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「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺南麓から始まった!」シリーズ最終章まとめ編18-08

2018-08-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

~5世紀、ヤマト王権は雄略天皇の御代、大連物部目に命じ倭国

東端甲斐国の覇権・統治のために物部氏一族(不詳)を遣わした。

物部氏一族は東海道を経て若彦路を越えて甲斐国へ入り、奈良原

から武居の花鳥山へ立ち寄り、甲斐国(現甲府盆地)を見渡したら、

正面北山筋にヤマトの三輪山を彷彿する松本山(現大蔵経寺山)

臨み、甲斐国統治の拠点は現大蔵経寺辺りが相応しいと見た!

故に「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山南麓から始まった!」

と見ている。そして8世紀に至り聖武天皇の御代、奈良朝廷は現

春日居に甲斐国府を開府して統治体制を整えたと見ている!

その布石に伝行基開基の古刹寺院が要衝に配置されていた!?

※2018年9月号~「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」シリーズ序章~第4章参照

今号「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」

シリーズ第12章は「甲斐国府を中心とした伝行基開基の寺院配置」

に焦点を置いて、”最終章まとめ編”を発信します。

シリーズ序章から振り返って素人の論拠と解析にお付き合い下さい

古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山南麓から始まった!~マトリックス解析~

甲斐国府と補完関係にあったと見る寺本廃寺付近から見る伝行基開基の寺院配置。


古代甲斐国は奈良朝廷の統治体制下に入り、春日居に甲斐

国府を開府。天平年間には国司田辺史広足が派遣されている。

甲斐国府の配置位置から考察すると、聖武天皇が僧行基を招聘

して仏教寺院の建立を推進したが、往時の仏教寺院は仏教思想

普及のための修験と併せて「甲斐国府」の警護も兼ねて要衝の

置に山岳寺院を配置したと見ている。


「甲斐国府」の配置を中枢に、伝行基開基の仏教寺院の配置

をマトリックス解析図を応用して見ると、警護の要衝に適した

にあることも頷ける。

代甲斐国に於ける伝行基開基の寺院配置と「国府」の補完関係解析図

 


 奈良時代741年(天平12年)聖武天皇(奈良朝廷)は僧行基を招聘し、

そのノウハウを活用して仏教思想の普及と仏教寺院の建立を推進を図った。

往時、倭国東端甲斐国にも「国家鎮護」を目的にして、仏教修験の山岳寺院を建立。

養老6年(722)大蔵経寺寺伝では伝行基開基と伝わり、それは行基作弥勒像を安置

して弥勒堂を開基。行基の安置した弥勒像が本尊となって弥勒平に建立された弥勒堂

は⇒弥勒実相院となり⇒青獅子山松本寺(七堂伽藍を構える寺院となり、仏教普及策

の広告塔の役割を果たし)⇒やがて中世、応安3年(1370第11代甲斐守護武田

信成公により室町三代将軍義満に言上して庶子観道上人を迎え、真言宗智山派として

中興開基。現在地に「松本山大蔵経寺」の七堂伽藍が建立して現在に至っている。

注)弥勒平の伽藍跡は現在は山中に平地が残るのみで、寺伝と共に享保6年(1721)

古絵図にのみ記す弥勒堂の礎石跡が証があるが、現在は現地を確かめる術はない。

※詳しくはシリーズ第5章「弥勒平編」~第6章「松本山大蔵経寺編」参照

あの行基上人は、養老年間は、朝廷に疎まれて放浪ができたであろう時期に甲斐国

に来ることができたか否かは比定できないが、殆どは畿内にいて、行基集団形成し、

社会インフラの造営や寺院建立を行い民衆の絶大な支持を得ていたとことが認められる。

天平年間になって聖武天皇の御代、行基は奈良朝廷に招聘されてから、仏教思想を

基軸にした政治体制構築のため、全国に国分寺を配置するための総本山たる東大寺

盧舎那仏の建立で勧進の功績を挙げ、行基は「大僧正」の最高位を得ている。

そのような史実を照らして見ると、天平年間には奈良朝廷にあって仏教思想の普及

寺院建立を管掌する総責任者となっていることから、往時、奈良周辺で多く彫ら

れた弥勒像(木造)を行基作として下賜し、全国的に仏教を広めたと推察される。

それ故に弥勒像安置の伝行基開基寺院が伝わる。古代甲斐国ではその前後に行基作

薬師像を安置する寺院も建立されており、伝行基開山ではなく、伝行基開基となる

古刹寺院があるのは、そのことが由縁であると考察される。 


往時、甲斐国中央部にあった伝行基開基と伝わる古刹を注視!

