新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑮義定全盛期に創建された菩提寺「高橋山放光寺」19-11

2019-11-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定の全盛期に創建された安田義定一門の菩提寺

「高橋山放光寺」は、今も見事に荘厳の名刹の雰囲気がある!

「縁結びの寺」、「安田義定の菩提寺」として、花の寺・放光寺」

として親しまれる名刹は、むしろ、しっかりと解説された名刹のHP

http://hokoji.org/flowerguide.html 「花の寺・放光寺」の

ページをご覧になれば「美しい四季の花」が紹介されていますので、

HPでご覧下さい。注)HPには、清雲俊元氏の甲斐源氏安田義定の

項、文化財の項とも詳細を記されているのでそちらをご覧下さい。

ブログ今号では全盛期の安田義定が創建した「高橋山放光寺」を

興味を絞って外観を紹介します!但し、謎は謎のままですが・・・。

注)安田義定については前住職が造詣も深く著書「甲斐源氏安田義定」もあるので、

熟読しましたが、上記アドレスのデジタル版HPに甲斐源氏安田義定の項の要点も紹介

されているので参照されると良い。本ブログは文字数制限もあるためご容赦下さい!


山門から静かで美しい参道を辿ると、幽玄の「仁王門」が迎える!

 甲斐源氏安田義定廟所碑  江戸初期に復興建立された「仁王門」

この「仁王門」は、往古にあっては現在地から約1kmの

武士原(古くは仏師原)にあったと云われ、江戸初期の復興に

伴って金剛力士像2躯を遷したと云う。

※HP放光寺文化財 木造金剛力士像2躯の項参照。


 現在も静かな桜並木の参道を辿ると、その先に「仁王門」!


この鐘楼堂に沿う道の先から「乾徳山の絶景ポイントと鎧ケ淵の断崖」が見える!


今、安田義定寄進の鐘楼(刻銘在り)は本堂脇の拝観ルートの堂宇に。


鐘楼堂から臨む「本堂や庫裏のある荘厳の伽藍」!


放光寺(ほうこうじ)は、元暦元年(1184=寿永3年)源平合戦で功績

をたてた安田義定が賀賢上人を開山に、一ノ谷合戦の戦勝を機に、

創建したと伝わる。

一ノ谷合戦の戦勝は、周知の通り、一気に平家を追い詰める切っ掛

けになり、平家一族を滅ぼしたと云われる。

このあたりから、源氏の総領「源頼朝」が開いた鎌倉幕府の大功労者

として一躍中央でも有名になった。即ち義定の全盛期にあたる。

YS記自習NOTE:

安田氏の時代は山岳信仰(主に天台、真言)の盛んな時代。

放光寺もその一つで塩山の大菩薩嶺の北方山麓にあった高橋荘

(現一ノ瀬高橋)にあった「法光山高橋寺」を安田館(現山梨市小原西)

に近い「牧ノ荘」に遷し、「高橋山多門院法光寺」と改め、天台寺院

として大規模に伽藍を建立し、安田一門の菩提寺とされた。後

に真言宗七談林にも加えられ、真言宗の教えを広める根本道場

になって隆盛し、現在に至っている。


 YS記自習NOTE:

 創建年の元暦元年は、源氏方では治承8年4月より代わった新元号であり、

 平家方は寿永3年と称した。

 安田義定の全盛期に建立した大伽藍を構える寺院であったと考察している。

 「放光寺」は、安田館(小原西)の鬼門除けの位置(現山梨市下井尻)に、当初

 築いた菩提寺「神龍山雲光寺」を建立したその延長線上で、且つ領地の軍資

 金源となった一ノ瀬高橋に着眼していたことは、前述でも記したが、

    一ノ瀬高橋の砂金脈を守護するため、そこにあった「高橋寺」を安田館に近い

   藤木に遷して天台寺院として「高橋山放光寺」開基したものと考察している。

 往時の天台・真言寺院は、山岳信仰で鍛えられた修行僧を抱え、砂金脈探索

 に行動し、いざと云う時軍事力になったことは歴史的にも周知されている。 


次号でいよいよ安田義定ゆかりのシリーズ最終号を予定しているが、

できれば、放光寺の二章として鎧ケ淵伝説と、本シリーズのまとめを

してみたいと思っています。短編のシリーズ編集でご容赦下さい!


