甲州「松里」村の中心にあった「三日市場」。現甲州市
塩山三日市場は、地名の由来となった「三日市場」が、
「恵林寺」創建後の鎌倉末期~室町初期と考えられ、
戦国期(武田時代)は、恵林寺領に属し、恵林寺門前
の市場として開設されたであろうと云われている。
地名辞典243p塩山市の項。
今号は、旧「松里」村の中で、最も中心的な位置にあった
「三日市場」「第2編」として立寄りスポットを紹介します。
「三日市場」は「機山ワイナリー」を起点がベター・・・!
あとは、”歩いて観る”ことを・・・、お勧めします!
先ず、現「三日市場」の中心地にある①重要文化財「土屋家住宅」に立ち寄る!
重要文化財「土屋家」住宅は、明治初期、現土屋氏の曽祖父が建てたと云われ、
国土の歴史的景観に寄与しているとして、重要文化財に指定された建造物です!
現甲州市塩山三日市場3313-1にあり、往時は養蚕のために、二階屋根上に
突き上げ屋根の三階部分と、越屋根の四階部分を重ねる外観が特徴・・・!
中央に玄関。左前面側には10畳間を三室並べ、その北には中廊下を配す。
邸内には、母屋の裏手に米蔵、文庫蔵、切妻造二階建、桟瓦葺で桁行7.6m、
梁間3.6mの規模で、当初は小作米を納めていたが、昭和30年代からは、
一階をブランデー醸造に利用している。他邸内には麹蔵(桁行7.1m梁間3.0m)
切妻造、桟瓦葺の土蔵で、地域の大規模農家の営みを今日に伝える。
その他、裏門、座敷門や塀は質の高い近代民家の景観を形作っている。
以上のように甲州市文化財課で紹介。先ず、”一見の価値”があります。
現在は「機山ワイナリー」を営んでいて、観光客も気軽に訪れることができる。
「三日市場」散策の”お薦めスポットの起点”です。
「三日市場」の「機山ワイナリー」は、起点に相応しい”お薦めスポット”です!
この広い屋敷へ入ると、右手に売店があり、ワインの試飲コーナーもある。
ここで、周辺観光スポットの情報収集も出来ます・・・!お薦めです・・・!
先ずは、②「恵林寺」の拝観と③「一休庵」でお茶休止を・・・、そして散策を・・・!
「三日市場」の”「秩父往還」古道の散策”と、お立ち寄りスポット紹介!
※④「岩波農園」は地元で有名なころ柿農家ですが、12月頃が”旬”なので省略。
⑤山本勘助不動尊:※流石に”信玄公”ゆかりの地。”信玄”の軍師”山本勘助”を祀る。
不動尊の写真は省略しますが、現地解説版には写真入りで紹介。
※お薦めの散策路、第1小休止ポイント。
⑥「安田稲荷社」には、あの「安田義定」が祀ってある・・・!?
現「安田稲荷社」の境内は広さを感じる!静かな”荘厳さ”を感じるのも良い!
「安田稲荷社」を訪ねると、広い境内を有す「稲荷社」であったことが想像できる!
「安田稲荷社」は、あの「安田遠江守従五位上源朝臣義定、所謂「安田義定」を
往時、「稲荷大明神」として祀ったものです。社地は往時、約1000坪あったと云う。
注)本ブログ18年9月号~2019年12月号まで、「安田義定」はシリーズで紹介した
ものです。詳しくは、バックナンバーをご覧下さい。
⑦「井尻堰」は現在も流々とした清流が流れる!堰の石積みは往古のもの・・・。
「井尻堰」は、本流「笛吹川」から取水し、今も流々と水を配している。
ここを通る古道が「秩父往還」の古道・・・。松里史蹟研究会の解説版によると、
「甲斐国志」にも記される別名「四ヶ村堰」と呼ばれ、上井尻、下井尻、塩後と、
現山梨市にも供給した貴重な水インフラ(田畑のみならず生活用水としても必須
の堰(せき=地域用水のインフラ)であったという。
この堰は甲州市文化財課によると「条里制」にそったものであり、律令時代(7世紀)
には開設していた可能性もあると云われる。
注)古代の堰だとも云われ、筆者も好きな散策路の一つ!
