古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第11章~雄略天皇の御代・・・、
ヤマト王権から物部氏一族と日下部氏一族も派遣されて来た!?~
序章より論拠にしているヤマト王権の雄略天皇期の時代考証のため,
今号は、東山梨郡(現山梨市)に伝わる「日下部氏」の足跡を辿る!
山梨の日下部氏一族の足跡の一つと考察される「七日子神社」
「日下部の里・・・」 甲州風土記 上野晴朗著によると・・・、
東山梨郡(現山梨市)に、有名な窪八幡神社がある。この神社は東面しているが、
神社の参道から笛吹川を東へ渡って田圃中を抜けると、日下部中学校舎が果樹園
と桑園の向こうに見えて来る。ここに「日下部上代集落遺跡」が発見されたのは、
昭和24年11月であった・・・。
「日下部遺跡」現在は日下部中学の校庭に隣接して石碑があるのみ!
昭和24年発掘当時の日下部の里の様子~日下部町誌掲載写真の複写による。
本写真は撮影者が不明で山梨市の問い合わせの担当部署が不明のまま掲載するが、
本題ではないのでご容赦。あくまで参考にさせて頂くのみ、引き続き本文へ戻る。
この遺跡は、奈良時代から平安時代の初め頃にかけての集落跡だそうである。
この辺りは、正倉院御物の「金青袋白絁(つむぎ)」の墨書きに見える「甲斐国
山梨郡可美里 は可美郷にあたるのではないかと推定され、日下部の地名も、伝説
の日下部王が住んだと云う話から、遺跡を通して調庸の白絁を貢献した日下部氏
は、恐らくこの日下部遺跡に結びつく人ではなかったかと想像されるのである。
注)日下部町誌によると、七日子神社記に日本武尊立ち寄り伝説ありと記され、
日下部氏は甲斐国造を祖とする日下部連の一族・・・?山梨市誌にも記される。
YS記自習NOTE:
古代甲斐国の歴史ロマンを辿ると、 5世紀、ヤマト王権は雄略天皇の御代、
倭国東端甲斐国の覇権統治のため、大連物部目に命じて物部氏一族を派遣
したと考えている。物部氏一族は東海道を経て若彦路を超え、甲斐国に
入国した最初の地が、武居のワカタケル封地伝説として残っている因縁で
はないかと考察している。そして武居の花鳥山一本杉から甲斐国の盆地を
見晴らすと、真正面に松本山(現大蔵経寺山)が望め、まるでヤマトの
三輪山を彷彿して感動を覚え、その南麓を本拠の館に定めたのである。
現大蔵経寺境内地辺りである。その論拠は逆説的ではあるが、御室山山頂
(現大蔵経寺山中)にあったと云う物部神社社伝に記される旧蹟物部宮の
存在そのもの。物部氏一族がその南麓に本拠の館を構えた証ではないかと
云う論拠になっている。
旧蹟物部宮は、第4章に記す通り、現在はご神体柱と石祠を祀る。場所は
第5章で述べる「奈良・養老6年に至ってあの行基が大蔵経寺旧蹟の弥勒堂
を開基した弥勒平の南方にあたる」ところで、論拠の重要ポイントになる。
本シリーズは論拠の組み立てから始まるが、その物部氏一族が最初に構えた
本拠の館は、石和の松本山(現大蔵経寺山)の南麓の現大蔵経寺境内辺りに
あったのではないかと云う論拠になっている要所です。
本シリーズは、全て古代甲斐国における物部氏一族の存在を論拠として始め
ているが、加えてその時代考証のためにも、広域だが山梨市に残る「日下部」
の地名と伝説についても書き添えなければならないと考えます。そこで、
今で云う「広域配置」だが、古代甲斐国の覇権統治のために、都から派遣
されたと考えられる「物部氏一族」を始め「山梨市に伝わる 日下部氏一族」、
「金桜神社に伝わる雄略天皇が甲斐国造塩海宿禰に命じて里宮を建立」伝説
など。注)甲斐国では時代考証は異なるが、豪族三枝氏(祖は守圀)のその
始祖は甲斐国造塩海宿禰説もあり。注)金桜神社は「甲斐国最古の甲府御嶽
「金桜神社」に金のなる木「鬱金の桜」が咲く!17-05で紹介・・・。
https://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/5686962631a8969628ebfe286748b967
何れも雄略天皇の御代に関わり、日本武尊伝説もその雄略天皇ではないかと云う
論拠にも頷けることになる。
以上、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る論拠になるので「符節」としています。
注)日下部地区は、往時はそれほど恵まれた農地ではなかったようで、むしろ後世は
桑畑が盛んになったと云うが、七日子遺跡のあった貢明神の別名をもつ「七日子神社」が
鎮座して、往時は朝廷に貢米を献上する折には、往古は此処に貢神社に纏わる古寺が
あって、その寺社の前で儀式が行われたと伝えられているほどに・・・。
七日子遺跡調査報告書に上野晴朗氏は記している。
YS記)従ってこの地域こそ、日下部氏一族が開発した米作の田園があったものと思われる。
現在では想像できないが、往古はかなり良質の米が栽培されたであろうと推測できる。
七日子粥伝説の「七日子神社」は、日下部氏一族が開発した貢米宝庫の証し!?