 


甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑭義定は小原西に館を構えた時、鬼門の備えに「神龍山雲光寺」を開基した!19-10

2019-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定は元服の後、武田家から「八幡荘」「牧ノ荘」

拝領し、現山梨市小原西に「安田館」を構えた時、仏教信仰に

篤い安田義定は、「安田館」の鬼門除けに、安田家の菩提寺として、

「神龍山雲光寺」を開基したと云う。鬼門除けに構えた「菩提寺」は、

往時、真言寺院として建立。いざと云う時の「安田館」の「要塞」と

しての備えであったろう!※往時の伽藍は、想像図で見たいもの。

今号は、「神龍山雲光寺」についての概要を紹介します。 


現在「神龍山雲光寺」は、改修されて、臨済宗「清白寺」の兼帯になっている。


「神龍山雲光寺」は、保元元年(1158)に、甲斐源氏

安田義定が開基し、真言宗の僧都了寿阿闍梨を開山として創建。

応永元年(1395)に夢想国師の高弟絶海中津和尚によって、

真言宗から禅宗になった。

現在は臨済宗妙心寺派清白寺の兼帯となっている。

安田義定を始め、一族の墓(五輪塔)があることで有名。


 「神龍山雲光寺」の広い境内に立つ「木魚碑」から僧の読経の響きが聞こえるよう!


安田義定は、源九郎義経の副将として平家追討の際に多くの

戦功をあげ、鎌倉幕府創立の功労者であったことは先に述べた通り

あるが、残念ながら、義経が追討されたのと同じように、安田勢力

の伸張を恐れた源頼朝によって滅ぼされた。

義定の嫡子義資が鎌倉で殺害されたのが建久4年で、その翌年、

義定も鎌倉方に討たれている。

嫡子義資の遺品は雲光寺に葬られたと云われ・・・、詳しくは寺伝に。

翌年の建久5年(1194)には、義定と三郎義季の遺骨を最期の地牧丘

から、この地に移し埋葬したと伝えられている。


安田義定一族の墓碑とその解説版が、密やかに経つ。


安田氏五輪塔付宝篋印塔は貞治2年(1363)武田信成の法要供養で建立。

この三基の五輪塔は甲斐源氏の雄安田義定父子の墓標で、

中央が安田義定公、左が義資、右が義季のものと云われる。

義定は、謀反の廉(かど)で建久5年(1194)に攻め滅ぼされた。

・・・三基とも水輪の四面に梵字が刻まれており、鎌倉中期の代表作として

石像美術上の貴重な構造である。

宝篋印塔は、基礎に「貞治3年(1363)11月、武田氏・・・(他不明)とあり、

武田信成公が安田義定供養のために建立したもので・・・、山梨県教育委員会」

と解説されている。昭和46年県指定有形文化財。


上写真の安田氏五輪塔付宝篋印塔の山梨県教育委員会解説版写し。


 YS記:建久5年(1194)8月、”牧”の要害「小田野山」城下で鎌倉

勢に追われ自刃したと伝わる安田義定は、西御所跡に埋葬された

と云われるが、その遺骨を後に「神龍山雲光寺」へ遷したことになる

ことが、寺伝には詳しく記されているようだが、省略します。


安田義定の自刃場所は3説あるが、歴史ロマンを大事にすべきか!?

解き明かされない方が良いのかも知れないが、歴史ロマンは科捜研の

ような科学捜査をしない方が良いのかもしれないと云われることもある!