今も流々と清流が流れて、心も洗われる・・・!
この堰の左側角地にある歴史由緒伝わる網野家住宅(網野新五左衛門屋敷は、
累代子孫が継承し現存)は、往古(武田時代)よりこの地域を治領した「武家屋敷」。
この旧家は現役で、「武士原」に立地して、歴史環境の豊かなところである。
現在の網野家は、塩山市誌によると、三日市場字武士原にある網野末彦氏の
宅地と畑などが往古の網野氏の屋敷址と推定され、形状はほぼ正方形の区画が
認められ、屋敷内の北側には東西に長く、高さ約50cm、長さ約47mの土塁の痕跡
が残る。北側のこの土塁に接して、五輪塔、宝篋印塔群が十数基あり、墓地を形成
していると記してあるが、当日は不在のため取材できず残念だが、ご容赦下さい。
塩山市誌に記される往古「網野新五左衛門屋敷」址は子孫により後継されている。
昭和58年から山梨県内で一斉実施された「中世城郭分布調査」によって証された
「三日市場」の旧家で、「甲斐国志」の「網野新右衛門」項に動向を記している。
初見は、永仁2年(1293年)の熊野神社棟札に「国主源之臣武田五郎信長代官
網野外記助宗明、同宗吉」と見えるようだ。
網野家所蔵の弘治元年(永禄11年)等の武田家印判状によれば、網野氏は”調衆”
と見え、「武士原之郷」に家1軒を免許されていて、武田氏滅亡後も天正10年12月
に発行された徳川家印判状でも同様に認められているとのことで、「三日市場」が、
それほど重要な立地であった!と改めて教えられる!
現網野家の敷地がその屋敷址と推定され、外から井尻堰をみると、如何にも武家
屋敷址で「中世城郭分布調査」に列記されるに相応しい場所であると考察できる。
左岸の仏師原に立地しており、南側に「武士原塁址」、北側は「名刹恵林寺」の
小屋敷地域がある豊かな歴史環境にある、と記されている。
⑧「松尾山縁瑞寺」は、往古「松尾山常泉寺」の隠居寺であった証し・・・! ?
この「松尾山縁瑞寺(えんずいじ)」であるが、常泉寺と山号が同じであるのは珍しい。
伺って覧ると、実は現栗原住職の高祖が、往古、この寺を「常泉寺の隠居寺」にして
いた処であったことが解った。
甲斐国志3-239によると、除地1反3畝1歩。同じ真宗大谷派(浄土真宗東本願寺派)
の「松尾山縁瑞寺」は、往古は真言宗で「飛龍山福蔵寺」。
開山の了恵は俗名を伊東左衛門祐晴。寺は500年以上前に創建されたと云う古刹。
創建は平安時代(寿永年間)、開山は釈了恵。
慶長11年(1606年)5世了ぜい上人の時、現在地の乙川戸へ移転されたと云う。
江戸時代に火災で二度焼失、再建をしている。
注)親鸞聖人の掛け軸が保存されていると言う!?