この辺り一帯は、後に広域に「日下部」支配の地名として残されている。
この一帯に七日子遺跡が発掘されている。日下部氏一族の名残は想像の世界のみ。
「七日子神社の由緒」・・・、「七日子粥」でヤマトの都に轟く!
第29代欽明天皇(540年)の御代、皇后堅塩媛命が御懐妊の時、天皇は勅命をもって
甲斐国に祭神「七日子の神、木花開耶姫命、大山祇命、彦火火出見尊」を祀られ、
御神田による貢米を御粥に炊いて差し上げると、安らかに皇女を御出産された。
これは七日子の米粥を御徳と思召され、御名を「豊御食炊屋媛尊」崇め奉った。
(注)和風諡号(しごう)は(とよみかけしきやひめのみこと)と読み崇めた※日本書紀
この御方が後の第33代推古天皇であると記される。
注)第33代推古天皇元年(593年)、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として
万機を摂行させたことで知られる。
日下部氏の足跡を辿ると、「古代甲斐国と日下部氏の関わり」が想像できる。
塩山市史に要約した分かりやすい項があるので紹介する。
①「古事記」に、開花天皇の孫沙本毘古(さほびこ)王は「日下部連、甲斐国造の祖」。
注)開化天皇は初代神武天皇から見て9代目(紀元前157~98年頃)の上古時代の天皇。
②「ふるさと山梨の歴史」磯貝正義著、甲斐国造の項に・・・、日下部は、雄略天皇
(457~479年)頃、皇后の草香幡被曽皇女(くさかのはたひこひめひこ)の名を付け
全国に置かれたもので、甲斐国にも日下部が設けられた。
また上野晴朗氏も同様に日下部上代集落遺跡調査報告書に、雄略天皇の御代に日下部氏
は全国に配置されたと記している。
このことは、山梨市北部の農民日下部某が、後の律令政治の世に庸か調として献上した
布に書かれた「甲斐国山梨郡可美里日下部□□□絁一疋 和銅七年十月」の文からも知る
ことができる・・・。
名代は、命名された皇族等に属し、従者、兵士等の労役の提供や生産物の貢納に従事
した一群の農民集団であるが、日下部の場合、これを中央で統轄したのが「日下部連」
である。その甲斐国へ配置された地方の管掌者が「日下部直」であったとされる。
従って、「日下部」は甲斐国における最初の名代の設置であったことを暗示している。
YS記)雄略天皇の御代、甲斐国中央に軍事力をもって物部氏一族を先兵として配置し、
続けて米や農産物等の貢納体制を整えるために、甲斐国でも早くから日下部氏が配置
されたものと云える。
③磯貝正義氏の「図説山梨の歴史」においても、異説があると前置きして・・・、
「日下部はワカタケルの時、「妃草香幡梭皇女」の名代として全国各地に配置された
と見るのが正しいであろうと記している。
YS記余談)全国各地の行政の配置の一つにある「日下部」は、甲斐国においては
山梨郡(現山梨市)、於曽郷(現甲州市の一部)等において往時の行政配置が引き継
がれていると思うと感慨深い。
今は「日下部」の名を残す「日下部警察署」などは代表的なものである。
その他に、甲府裁判所日下部出張所、日下部税務署、日下部農事試験場等の諸官衛が
明治時代に相次いで設置されている。
今は他地域に移転して名称も変わったが、中央銀行日下部支店、日下部記念病院、
日下部保健所などもあった。
古代甲斐国の時代には、現笛吹市、山梨市が如何に甲斐国行政の中心にあったかを
物語るだけではなく、同時にヤマト朝廷が東端甲斐国を統治するのに、広範囲の地域
拠点づくりを考慮したかが伺える。
七日子神社拝殿 今は七日子粥より「安産の神」としてお参りする若夫婦が多い。
七日子神社神殿、この神殿の裏にあたる畑辺りが七日子遺跡の発掘場所
今号は、石和大蔵経寺山南麓から始まったシリーズにおいて、山梨市に伝わる
「七日子神社」と「日下部」について、考察・自習NOTEを記しました。
「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」シリーズの第11章は「符節号」になります。
毎月号の1頁1章方式でも、全体を理解をして頂くのは困難だと思いますので、
筆者自身の自習NOTEの集大成のためにも、次の8月号では、まとめ符節号として、
マトリックス原図を元に、整理して見たいと思いますので機会があればご覧下さい。
今までのシリーズ課程で、もし論拠に異論がある場合は証をもってぜひご教授下さい。
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