伝行基開基となる現大蔵経寺山中の弥勒実相院(後に七堂伽藍を構える青獅子山松本寺

=現大蔵経寺の前身)、伝行基開基の末寺菩提山長谷寺(第8章参照)、伝行基ゆかり

の廃瑠璃山鎮目寺跡(第9章参照)、また、里宮にして伝鎮目軍団駐屯地国府警護

も兼ねたと考えられる山梨神社(第7章参照)の遷座・建立。

摂社吾妻屋宮(第10章参照)、そして雄略天皇の時代に配置されたと云う日下部氏

(第11章参照)、そして現甲州市に至るが、東山の要衝に柏尾山大善寺が配置され、

甲斐国防衛のための鬼門に伝行基開基の裂石山雲峰寺、南方の若彦路方面には、行基

の時代より前に創建されている伝無音律師開山の無碍山瑜伽寺と、少し後、南方に、

甲斐国分寺、国分尼寺が建立された配置位置などを総合的に(マトリックス)考察して

見ると、上図のような寺院配置になっているので戦略的配置に疑いはない。

注)鎮目寺跡碑には行基作薬師像三体が大善寺、瑜伽寺に安置された伝承がある

ため、若彦路方面の瑜伽寺を考慮に加えてあるが、瑜伽寺の寺伝には行基のゆかりは

見えない。

しかし、往時は国府を中枢にして寺院、神社が戦略的に配置され、統治体制が整えら

れて行ったと見ることには疑義もなく、読者も上記マトリックス解析図の有様にて

概要は想像してもらえると思います。

このことは私的な考察につき、既に専門的に研究をされた方がおられたら、ぜひ、

ご教授願いたいと思っています。


~「大蔵経寺山南麓から始まる古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」~

4世紀、松本山(現大蔵経寺山)の中腹から裾部近くには積石塚等古墳も

多く、現大蔵経寺南側には古墳時代から平安時代にかけて多くの集落跡が

発掘されていて、里人が集まったことが証されている。

注)考古学的には、甲斐銚子塚古墳などの発掘により既に4世紀後半には畿内影響を

受けていた形跡があると云われる。旧高麗郡などの地名など渡来人(主に高麗人)の

残した先端文明も、この辺りには早くから伝えられている。

5世紀、雄略天皇の御代、大連物部目に命じ倭国東端甲斐国覇権統治のため、

物部氏一族を遣わして朝廷が支配する古代甲斐国の統治体制を整えていった。

その足がかりを築く本拠の館を現大蔵経寺境内辺りに構えたと見ているので、

そこから「古代甲斐国の歴史ロマンは、大蔵経寺南麓から始まった!?」と見る。

注)現大蔵経寺境内にある物部神社の旧蹟物部宮が御室山山上にあったことで、

往時の物部氏一族の館があったことを逆説的論拠としている(※第4章参照)

7世紀末創建と推定される寺本廃寺の発掘によって、それを補完機能寺院

見ると、筆者は「甲斐国府」設置を概ね同じ時期ではないかと見ている。

養老6年(722)、山中の弥勒平に伝行基作の弥勒像を安置して弥勒堂を開基。

弥勒実相院として修験道場になり、山岳寺院として七堂伽藍を構えた青獅子山

松本寺へと変遷。奈良朝廷の仏教思想普及の広告塔の役割を大いに果たした

と見ている。

やがて甲斐国は平安時代になって荘園時代を迎え、石禾荘なども中心的な

位置を保ったが、やがて荘園時代は鎌倉、室町時代に至って武家社会に代わる。

応安3年(1370)第10代信武公の守護代として先に甲斐国入りを果たした第11代

甲斐守護武田信成公は甲斐国帰還後、八代の石甲城に館を構え、真正面に

見えた現大蔵経寺南麓を要衝地と見て、甲斐国内平定のための基幹寺院とする

ために、室町三代将軍義満に言上、庶子観道上人を迎え、真言宗智山派松本山

大蔵経寺として中興開基した。

往時、山中の弥勒平にあった伝行基開基の青獅子山松本寺を現在地に移し、

荘厳の七堂伽藍を建立して中興開基としている。

※真言宗に改宗した後の寺歴は、寺記に詳しく記されて継承されている。

本シリーズは現住第37世秀典和尚の監修、教授によって、素人の興味が、

ここまで辿り着いたわけですが、只、只、感謝しかありません。

何分、史実で解かれていない時代のことを、特に伝説や伝承、寺伝を頼りに、

積み重ねて論拠を構成したので、未だ要所はつかめていない処はありますが・・・、

この辺りで、取りあえず一段落とすることにしました。合掌!


あの織田信長が大蔵経寺に御禁制を発して庇護したとは・・・!

天正10年、武田氏滅亡後、織田軍が甲斐国に侵攻した時、恵林寺など特に

武田氏所縁の寺院は悉く焼き尽くしているが、松本山大蔵経寺は信長の御禁制

を発布され庇護されている。注)これは信長も大蔵経寺を甲斐の要衝と見た証し。

信玄公が信成公を高祖として崇め、菩提寺の恵林寺へ快川国師を迎える時、

「継統院」と号す塔頭を千野から恵林寺に移して建立し、兼帯させているほど。

残念ながら恵林寺は織田軍の兵火で継統院も焼失し、現在、墓碑も不明のよう。

武田氏三代と云われる信虎、信玄、勝頼の時代は、特に有名なので省略するが、

信虎時代に、石和に近い川田館から、現甲府市の躑躅ケ崎に武田館を移し、

先進的な城下町を築いた基礎が、県庁所在地にある現在の甲府市になり・・・、

来年は、開府500年を迎え、記念行事の準備が進んでいるようだ。

天正11年(1583)、いちはやく徳川家康は甲斐国に入り、甲府が東西の要衝と考え

甲府城の縄張りをした説もあるが、その甲府城から見て、大蔵経寺は鬼門に当たる

要衝立地と見極め、同4月20日、当時、自ら立ち寄り御朱印状を与えて徳川家祈願

に定め、以後累で庇護される。

徳川時代は全盛期であったと思われるが、その後、明治以降も地元の有力な

旦那衆に支えられて、現在も荘厳の伽藍を立派に継承されている。合掌!

(YS記2018)


春日居「甲斐国府跡」と伝わる現笛吹市春日居字国府(こう)の「甲斐奈神社」

春日居国府跡「甲斐奈神社」神殿裏から望む大蔵経寺山、御室山、菩提山方面 

「甲斐国府」から見ても、現大蔵経寺山(弥勒平、御室山)や菩提山は要衝と

して相応しい位置にあり、諸条件を備える山岳寺院である。また、山側から見ても、

警護上国府周辺を一望できる所にあり、往時の山岳寺院の修験武闘集団(団徒)

に育成されていったことも考察できる。

歴史的に見て往時の山岳寺院は要衝の陣地としたこともあることで、筆者は「往時の

寺院は要衝に戦略的配置」と云う表現をしている。


 

「寺本廃寺跡」も春日居の「甲斐国府」の補完寺院と見れば配置位置が頷ける。

現在、寺本廃寺の発掘跡は、このような農地に変わっているが、その背後には、

要衝の役割を持った伝行基開基の菩提山長谷寺、廃瑠璃山鎮目寺、現大蔵経寺山中

の弥勒平にあった弥勒実相院⇒青獅子山松本寺は全て甲斐国府と寺本廃寺を警護する

に相応しい立地にあったことが分かる。

寺本廃寺跡の掲示版には「往時の大伽藍絵図」が描かれる。往時の伽藍は要塞。


以上から、古代甲斐国の伝行基開基の山岳寺院は春日居の「甲斐国府」を中枢に

して、山岳寺院配置がされていたことが分かる。


  5~8世紀、古代甲斐国はヤマト王権の覇権により、統治下に入り、

飛鳥、奈良時代へと変遷するが、古代より仏教思想に基づく律令国家形成

の目的のために、古墳、宮殿、寺院や飛鳥京、藤原京、平城京などの

大造営事業が続き農民は食べるものにも不自由し、民衆にとっては、飢饉

や疫病の恐怖にさらされていて、厳しい死活問題が続いていたと云われる。

しかし、その基盤づくりは民衆の動員のために仏教の普及こそ一大事業で

あったと考えた奈良朝廷は、仏教本来の思想である困窮する民衆を救うと

云う布教活動を行った僧行基をのノウハウを活用したのではないかと云う。

こうして、奈良朝廷下では甲斐国にも甲斐国府を置き、仏教思想に基づく

律令国家への道が始まったと云えるのである。(YS記自習NOTEより)


 

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