本尊は阿弥陀如来。観音は空海作? 本尊の台座には肥前の刻銘や作者名記。
⑨浄土真宗西本願寺派「医王山正林寺」は、如何にも”お寺さん”を感じる古刹。
甲斐国志3-239 除地1反2畝25歩。
了鉄上人により建久元年(1190)山梨郡岩手村池澤と云う字地に天台宗の寺院
として建立。後に、光寂上人の化導で真宗に改宗。
慶長11年(1605)5世了誓上人により、現在地の栗原筋乙川戸へ移転。
寺地の字地が「正林」であり寺号に。近くの医王平の地名が山号となった。
寺記によると、「了鉄上人」は、藤原秀郷一族の藤原義信の子、俗名は佐藤継昌。
寿永3年(1184)屋島の戦いを以て、帰路、播州加茂の門徒寺で剃髪、出家して、
僧侶になり、この地で開山をしている。
本尊は阿弥陀如来。天和2年、嘉永6年の2度も庫裏、本堂を焼失。
安政2年(1853)に再建とある。三日市場2940にあり、現在も好寺環境を維持。
「三日市場」は戦国期から栄えた郷である。枝郷に「乙川戸」があり、「町屋、
天王宿、大手先、下市場や武師原(現武士原)」などの小字がある。
地名の由来となった「市」の成立時期は、恵林寺創建後の鎌倉末期~室町初期
と思われ、同寺門前の市として開設されたのであろうと云われる。
注)詳細は不詳だが「九日市場」も「三日市場の恵林寺寄り」にあったらしい!?
当地は、のちの秩父往還などが交差する交通の要所で、また御嶽への登り口で
ある金峰山の「蔵王権現」(現牧丘町金桜神社)への入口にもあたり、参詣者など
の往来が頻繁であったことから繁栄したと思われる。
「三日市場」は戦国期、恵林寺領に属し、武田氏の陣屋や御蔵が置かれ、必要に
応じて「三日市場」で銭貨と交換されていたと云われる。※前号で「陣屋街道」に触れた。
従って、武田時代から、「三日市場」は栄え、主要な拠点であったことが伺える。
江戸時代になっても、そのまま引き継がれ、「三日市場」は、江戸幕府領とされ、
寛永10年(1633)には、徳美藩(十組屋敷)が置かれ、現在も「三日市場」の基点
になっている。(ブログ前号で紹介している!)
既に廃寺となっているが、往時は「恵林寺領域」であったこともあり、臨済宗恵林寺
の塔頭「精神庵」、「獅子吼庵」を始め、「浄土宗薬師庵」、「真言宗竜海寺」は今は
ない。10月号で紹介する「松尾山常泉寺」を始め、今号紹介の「真宗大谷派縁瑞寺」、
「浄土真宗本願寺派正林寺」は現存する。どの”お寺”も厳かな環境に佇む!
⑩「浅間社」は、富士の安寧を望み、特に桜の季節は桜花が爛漫です!
「浅間社」は、創建、由緒が不詳だが、径50m程の塚「浅間塚」を神社とし、地域
住民の家内円満、安産、子安、水徳の神を守護し、郷土の平和を祈念している!
※写真は古いが見事な桜の季節を掲載している!※知見が見えず不詳。ご容赦!
⑪白鬚神社は今も「三日市場」の氏神様(鎮守)として氏子に守護されている!
「白鬚神社」は、現在も三日市場の氏神様として氏子の方々が維持保存している。
現甲州市塩山三日市場2289。祭神は猿田彦命、天宇受女命、宮司日原史絵。
境内地193坪、氏子110戸。※山梨県神社庁広報に見える。由緒沿革は次の通り。
社記に曰く「人皇七十代後冷泉天皇の御代、天喜二年(1054)奥州の安倍頼時基子
貞任謀反の時、義家朝臣義光朝臣とともに、東国御通行の時、暗夜の教導の神
ありて、鈴を鳴らして導き給う。明旦に其所の松に白水干掛けり。康平5年(1062)
この所へ義光朝臣当社を給いしと曰伝う。その後、天正中恵林寺炎上の節、神殿
古書共に焼失致しぬ。御手洗の湯は眼疾湿疹、小療を治す。」とある。
「三日市場」は、往古の趣が豊かなので、寺号に続きます。「松尾山常泉寺」、
今もナウい「笛吹温泉坐忘」などを紹介する予定・・・!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます