みなさ~~ん。
今年は天皇陛下と雅子皇后が結婚して30年目なんですって。
私達、その前から生きている者にとっては、あまりに突然で「え?あの人、断ってたよね?」という印象しかない小和田雅子さんがいきなり「皇太子妃決定」となったので、
ますます「へ?」しかない所に、いきなりお祝いムードを無理やり作られた~~~~という感覚が。
1986年 スペインのエレナ女王のパーティで初めて出会った浩宮と小和田雅子さん。
雅子さんはドタ出だったようで名簿には「手書き」で名前があったとか。
1987年 高円宮邸で浩宮と小和田雅子のデートを設定。深夜まで長々宮邸に居座る
1987年 小和田雅子さん東宮御所に招かれ浩宮と歓談。賀陽氏が同席
1987年12月18日 「どこの社なの!名刺出しなさい」指差し恫喝事件発生。
マスコミは「お妃候補」の話を聞きたかっただけなのにびっくり。
1988年2月18日 パリに赴任する小和田夫妻が東宮御所へ
それに乗せて貰う小和田雅子。なぜか怒っている。
1988年週刊新潮
雅子さん 「プロポーズもされてないのに何でこんなに騒がれなくちゃいけないの」
友達 「それにしては、何回も東宮へ行くのはどういうわけ?」
雅子さん「好奇心よ」
記者 「小和田さんは“プロポーズもされてないのに、云々”と女友達に話したっていいますが、これまで東宮へ招待された女性の、ほとんどは一回で二度と行きません。
本人が行きたくても、東宮で呼んでくれないケースも無論ありますが、浩宮様や皇太子ご夫妻が気に入られても女性の方で二度目の招待をお断りするわけです。
それがお妃候補から外して欲しいという一つの意思表示になる。
ところが小和田さんは少なくともこれまでに四回は浩宮様にお会いしています。
いくら“好奇心”からだといっても、お相手が今どういう立場にいる人か承知しているわけですから、彼女の方にまったくその気がなければ出かけませんでしょう」
1989年 昭和天皇崩御 その後、浩宮は「小和田雅子さんではダメですか」
1989年 イギリス在住の小和田雅子さんにマスコミが突撃取材するも「私は関係ありません!」ときっぱり
1989年 10月4日 マスコミの取材をうける小和田雅子さんはなぜか上機嫌。
「関係ないと思ってますけど~~~」
成績ご優秀で将来は総理大臣になるかも・・・と言われた小和田家の長女、雅子さん。
彼女がエレナ女王で浩宮様に出会った時、なぜ回りがぺこぺこするのかわかりませんでした。
帰宅後、おばあ様に「浩宮さまってお偉いの?」と聞くとおばあさまは「将来天皇陛下になられる方ですよ」と。
「天皇陛下って日本で一番偉くてお金持ちの事?」
雅子さんは俄然好奇心が湧いてきて、誘われるままに東宮御所に何度も足を運んでしまいました。
それがマスコミには「お妃候補」とみなされ、取材される事の恐ろしさといったら。
ただ興味があるし、あっちが誘ってくるから会っているだけなのに、どうしてマスコミに追いかけまわされるのかしら?
お蔭でオックスフォードに入ったのに修士論文が書けなかった。マスコミのせいよ。
でも、まだ20代の雅子さんにとって、マスコミが会う度にちやほやしてプレゼントをくれたり、食事をおごってくれたりするのが楽しくてたまらなくなりました。
思わせぶりに「私、関係ないけど」っていっても、そんな笑顔の写真までとってお礼を言ってくれる。
雅子さんは次第にそんな快感に打ち震えるようになったのでした。
1991年5月、日米半導体協議にスタッフとして座る
海部首相の会食に通訳として同行
そうは言っても、雅子さんには外務省でのお仕事があり、日々それに撃ち込んでいたのです。
一方で、浩宮さまは小和田雅子さんが忘れられずにいました。
雅子さんは「水俣病を引き起こし、現在も訴訟中のチッソの会長の孫娘と言う事で皇太子妃には向きません」と側近から言われていましたが、昭和天皇崩御後ははっきりと「小和田雅子さんではいけませんか」と周囲に問います。
あの外国人のような顔、大きな目、よく食べるしぐさ、庶民的な話っぷり。どれも皇太子殿下が経験した事なかったもので、新鮮に映ったのです。
でも側近は、元皇族で香淳皇后の御実家の才媛「久邇晃子」さんを皇太子妃候補として挙げていましたし、本人からも承諾を得ていました。
しかし、それに皇后美智子さまが賛成なさる筈がありません。
「民間から」嫁がれ、皇太子妃となり皇后となった美智子さまにとって、皇太后さまは敵、その実家から妃を娶るというのは考えられない。
そこで、直々に久邇家にお断りを入れたのです。
理由は「あちら(小和田雅子さん)の方がお出来になるから。だって、久邇さん、お宅様はお仕度にお父様の退職金を充てるとおっしゃっているのでしょう?こちらとしてはそんな無理をしてまで来て頂きたくないの」
一方雅子さんも悩んでいました。
職場での勤務が辛くなって来たのです。
どういうわけか、何をやっても「こんな事も出来ないのか」と叱られる事が多くなり、その度にびっくりし、何が悪いの?この上司バカ?と思います。
なぜって、ご自分は外務省事務次官の娘ですからその自分に対等な会話をもちかけてくること自体おかしいのに、まして𠮟りつけるなんて。
でも回りの人は上司を恐れているのか何もいいません。
「おかしいわよ」と話しかけても「オワ、もうちょっと頑張りなさいよ」と言われるばかり。
次第に30分に一度はトイレに駆け込んで手を洗うという異常な行動を始める雅子さん。
「仕事に向かないのか」と思い始めました。
「結婚・・・しちゃおうかな」この当時、誰もが一度は考えることです。
「皇太子殿下と結婚したら外務省の人達を見返してやれるんじゃ」そんな事を考えてしまう雅子さん。
雅子さんは、ちょっとした好奇心から浩宮様とお付き合いを始め、東宮御所で色々な話をして、美味しい物をたくさん食べた記憶が忘れられなくなっていたのでした。
1992年10月3日。新浜鴨場に呼び出された雅子さん。なんと皇太子殿下は両陛下の留守を狙ってあずき色のワゴン車に身を隠し、鴨場へ。
皇太子「結婚して下さい」
雅子 「お断りしてもいいですか?」
皇太子殿下はびっくりしました。
まさか、「お断り」前提で言われると思っていなかったので。
とりあえず「はい」とは言ったものの、どうしていいかわかりませんでした。
せっかく、ワゴン車に隠れてここまで来たのに・・・・
「あの・・」と殿下は言いました。
「外交官として活躍したいんですよね。でも皇族になったら「皇室外交」として外交の仕事が出来る。そんな風に考えて貰えませんか」
それを聞いた雅子さんは目を輝かせました。
(やっぱりこれなら見返せるかも)
1992年12月12日 再度プロポーズされて雅子さん了承
その陰には勿論、小和田恒というお父様のお力がありました。
「何でも思い通りにいてやるから」
「小和田家の長女ならそれらしくしろ」
そこまで言われては雅子さんも嫌とは言えません。
半信半疑のまま、とにかく了承したのでした。
今まで皇太子殿下のような方とはお付き合いがなかった雅子さん。
背が低いし、ハンサムでもないし、スリルもミステリーもない。
でも彼は持っています。「皇太子」という地位を。
1993年1月6日 小和田雅子さん皇太子妃に決定
さあ、もう歯車は回り始めました。
後戻りは出来ません。
1992年1月8日 小和田邸を出る雅子さん
未来は栄光に包まれている筈でした。
まさか・・・こんな・・・ご病気で苦しむことになるとは誰が想像したでしょう?
この頃の自分はお花畑で完全に見た目に騙されてました
最近知人が雅子様が好きで紀子様の顔が大嫌い、わざとらしい笑顔、話し方も嫌い愛子様が天皇でいいのに、ヨーロッパは女性が王になるのに日本は遅れているのよ…と言われて一応反論は色々しましたが落ち込んでいます。
天皇家族を応援する人達はあの悲惨な園遊会を見てもなんとも思わないしむしろ雅子様の事を誇りに思うのでしょうか……
まとめて下さりありがとうございますm(_ _)m
たしかNHKで宝塚のカリンチョさん(杜けあき)の退団公演やタータン(香寿たつき)の新公の番組をやっていて、余韻に浸る間もなくこのニュース報道になった記憶が……どーでもいいわ!ヽ(`Д´)ノプンプンと思いましたが、30年経ったらいい加減にしろ(●`ε´●)!!な気持ちに……。
白のコートがきれいでした。
あれは君島一郎の作品で、実は別人がオーダーしたものだって読んだ覚えがあります。
銀座にブティックがありました。
君島一郎氏急死され、お家騒動で週刊誌の飯のタネになりました。
あの帝国ホテルの写真室で撮られた写真がきれいの絶頂期だったと思います。
その後はなんだかなあ。
私は11pmという夜番組をおちびながら見てまして、小島功氏のマンガよく立ち読みしてました。
洒脱なおじいさまでしたのよ。
月日がたち、ボインではないが小島功氏描く系の顔立ちだと気づいてしまいました。
なつかしさでアマゾンで作品集でもあれば買おうかしらと思っていたのに、突然きもちわるくなり、驚きました。
生理的にダメになったわけです。
ラドクリフでのカーストは下のほうで、グッドヘッドってパシリランクだそうですね。皮肉が効いてますわね。
自分の好みを通したっぽい装いを見てるとダサすぎて笑っています。
コーゴーになり、参拝服のスカートに縦のひらひらフリル、周囲の誰も反対できなかったのでしょうか?仏座のようなお帽子も。
自ら進んで恥をかく人だと認識しております。
最初ネタといれ、たねと修正したのは失敗でした。
まあ本来は種なのですが。
1988年のナルちゃんはつり目で鼻筋すっときれいですね。
この頃は品がありました。
1992年 11月
人気絶頂の二十歳の女優と
これまた 絶頂の(特殊な世界)の男性の
唐突な 《婚約》スクープ?を覚えておいでですか
翌年 1月 25日に“破談” “解消”??
なんとも不可思議な 端末でした
ずいぶん過ぎてから「あれ?」と思いました
してはならないこと を した と思いました
「もし “そういうコト”を“彼ら”がしたなら
“彼ら”は 要らない!」と思いました
私が 『‥‥御一行』 『ふぶきの部屋』に“たどり着いた”??のも そこら辺からです
(「にちゃんなんか みてぇー!」と 当時はものすごく言われました)
そして
《してはいけないコト》は してはいけないな と
思いました
果たして皇室は雅子さんの好奇心を満足させることはできたのでしょうか?
次回を楽しみにしています。
ご婚約当時私は、雅子様は才色兼備という印象しか持っていませんでしたが、婚約会見で口を曲げながら「わたくしの言葉でひと言付け加えさせていただければ」とお話しされた瞬間、「ん?」と違和感が。
そのフレーズがあまりにも印象深くて「ちょっとイヤ‥」と感じたことを、ふと思い出しました。
1回目は、昭和63年の暮で上皇の学友の令嬢で旧男爵家のA.Mさん。徳さんも、Mさんもお互いOKで内々の婚約内定になりましたが、祖父の経歴が朝鮮総督府のトップなのがわかり、結局、A家から辞退。Mさん、ホテル勤務から徳さん婚約時はアメリカ大使館勤務でした。
2回目は、平成元年の暮れ、学習院大学学長の秘書だったF.Nさん。徳さん、凄く気に入り4回も会いに行く。Nさんは、大学の関係者に「私は嫌です」と言ってたとか。結局、親戚に刑事事件の関係者がいるのがわかり、徳さん来なくなりました。Nさんは、上皇のお妃最有力候補だった、北白川(現在は島津)肇子さんの長男の奥さまです。これには、びっくりしました。女性週刊誌にNさんの長男さん、愛子さんの御婿さん候補に名前あがっていてまたびっくりしました。
3回目は、皆様ご存知の久邇晃子さんです。徳さん、芸能界の話が出来る女性が希望だったと言ってましたが、どうだったのですかね。