新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・旧松里村を辿る⑩昔は競馬の里、今は長閑な住宅地「上井尻」を歩く!20-11

2020-11-01 | 山梨、里山の美しい四季!

甲州・旧「松里」村を辿って、「上井尻」へ辿り着いた。

「上井尻」は、現甲州市塩山の中心地に近い・・・。

閑静でお洒落な住宅地になりつつある・・・。

旧「松里」村もかなり広く、美しい山里を堪能しました!

大いに旧「松里」村の山里の風情と歴史を学びました。

移住10周年でも、まだ初めて訪ねるところがあるので、

後期高齢者になっても、元気に、探訪を続けています。

今号は、旧「松里」村の一つを構成した「塩山上井尻」を

訪ねてみます・・・!


「上井尻」は中世は「井尻郷」!象徴は「諏訪大神社」!

中世「井尻郷」時代から、氏神として祀られた現塩山上井尻の「諏訪大神社」!

「諏訪大神社」と呼ぶからには、かなり広範囲に及ぶ郷村の鎮守

を目的に勧請されたことだと思います。

一見して「大神社」往時は”だいじんじゃ”と呼ばれた印象が残る!

甲斐国志によれば、社地2171坪、同村、東方及び塩山向嶽寺前、

三日市場、下市場等の氏神なり。・・・・と記され、広域に寄与!

社記に曰く、人皇四七代淳仁天皇の御代・・・

神社の鳥居前に立つ、「諏訪大神社由緒」によると・・・、

御祭神: 建御名方命(たけみなかたのみこと)

     事代主命(ことしろぬしのみこと)

     岡象女命(みずはのめのみこと)

社記に曰く天平宝宇元年(757)南方戸美神社を勧請。

注)南方戸美神社とは日本書紀における信濃国諏訪郡(現長野県

諏訪市)「建御名方富命」を祀る「諏訪神社」より勧請された

と云う※「南方」はミナカタ、「戸美」は「富」のこと。

同4年夏大いに旱る。朝廷より祈雨の祈祷仰付あり、同殿に

岡象女命(みずはのめのみこと)を祀り祈祷す。

たちまち感応ありて、天の真名井の元の水振り給う。

因ってこの時より、郷名を「井尻」と云う。

亦豪雨御手洗に満ち蟹数多集まり住む、因って近辺字(あざ)名を

蟹沢池(がんぜき)と云う。今尚存せり。

年間恒例蔡:

1月1日   歳旦祭 1月16日 的まつり(幕目の神事)

2月17日  祈年祭 4月第一日曜日 氏子人祭

7月16日  夏越の祭(茅の輪くぐりの神事)

10月15日 例大祭 11月23日 新設感謝祭

注)由緒解説:

「松里の昔ばなし」によると・・・、

蟹沢池:今はないが、里人の年配の方は「がんぜき」と呼んだ。

昔、大きな池があり、この池には澤山の蟹がいたことから、蟹沢池

(ガンゼキ)と呼ばれていた。「昔、旱(日照り)に困っていた時、

岡象女命(みずはのめのみこと)を勧請し、雨乞いをしたら、池が

できるほど雨が降り、蟹が澤山住み始めたと云う。

里人は「ガンゼキ」と呼び、池がなくなってからも、今も名前が

残っている地名です。そこには、井尻郷の百姓娘と隣村の名主の息子

との悲恋話が伝わり、二人が池に身を沈めた翌朝、里人が池を覗くと

大きな蟹が二匹仲良く遊んでいて、誰云うとなくその池を蟹沢池と

呼ぶようになったと云う。

そのあたりの地名も「がんぜき」と呼ばれるようになったそうです。

※YS記知見:「がんぜき」は、地元の灌漑用水として貢献したよう

だが、旧「松里」村を辿ると、甲州市の北端・滑沢、柚木辺りから、

藤木、小屋敷、三日市場に至るまで、豊富な笛吹川の本流を活用し、

あちこちに「堰(せき)」が整備され、今でも飲めそうな清流に

恵まれていることが目に映る。所謂、インフラが往古から整備されて

いたのです。尚、里人の飲料他、生活用水のインフラにもなっていた

注)旱(ひで)る。日照りの意。往時は屡々干ばつにあったと云う。

神社やお寺も雨乞い伝説があるのは、奈良時代以降の記録に多々ある。 


「上井尻」の長い歴史の証人であろう「諏訪大神社」・・・!

現在も、上井尻地域の氏神「諏訪大神社」の鳥居と本殿は、荘厳の中に建つ!

塩山市史:「上井尻」の項によると・・・、

西方の北に「諏訪大神社」があり、東方と塩山(向嶽寺)境門前、三日市場

のうち下市場組の産土神(氏神)であり、また西方にあった「鈴木明神」は、

「下の諏訪」とも呼ばれていたとも云われる(甲斐国志)。

注)「下の諏訪」は、物知りに尋ねるも・・・、今は誰も知らない。

東方に同派「西光寺」が、西方に同派「清水寺」があった。

浄土真宗受得寺は廃絶。明治8年(1875)藤木、小屋敷、三日市場村と

合併して「松里」村となる。と記される。注)現在、受得寺は再興している。


「諏訪大神社」の本殿・・・!

穏やかな神社境内には・・・、”荘厳の気”が漂う・・・!


「秀森山清水寺」は、秀森山の山頂に立つ・・・!

「秀森山清水寺」には、”山頂を仰ぐお堂”、まさに信仰のお堂(六角堂)が・・・!


「秀森山清水寺」の「六角堂」には、観音(伝行基作)が安置され、天空へ祈りが!

※本尊「如意輪観音菩薩」。雨乞六地蔵(元禄5年)、庚申塔(宝永5年)等石像あり。

甲斐国志3-235によると・・・、除地1段2畝歩。秀森山高さ45丈

周囲10町歩余り。四方皆耕田なり「雁喰場(がんくいば)」と称した。

寺伝では、行基菩薩が諸国行脚でこの地に立ち寄った際、樹林の中から

お経が聞こえて来て、そこに湧き出る清泉があった。その水中には、

「如意輪観音が輝いていたので、歓喜して即座に尊像を彫刻し、祠を建て

安置した」と伝わる。以来、秀森山の観音霊場、甲斐国観音三十三番

札所として信仰される。

本山2世通宝和尚の法孫厳恵雲和尚を中興開祖としている。※甲斐国寺記参照。

明治6年(1873)「秀森学校」を開き、明治20年「松里尋常高等小学校」

第一分教場となって、後(明治に、現在の「井尻小学校」に変遷している。

YS記:地元では「秀森(ひでもり)山」は特に有名。注)山号の訓読みは珍しい。

当初、筆者は「きよみず」寺?かと思ったが、「しょうすい」寺と読むようだ。

「せいすい」寺は検索文字にはあるが、「しょうすい」寺と呼ぶのも珍しい。

注)移住して以来、甲州の寺院と神社の基礎調査データ化を始めたが・・・、

その当時、現住職をお尋ねし、たわいない質問をしたのを想い出すが・・・、

2009年以来古文献を調べ、数年掛けて実施調査して、不明が多く頓挫中。

※甲州市在寺院神社数は、古文献中では神社102,寺院297、計399軒。

なれど・・・、現在、約半数は所在不詳(所在確認データなく)につき中断中。


「松里の昔ばなし」では・・・、「秀森学校」であったと紹介!

「秀森山清水寺」の庫裏は、その昔、「秀森学校」として、上井尻の教場であった!

明治6年9月義務教育法が施行されて、井尻地区は「秀森山清水寺」に

最初の学校が開かれた!明治20年4月1日松里尋常高等小学校第一

分教場である。清水寺の庫裏を二つに仕切って教室とし、複式教育で

勉強を教えていた。狭い庭で運動会も行われ、オルガンがなかった時代、

(音楽は、)先生がバイオリンで教えてくれたと云う。

当時は4年生迄で、5年生から本校「松里小学校」へ通ったと云う。

明治25年5月5日第一分教場を井尻組に設立。

明治43年9月30日現在地に井尻教場を・・・、

和29年4月1日に、「井尻小学校」として独立した。

・・・『松里のむかし話』より参照。


昔、校長先生曰く、「秀森山は井尻小学校史」の始まり!

明治25年、「井尻小学校」は、「秀森学校」の第一分教場を井尻組に設立。 

明治25年5月5日第一分教場を井尻組に設立。

明治43年9月30日現在地に井尻教場を・・・、

更に、昭和29年4月1日に、「井尻小学校」として独立し、現在に至る。


「松里の昔ばなし」によると・・・、「井尻の競馬」があった!

井尻小学校の西寄りは昔は雑木林で、「諏訪神社」の境内に続いていて

寂しい場所であった。現在の県営住宅の北側に円形の”馬場”があった。

周囲の柵は木の杭を打ち込み、杉丸太を結び巡らした馬場で、立木を利用

した桟敷まで作って、当時としてはなかなか立派なものであったと云う。

村内でも相当高価な馬を買い入れて、競争して足の速い馬の飼育に励んだ。

競馬が開かれる季節になると、村内、近郊近在はもちろん県下より同好の士

が駿馬を連れて集まり、賑やかな競馬が挙行されたと云う・・・。

競馬が廃止されてからも、馬場だけは数年残っていて付近の子供達の遊び

場であったと云う・・・。・・・「松里の昔ばなし」参照。

YS記:今は、”馬場”を懐かしく語る方もなく、知る人も見あたらない。


「上井尻」に現存する「栗洞山受得寺」の境内地・・・!

真宗大谷派「栗洞山受得寺」の参道と正面に本堂!

浄土真宗東本願寺派(大谷派)。 本尊は阿弥陀如来像。

江戸時代、天保年間(1830~1843)創建。

甲斐国志3-235 除地3段28歩。

慶応2年本堂、庫裏等焼失。同3年本堂仮普請。

一時、廃寺になった時もある。七高僧と親鸞の掛け軸が保存されている。


真宗大谷派「栗洞山受得寺」の本堂と庫裏!※境内には、広い墓地と果物畑!


「上井尻」探訪の編集後記:

「上井尻」は、中世には「井尻郷」のうちにあり、近世に山梨市下井尻と

塩山市上井尻に分離されている※現、甲州市塩山「上井尻」である。

塩山上於曽村の西にあり、南は下井尻村(現山梨市)。

北は三日市場村。地名は用水の井路にちなむと云う。(甲斐国志)

注)地名の由縁は、前述の『「諏訪大神社」の由緒』にも記される。

所謂、「上井尻」は明治時代に「松里」村に編入された最南端の村域だ。

見聞によると・・・、この「上井尻」が「枯露柿」発祥の地と云われるが、

現在も、「松里」産を名乗れる地域であることは事実である・・・。

東山梨郡誌によると、武田信玄の奨励により、生産が始まったと云われ、

江戸時代には、甲州産の産物として幕府に献上される他、江戸市中にも

出回り珍重されたと云う。松里地区上井尻が甲州百匁柿を使用した

「枯露柿発祥の地」として知る人ぞのみ知る・・・!

YS記では、もしかしたら現在の「松里の枯露柿」は、甲州百匁柿を育てる

柿樹の台木のことを知る必要があるが・・・、研究の余地はあると思う。

注)筆者は、枯露柿の歴史的発祥は鎌倉時代、二階堂道蘊が1330年に、

往時の自宅を提供してまで、「恵林寺」を創建するに際し、夢想国師を招聘

するにあたって、夢想国師の乾徳山岩窟修行の際、「命の糧」にしたと伝

わるアマンドウ(豆柿)の乾し柿が原点(台木)ではないかと考察している

ので、後日になるが、枯露柿の発祥についても、正しく学習したい。

造詣の深い方にぜひ教えを乞いたく!

そもそも、夢想国師の乾徳山中での岩窟修行伝説は寺伝のみで、史実は

なく・・・、また、時間がかかるので・・・、改めて・・・!


その他、「上井尻」には、向嶽寺の先に「花とり地蔵」等の昔ばなしがあるが、

東側田園の中の畦道にあった高さ三十糎くらいの坐像のお地蔵さん・・・、

「花とり地蔵」と呼ばれていたようだが、近代になって、この地蔵さんは、

何時の間にか、地蔵さんも失せ、「昔ばなし」ですら失せてしまったという

ので紹介は省略します。

次回は「旧松里」村シリーズの最終回になるので、このように、今は忘れら

れた話や三日市場の廃桂林寺のように甲斐国志に記されるけど、地元で

は”不詳の謎”のままになっている話などを「まとめ編」で、・・・シリーズの

編集後記として、「まとめ」てみたいと思っています。

そろそろ、来年のシリーズのネタ探しもしなければなりません。

まさに、”光陰矢の如し”ですね!


 



コメントを投稿