説法教化、これを済度し給ひ、さらには、日朗菩薩は石を集め、日向は墨をすり、宗祖自ら筆をとられて、法華経一部八巻、69380余文字を三日三夜にわたり、一字一石の経石に書写して、これを岩落の水底に沈め、川施餓鬼供養を修して、彼の亡霊をして成仏得脱せしめ給う。即ち宗門施餓鬼根本道場也」と・・・、これが、鵜飼山遠妙寺の略縁起となっている。
寺宝の「七宝の経石」は、現在、本堂に置かれていて、参拝者は観ることができる。これは、川施餓鬼の際、日蓮が字を書いた石といわれ、「南無妙法蓮華経」という七文字がそれぞれに書かれている。
その他に、普段は見せてもらえないが、日蓮が川施餓鬼で供養している様子を描く「鵜飼漁翁済度の図」、「鵜飼山録由」、「鵜石と魚籠(ビク)石」、「鵜飼参考謡本」、などが納められている。
山門をくぐると左手に「石和温泉七福神」の大黒天、後方に鵜飼翁の供養塔、奥に鵜飼勘助の五輪塔がある。仁王門は寛政年間(1789~1800年)の再建だが、実は未だに完成をしていないようです。仁王像(180cm)は見ごたえがある。
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お硯(すずり)井戸・・・お硯水
鵜飼山遠妙寺による由緒書によると、この井戸は、日蓮上人が錫杖(しゃくじょう)によって穿(うがつ=掘る)たれた井戸と伝えられている。明治40年の大洪水により埋没したため、その後復旧して、今日に至っている。
注)古事の読み方は辞典ベースでご容赦下さい。正しい読み方がある場合は教えて下さい。
笛吹川畔には、鵜飼伝説にある日蓮休息の御堂(祖師堂)跡が復元されて、川施餓鬼供養の法華経を書くための硯の水を汲んだ井戸があるところです。
当時の元石和川(鵜飼川)は、法城山観音寺領域はもとより石和一帯までも大洪水で流失したため、現在の笛吹川の位置と異なるらしいが、伝説に基づいて復元された御堂(祖師堂)です。ここに湧き出る井戸水は当時の硯の水を汲んだ思いが蘇る所縁の井戸水です。
この硯水は霊水とされて、題目を誦えれば即ちその勢いを増して迸(ほとばし)ると、また醸造に用うれば芳醇四海にあまねく銘酒となるという。
この水を汲み符水(ふすい=神仏の加護を約束する)となすもの多しと伝わっていると解説されています。
・ 旧蹟 御硯水の由緒 御硯井戸
”岩落”は現在地から、東方百メートルの地(対岸中央園芸社の前とのこと)に、相生の老杉があり、その西側(手前のせせらぎあたりらしい)元鵜飼川の本流に岩石そばだち水が衝(つく)り滝の如くに落ちたので「岩落」と称したとある。
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追記:
【笛吹川・石和鵜飼】
笛吹川「石和鵜飼」は、笛吹市が全面的にバックアップして、観光振興の夏祭りイベントとして取り組んでおり、昭和51年(1976年)に観光イベントとして復活して以来、石和温泉郷に宿泊するお客様の人気イベントになっています。
期間:7月20日(水)~8月19日(金) 毎週水、木、土、日、18回の催し
鵜飼の観賞は約50分、その後、納涼花火約10分 20PM~21PMのイベントです。
ちなみに期間中、訪れる観光客は約15000人とのこと。
石和温泉郷の旅館宿泊客が夕食を終えた時間に、各旅館からの送迎バスがあります。
お客様に配慮した旅の想い出に残るイベントだと思います。
全て野天の自由席(河川堤防を兼ねて造成された野天観覧席は特等席)で、観覧料は無料
注)無料で行う「伝統イベント」は観光振興と地元民の憩いを願う笛吹市の熱意の結晶ですネ!
案内は、http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp
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付録:石和温泉郷の夏のホスピタリティーイベント=笛吹川の納涼花火
鵜飼開催の期間中18回、8月21日は石和温泉「花火大会」がある。桟敷予約受付中。
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