 次号⑮「高橋山放光寺」の項で、鎧淵伝説も紹介します。

 筆者は、「放光寺」が、最も自刃の場所には信憑性があると思うところもあるが、

 もし、戦跡が辿れたら、中牧の要害城下か、放光寺か位置的に迷う処である。


 


甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る!⑬義定が小原西に構えた「安田館」の立地!19-09

2019-09-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定は、長承3年(1134)甲斐源氏安田冠者刑部

三郎武田義清の四男として若神子(現須玉町)に生まれ、元服(推定

久安6年(1150))の後、在庁官人の三枝氏を抑えて山梨郡に入り、

加納、牧荘の二荘を治め、加納荘(現山梨市小原西)に「安田館」

を構え、「牧ノ荘」の中牧に西御所を構え、小田野山に要害城を築き、

現峡東地域を統治したことは、本シリーズで既に発信したので周知

の通りですが・・・、

本項のテーマである「安田義定が本拠に構えた小原西の安田館」

は、大井俣八幡神社の前、特に牧ノ荘の”牧”(現牧丘西保下)と

一ノ瀬高橋周辺の”砂金脈”管掌に都合良い起点立地であった

と見ている。そのように広域で考えると頗る良い立地環境と云える。

YS記では、この「安田館の立地」こそ、後世”牧”に繋がる道は「旧

秩父往還」となり、一ノ瀬高橋周辺の砂金鉱へ通じる道として・・・、

「萩原口」(後の青梅街道)への起点分岐となった立地と見ている。

今号は、安田義定が元服後、甲斐国内で領有した加納荘に本拠を

構えた「安田館」の立地と、 その環境について概要を発信します。 


 現山梨市小原西の安田館跡(廃妙音寺址)は正面に大井俣八幡神社の森!

「安田館」を構えた時期は不詳だが、武田義清の一族として、元服した(推定

久安6年(1150)頃、三枝氏の領域を抑え、現峡東の領有を任された時、小原西

本拠の館を定めたと考察できる。その後、着々と領地を固め平家追討に出陣

する前の時代であったろうと考察している。

 

※この鎮守の森は、幾度も笛吹川の氾濫にあったようだが、康平6年(1063)

甲斐源氏の祖新羅三郎義光が、この地から現窪の地へ遷座したと云われ、近代に

なって、現在のように復元されたようだ。

大宮司社記に云う「貞観元年巳卯二月二十三日木工頭従五位上和気朝臣彛範に勅し

て、豊前国宇佐宮より勧請あり。最初笛吹川の中島大井俣の地に頓宮を造り安置す。

故に「大井俣神社」と称す。今の窪の地に遷座す。故に「窪八幡」とも称す」

上ノ坊社記に云う「康平年中八幡太郎義家奥州より帰陣の時、新羅三郎義光勧請の

由云い伝う。」※縁起は永生十三年丙子九月二十八日兵災により焼失せんと。

注:八幡太郎義家が奥州征伐を終え帰陣の時は、推定康平6(1063)年頃!?

 現大井俣八幡神社の貫禄の鳥居         大井俣八幡神社本殿

 現在「廃妙音寺」の石仏等は近くの現宝蔵寺にて並べられていると伺う。

 現在、大井俣八幡神社(窪八幡)の大鳥居は、天文9年(1540)、

武田信虎公の寄進にて大鳥居が建立されている。現:重要文化財。

 大井俣窪八幡神社の惣門。惣門の趣は境内に荘厳の歴史を伝える・・・!


大宮司社記に「新羅三郎義光の祈願により再建」と記され、この社殿の如く、

甲斐源氏の祖と云われる新羅三郎義光が祈願して遷座したと云う。

「大井俣窪八幡」はまさに安田義定の崇拝する八幡宮が既に祀られていたことが、

甲斐武田氏の一族として与えられた広域の領有にあたる本拠館になる立地条件として、

小原西は最適であったろうと考察している。注)新羅三郎義光が遷座後推定約87年後。

甲斐国志には、享禄四辛卯年武田信虎造営・・・。以後、甲斐国は武田信虎、信玄

によって統一が図られた頃より、石和から躑躅ケ崎へ「武田館」を遷して武田信虎~

信玄の時代にかけて、武田家全盛期に、窪八幡は数々の造営や改築がなされて、現在

守られている重要文化財9件(本殿、拝殿、神門、鳥居等)は、概ねこの時代のもの。


 廃別当一之坊「八幡山普賢寺」址         市川の守護寺真言宗「岩泉山清水寺」!

  創建仁和3年(887)国守橘喜樹開基の神宮寺 窪八幡の守護寺「不動寺」


YS記:安田館」を小原西に構えた時は、領地「牧ノ荘」の要の”牧”へ通じる

「旧秩父往還」と一ノ瀬高橋周辺の「砂金脈」を管掌のため「萩原口」の起点分岐

になる適地を選んで構えたと考察している。

従って、「窪八幡」は信仰をしたが、安田義定の痕跡は残っていない。

念のため、参照の通り検証してみたが・・・、唯一、安田義定が鎌倉勢に追われて、

最期に自刃した場所の一つ「ミミンドウさん」跡が伝わるのみであった。

注)現在、山梨市では、伝安田義定自刃場所の3カ所が謎のままである。

何方か, 安田義定を研究された方で造詣のある方に教えを乞いたく。


 


甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑫”牧”の要所に守護神を勧請し、鎮守集落を形成した!19-08

2019-08-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

安田義定は、往時、領有していた「牧ノ荘」の”牧”を守護するため、

現山梨市牧丘町に”西御所”を置き、要害”小田野山城”を築き、

その要所に守護寺(前号参照)を開基。そして”牧”を鎮護強化するため、

集落の中心に守護神を勧請し神社を造営。鎮守集落を形成していた。

その集落は・・・、今も「牧丘」に存続している!

YS記では殆ど留守の安田遠江守義定の留守居に、義高の子を養子

に安田西保三郎義安として”牧”の鎮護に当たらせていたと考察する。

今月号は、安田義定が集落形成の要にした伝勧請神社配置の概要

を解析し、各集落に勧請されたと云う神社の今の様子を紹介します!


安田義定が神社を勧請して鎮守集落を形成したとするマトリックス解析図!

 


牧丘には、今でも往時を偲ぶ安田義定の縁の神社が守られる!


義定は鎮守「若松八幡」を建立!小田野山城の真南に「馬場」集落を形成。


安田義定が勧請した(旧中牧村)馬場の「若松八幡社」。

由緒によると・・・、

「治承年間、従五位安田遠江守義定、小田野山に要害を築き、その地に

武術訓練のため馬場を設け、弓術訓練を為したる時、鎮座せし」と云う。

故に付近に「荒臺空穂入射場」等の名称あり。

以来、この地を「馬場」と称す。貞享年間、西保中村に祖岳(宗覚)神

として、安田義定公の霊を祀りたる社地あり・・・云々。

YS記:現在の若松八幡社は、馬場公民館の裏手にある.


旧中牧の法喩庵「天神社」・・・現在も西保下字法喩庵に鎮座。


上求寺旧記によれば、「安田義定公館の鬼門除けとして祈願せり」とあり。

祭神は菅原道眞公。人皆立身出世の守護神として仰げり。

YS記:天神社は西御所の鬼門除けに、法喩庵(城下)集落の鎮守として、安田

義定が勧請して配置したと云う。建久4年創建説もあるが、YS記推定では、

治承年間(1177~1181)以降に創建して、鎮守集落を形成したと見ている。

義定は帝に貢献し、従五位下遠江守に任ぜられたため、主領地が東海道を守護

する遠州(静岡浜松)になったことと、源平の合戦に参画したこともあって、甲斐

本領の”牧”を守護するために、小田野山城を築城時の治承年間に、要所に鎮守

集落を形成するために、城下には法喩庵を開基し、禅の法を説諭し、鎮守集落

形成強化したと考察している。 


鳥谷原の管神社(※安田義定の勧請)


牧丘西保中大字中村上、鳥谷原の⛩「管神社」!

鳥谷原集落の鎮守として、安田義定が勧請したと伝わる。現地解説版には、

「祭神は菅原道眞である。甲斐源氏安田義定が小田野山築城の守護神として

拝殿を創建。崇祀する。建久4年(1193)創立。寛永10年(1633)夏の大火

により社殿宝物鳥有に帰す。京都大仏師の彫刻せる神体を安置。権中納言藤原

顕考公の扁額の寄進あり・・・云々。鳥居1基、社地300坪。」と見える。

YS記:この神社は西城戸の鎮守集落形成のために勧請したものと考察できる。 


中牧の「若松八幡宮」・・・鎮座地は西保中村。

 

西保中村(現在の横道)に安田義定は寿永2年に勧請している。

まさに鎮守の備えを象徴している。祭神は大鷦鷯尊(オオキザキノミコト)。

ご神体は金弊御状1勺5寸。

社記の記録は「寿永元年2月20日安田義定の勧請にして、造営料黄金五板、

旗二旈御寄付あり」・・・と見える。義定卒後、その霊を配祀して「相覚神」と称す。

YS記:寿永元年は、源氏では治承6年(1186)を使用。

治承年間は安田義定の全盛期と見える。往時は治承・寿永の乱の最中で、

特に安田義定は、朝廷や鎌倉頼朝の側近として、超多忙であったと思われるが

造営料を負担し、義定勧請としたことは確かであろう。

※勧請した大鷦鷯尊(オオキザキノミコト)は、仁徳天皇を神化したもの。


 現牧丘町・・・膝立の「若松八幡宮」~(旧村社)山梨県神社庁~

鎮座地:牧丘町牧平1759 祭神:オオササギ尊、天照皇大神。

境内地:285坪。氏子戸数:30戸 (※山梨県神社庁)

由緒沿革:寿永2年(1183)8月、小田野山城主安田義定が従五位下に叙され、

遠江守に任ぜられた頃、御祭神を勧請し、社殿を造営して奉齋し、爾来崇敬殊の外

厚く、土民を愛撫し社領を献じて武運祈願所となす。

YS記:この地は、中世に跡部氏と武田氏が戦った赤芝の道であるが、小田野山城へ

通じる要衝の地であったことも分かる。

現在も膝立集落の一部の氏子に守られてはいるが・・・写真の様子に・・・。 


 


甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑪牧の要害小田野山城と西御所には  戦略的に寺院・神社が配置されていた!19-07

2019-07-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定は、あの源平合戦で東軍源義経の副将軍として、

活躍した戦国武将・・・!甲斐国では八幡荘、牧ノ荘、安多荘を中心に

現在の山梨市域、甲州市の一部を領有していたと云う。

特に広大な「牧ノ荘」は、軍馬補充と砂金の開発で、領地より得る豊富

軍資金を糧にして強力な軍事力にもなったと考察している。

往時は、朝廷より、東海道・遠江国の守護として「遠江守」に任ぜられ、

甲斐牧ノ荘の「安田館や西御所」には殆ど不在がちであったと見られる!

今号は、勇将安田義定が領地「牧」に構えた戦略的寺院・神社配置

をした跡を辿ってPDF複写ですが「マトリックス解析図」を紹介します。

併せて、YS記自習NOTEの中間まとめの要点を抜粋して発信します。


安田義定は”牧”を守護する要害小田野山城に守護寺を配置していた! 

往古安田義定は「牧ノ荘」の要にあった「中牧」に戦略的に寺院を配置していた。

注)このマトリックス解析図は、YS記自習NOTEで学習したもので、PDF複写を

さらに複写添付したもので、読みづらいと思いますがご容赦下さい。

要点は、分かりやすく次項①に要約してあります。

れらの伝安田義定開基の守護寺院は本シリーズの③~⑩において個別に

紹介をしていますので、バックナンバーをご覧下さい。


往古、安田義定は、「牧ノ荘」を領有した時、”牧”の軍馬補充と

萩原山(一ノ瀬高橋の鶏冠山辺りの砂金の採集他鉱山等)の

開発を始め、後に安田義定が源平合戦や京(朝廷)で活躍する

軍資金となったことであろうと考察している。

①マトリックス解析図要約・・・:

領有「牧ノ荘」の要にあった”中牧”(※現牧丘)に、要害小田野山城

築城し、西御所を構えて、東城戸に「妙高山普門寺」(※聖武天皇

の御代行基草創伝説の真言寺院「富向山薬師寺」を再建・開基。

西城戸に「旧蹟西源寺」。鬼門除けに「往観山無量院」を開基して

いる。

現在、小田野山城跡や西御所跡は往時の様子を見ることは出来ない。

嘗て、山梨県教育委員会が踏査した報告書の記録では、一専門家が

「中世、武田氏との争いに跡部氏が詰め城として使用したこともあり、

城蹟の土塁等を見ると、中世の山城ではないか」とコメントしている。

筆者は、地元牧丘町誌等の記す安田義定の築城と考察している。

何故なら、小田野山城は安田氏が滅亡した後、甲斐国の覇権を

争って武田氏との戦の時、跡部氏が使用したならば、当然ながら、

様式も中世の山城に改良されていても不思議ではないし、山麓

に伝わる安田義定の創建伝説や、その他幾多の伝承も無になる。

歴史家の記述は一行でも悩ましい。安田義定よ!蘇って教えて!


安田義定は”牧”の要に鎮守の集落を形成のため「神社」を勧請!


 安田義定は、鎮守として守護神を祀り集落形成のために勧請神社を配置していた!

 西御所を中心に、城下の何人にも禅の法を諭す「法喩庵」を開基して、その並びに菅原道眞

(学問の神)を祀る天神社を建立。馬場には若宮八幡社(八幡)を勧請。牧平に若宮八幡社、

西保中に若宮八幡社。鳥谷原に管神社と、小田野山城と西御所を中心に、マトリックス解析図

示す通り、要所に鎮守集落形成のため、集落形成の鎮守として守護神を勧請している。

これらの集落は現在も健在に存続している。次号で詳しく現存の神社と由緒を紹介予定!


参考)武家社会の元祖となる鎌倉幕府開府に貢献した安田義定は、

奈良時代、聖武天皇の御代、朝廷に招聘された僧「行基」が推進した

仏教普及策と寺院建立の戦略的寺院配置は、全国に展開された!

特に、往古、日本国の要にあった北端甲斐国は朝廷にとっても要衝

で、特に地方国を掌握するのに豪族の把握には、寺院開基は最も

効果的な手段であったようだ。

伝行基開基の寺院が各地にあるのはそのためでもある。


「古代甲斐国は大蔵経寺山麓から始まった・・・!」とも云われ、

国府中心に、要衝に守護寺が配置されていると考察できる!


古代甲斐国の春日居国府設置前提にした行基の戦略的寺院配置の事例! 


※行基は、奈良朝廷の仏教普及策の責任者として招聘されて、東大寺大仏殿の勧進

 で成果を上げ、「大僧正」の位を得ているも、地方に行脚する時間はなく、伝行基

 開基の寺院は殆どが奈良で仏像を彫らせて安置したか、朝廷において地位と権力の

 あった「天平年間」において、行脚可能であったと推定できる養老年間に遡って

 伝行基開基の寺院とされている由縁ではないかと考察している。

 通常、僧侶は寺院の開山が殆どであるが、全国各地に伝行基開基の寺院があるのは、

 行基は朝廷に居ながらにして、各国に戦略的に寺院配置を建立するように指示が

 できたと見ている。特に聖武天皇が進めた仏教普及と寺院建立は伝行基開基の寺院

 として、その歴史の跡を印していると見ている。

 同時に、各地の豪族達は僧行基ゆかりの仏像や伝開基の寺院建立を望んだとも云う。


ここで古代甲斐国も行基の伝開基寺院の参考事例としたのは・・・、

奈良時代の特に聖武天皇以来、行基の進めた仏教思想の普及と

寺院建立は戦略的に寺院を配置しているので、その思想を引き

継いで、特に開基となって領地を強化する戦略的配置をしている。

古代甲斐国は、春日居に国府を置く前提で東山(恩若峰から柏尾山)

の要衝に「柏尾山大善寺」、鬼門除に「裂石山雲峰寺」、背後の

大蔵経寺山山中に「青獅子山松本寺」、門徒の拡大に相応しい

「菩提山長谷寺」を開き、山梨岡神社にも国府の鎮目軍団を駐屯

させたと云われているので、往時の寺院や神社は、殆どが中枢

機能(館)守護するために活用されたと見ている。


※詳しくは、「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山麓から始まった!」

バックナンバー18年8月号を参照下さい。

https://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/43a949e134c16458dcd0f4ce96ee8094