甲斐源氏安田義定の全盛期に創建された安田義定一門の菩提寺
「高橋山放光寺」は、今も見事に荘厳の名刹の雰囲気がある!
「縁結びの寺」、「安田義定の菩提寺」として、「花の寺・放光寺」
として親しまれる名刹は、むしろ、しっかりと解説された名刹のHP
http://hokoji.org/flowerguide.html 「花の寺・放光寺」の
のページをご覧になれば「美しい四季の花」が紹介されていますので、
HPでご覧下さい。注)HPには、清雲俊元氏の甲斐源氏安田義定の
項、文化財の項とも詳細を記されているのでそちらをご覧下さい。
ブログ今号では全盛期の安田義定が創建した「高橋山放光寺」を
興味を絞って外観を紹介します!但し、謎は謎のままですが・・・。
注)安田義定については前住職が造詣も深く著書「甲斐源氏安田義定」もあるので、
熟読しましたが、上記アドレスのデジタル版HPに甲斐源氏安田義定の項の要点も紹介
されているので参照されると良い。本ブログは文字数制限もあるためご容赦下さい!
山門から静かで美しい参道を辿ると、幽玄の「仁王門」が迎える!
甲斐源氏安田義定廟所碑 江戸初期に復興建立された「仁王門」
この「仁王門」は、往古にあっては現在地から約1kmの
武士原(古くは仏師原)にあったと云われ、江戸初期の復興に
伴って金剛力士像2躯を遷したと云う。
※HP放光寺文化財 木造金剛力士像2躯の項参照。
現在も静かな桜並木の参道を辿ると、その先に「仁王門」!
この鐘楼堂に沿う道の先から「乾徳山の絶景ポイントと鎧ケ淵の断崖」が見える!
今、安田義定寄進の鐘楼(刻銘在り)は本堂脇の拝観ルートの堂宇に。
鐘楼堂から臨む「本堂や庫裏のある荘厳の伽藍」!
放光寺(ほうこうじ)は、元暦元年(1184=寿永3年)源平合戦で功績
をたてた安田義定が賀賢上人を開山に、一ノ谷合戦の戦勝を機に、
創建したと伝わる。
一ノ谷合戦の戦勝は、周知の通り、一気に平家を追い詰める切っ掛
けになり、平家一族を滅ぼしたと云われる。
このあたりから、源氏の総領「源頼朝」が開いた鎌倉幕府の大功労者
として一躍中央でも有名になった。即ち義定の全盛期にあたる。
YS記自習NOTE:
安田氏の時代は山岳信仰(主に天台、真言)の盛んな時代。
放光寺もその一つで塩山の大菩薩嶺の北方山麓にあった高橋荘
(現一ノ瀬高橋)にあった「法光山高橋寺」を安田館(現山梨市小原西)
に近い「牧ノ荘」に遷し、「高橋山多門院法光寺」と改め、天台寺院
として大規模に伽藍を建立し、安田一門の菩提寺とされた。後
に真言宗七談林にも加えられ、真言宗の教えを広める根本道場
になって隆盛し、現在に至っている。
YS記自習NOTE:
創建年の元暦元年は、源氏方では治承8年4月より代わった新元号であり、
平家方では寿永3年と称した。
安田義定の全盛期に建立した大伽藍を構える寺院であったと考察している。
「放光寺」は、安田館(小原西)の鬼門除けの位置(現山梨市下井尻)に、当初
築いた菩提寺「神龍山雲光寺」を建立したその延長線上で、且つ領地の軍資
金源となった一ノ瀬高橋に着眼していたことは、前述でも記したが、
一ノ瀬高橋の砂金脈を守護するため、そこにあった「高橋寺」を安田館に近い
藤木に遷して天台寺院として「高橋山放光寺」を開基したものと考察している。
往時の天台・真言寺院は、山岳信仰で鍛えられた修行僧を抱え、砂金脈探索
に行動し、いざと云う時は軍事力になったことは歴史的にも周知されている。
次号でいよいよ安田義定ゆかりのシリーズ最終号を予定しているが、
できれば、放光寺の二章として鎧ケ淵伝説と、本シリーズのまとめを
してみたいと思っています。短編のシリーズ編集でご容赦下さい!