伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

革命のシンボルになった名曲:「ヘイ・ジュード」は1968年8月にリリースされたビートルズにとって18枚目のシングル曲です。

2021年09月15日 | 歴史の考察


先日以前から気になっていたビートルズのシングル・アルバム下記ジャケットをまとめたアルバム(赤盤・青盤)をポチした。最近此のビートルズの発売する紙ジャケットの音質が中々イケル様に思う。

一般的に初期~中期は、明るくポップ、中期~後期は、内省的、実験的な内容が多くという感じで。一般的な評価は、実験的・先鋭的な作品の目立つ後期の方が高いように思います。でも「初期が劣っているのか?」と言えば、全くそんなことはないんです。そのとき、そのときで目指しているものが違うわけですから、単純に比較なんてできません。
で、ビートルズには有名な2枚のベストアルバムこれなんですね。このアルバム(赤盤・青盤)はシングル曲をまとめたシリーズです。
初期~中期の曲をまとめた、1962年~1966年通称『赤盤』
中期~後期の曲をまとめた、1967年~1970年通称『青盤』
これを聴いてもらうと、今、言ったことがわかってもらえるかな、と思います。

本日の投稿は特にオーディオ関係の記事はございませんが思うに細やかな部分まで解明できるような、A4サイズの冴えたコンパクトモニターLS3/5Aで聴く音が好きであるLS3/5Aの発売は1980年頃なので既に40年の歳月は過ぎたオールド製品です。 古き良き時代の音は、古い機器での再生が一番新鮮か?

何故英国の音楽は英国製の製品がベストか?でも今回はBeatles特集です。
「リヴァプール・サウンド」と言う言葉は、日本独自の呼称で、本国イギリスでは、「マージー・ビート」や「ブリティッシュビート」などと呼んでいます。「そもそもマージービート・リバプールサウンドってどうゆう意味?」ってところから、代表的なバンドがビートルズの思い出です。サウンドも独特の音色で当時の電器ギターの音色はどこか憂いが合った音色と記憶する。

勿論アンプには真空管を使い、懐かしい電気ギターの音が聴こえたりりして!



でもベストアルバムって買うと「ビートルズはこれで一通り抑えたかな」と思ってしまいがちなんですよね。だからベスト盤から漏れた名曲もあり要注意です!ホワイトアルバムの「アイ・ウィル」や「ジュリア」が埋もれてしまう!本当にこれはベスト盤の弊害なんですが・・・・。では青盤の曲目紹介。
Disc-1(青盤)
 1.ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
 2.ペニー・レイン
 3.サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
 4.ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ
 5.ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ
 6.ア・デイ・イン・ザ・ライフ
 7.愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ)
 8.アイ・アム・ザ・ウォルラス
 9.ハロー・グッドバイ
 10.フール・オン・ザ・ヒル
 11.マジカル・ミステリー・ツアー
 12.レディ・マドンナ
 13.ヘイ・ジュード
 14.レボリューション

Disc-2(青盤)
 1.バック・イン・ザ・U.S.S.R.
 2.ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス
 3.オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ
 4.ゲット・バック
 5.ドント・レット・ミー・ダウン
 6.ジョンとヨーコのバラード
 7.オールド・ブラウン・シュー
 8.ヒア・カムズ・ザ・サン
 9.カム・トゥゲザー
 10.サムシング
 11.オクトパス・ガーデン
 12.レット・イット・ビー
 13.アクロス・ザ・ユニバース
 14.ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード



上記意外を選ぶ場合は、こんなビートルズ、見たことない「究極のベスト、究極のビートルズ」全英/全米で1位を記録した永遠の27曲が最高の音と映像で登場『ザ・ビートルズ1』が最適かも知れない。勿論最近の録音ハイレゾで音質も良い。

2000年にリリースされ、これまでに全世界で3200万枚、日本でも320万枚のセールスを記録している大ベストセラーアルバム『ザ・ビートルズ1』の最新版が登場!今回発売される『ザ・ビートルズ1』は、CDのみならず映像作品としても発売され、音源はジョージ・マーティンの息子であるジャイルズ・マーティンが担当。アナログ・マスターから全く新しいステレオ・ミックスがほどこされています。勿論持っています。



今回特に違う意味でも、記憶に残る曲の注目は『ヘイ・ジュード』のバラード曲は1968年8月にリリースされたビートルズにとって18枚目のシングル曲です。イギリス・アメリカでNo.1ヒットとなっており、特にアメリカではビルボードチャート9週連続1位という大ヒットとなりました。7分を超える長い曲ですが、こんなにも長い曲がシングルとしてリリースされるのは異例のことでした。1970年に解散するビートルズにとって後期の代表曲のひとつであり、ロックの歴史においても重要な意味を持つ『ヘイ・ジュード』。この曲の歌詞は何について歌われているのか?深読みをする。

ビートルズ後期の代表曲であり、『Let It Be』や『Yesterday』に並ぶ、ポール・マッカトニー作の名バラードです。

歌詞は・・・・・・
 Hey Jude don't make it bad
 Take a sad song and make it better
 Remember to let you into your heart
 Then you can start to make it better

 Hey Jude don't be afraid
 You were made to go out and get her
 The minute you let you under your skin
 Then you begin to make it better
 ≪HEY JUDE 歌詞より抜粋≫

 ヘイ、ジュード 物事を悪く考えるな
 悲しい歌もやがて悲しくなくなるさ
 彼女を心のなかに受け入れてみろよ
 そうすればいい方向に進み始めるさ

 ヘイ、ジュード 怖がるなよ
 外に出て彼女をモノにするしかないんだ
 彼女を忘れられないほどになってみろよ
 そしたらよくなり始めるものさ



 And any time you feel the pain
 Hey Jude, refrain don't carry the world
 up on your shoulders
 For well you know that It's a fool
 who plays it cool
 By making his world a little colder
 ≪HEY JUDE 歌詞より抜粋≫

 辛くなったらいつだって、
 なあジュード こらえるんだ
 重荷を一人で背負い込んだりするな
 わかるだろ?
 物事を冷静に見てクールなふりをするなんて
 馬鹿なやつのすることさ

『ヘイ・ジュード』はタイトルの通り、ジュードという人に向けて歌われています。落ち込んでいるジュードに向けてポール・マッカートニーがくよくよするな、前を向いて進むんだと励ましているような曲です。

問題は励まされているのが誰なのかということです。ここでは最も一般的な説をご紹介しましょう。ポール・マッカートニー自身も語っていますが、『ヘイ・ジュード』はジョン・レノンの息子であるジュリアン・レノンに対して歌われていると言われています。当時、ジョン・レノンに何があったのでしょうか。

ジョン・レノンには1962年に結婚したシンシアという妻がいました。1963年には長男のジュリアンが生まれています。しかし、シンシアとの結婚はビートルズがあまりにも世界的スターになってしまったこともあり、公になっていませんでした。その後、ジョン・レノンは1966年にオノ・ヨーコと出会い、交際を始めます。つまりは不倫関係となったのです。ジョンとヨーコは同棲生活を始め、1968年7月にシンシアは離婚申請をします。



『ヘイ・ジュード』が制作されたのはまさにその離婚協議の頃だったのです。ジュリアンは5歳になっていましたが、まともに父親からの愛情を受けることなく、両親は離婚してしまったのです。
そんなジュリアンを不憫に思い、ポール・マッカートニーはジュリアンを励ますためにこの曲を作ったと言われています。

ジュリアンの愛称として、当初は「Hey Jules」というタイトルだったとも言われています。曲の背景を知って聞くと違う風景が浮かんでくる気がします。
ポールは幼少のジュリアンとよく遊んであげていたそうです。落ち込むジュリアンを見て、何とかしてあげたかったのかもしれません。ビートルズの『ヘイ・ジュード』はジョン・レノンの息子であるジュリアンに向けて書かれた曲だったのです。しかしそうした背景を超え、多くの人に勇気を与え背中を押す曲としてこの曲は今も愛されています・・・・・・。



筆者が感じるThe Beatlesの音楽を楽しむ機材はやはり英国の古いスピーカーの音が一番良く感じる、彼らは染みついた音は基本的には英国の音で育ち親しんだ音がして基本だからかも知れない。多分当時のステジオでは真空管ギターアンプに繋げ演奏したと思う、思えば随分古い話であるが、曲は今聴くも新鮮である

また「ビートルズのベスト」アルバムの中にも21番目、 ヘイ・ジュードが注入されている。音質はこのアルバムも大変良い録音です。



同じヘイ・ジュードも【マルタ・クビショヴァーのヘイ・ジュードは】
そこで、実は今回の紹介は、名曲“ヘイ・ジュード”に秘められたもう一つの知られざる“ヘイ・ジュード”の物語の紹介です。

ハイビジョンスペシャルこれはNHKテレビ放映した事実の物語であり一曲の歌で希望に繋いだ音楽の力のような物語です。市民たちの心の支えとなった歌があった。国民的歌手マルタ・クビショヴァーが歌う「ヘイ・ジュード」や「マルタの祈り」だった。昨日深夜?明け方に再放映を見て益々感動したので紹介します。今日は寝不足です。

マルタ・クビショヴァー(Marta Kubišová)はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェ出身の歌手。 1960年代から音楽活動を開始する。
プラハの春およびワルシャワ条約機構軍による軍事侵攻があった1968年に、ズデニェック・リティーシュ作詞によるチェコ語でカヴァーしたビートルズの「Hey Jude」で知られる。プラハ。ヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)を中心に広がる東欧有数の都会。120万の人口を誇るチェコの首都です。

14世紀、プラハは神聖ローマ皇帝カレル4世のもと、「黄金のプラハ」と呼ばれるほどの繁栄を謳歌しました。街並みにはその当時の面影が今も色濃く残されています。
お伽話に出てきそうな美しい街の景観、中世から近世、現代まで連なる様々な様式の建築物、クラシック音楽のメッカとしても、また様々な映画や文学作品の舞台として・・・・・。



プラハには世界中から観光客が訪れます。もちろん、世界遺産に登録されています。しかし、プラハは歴史的に見て、華やかな繁栄を謳歌するだけの街ではありませんでした。プラハは、世界史でも稀に見る幾多の困難を経験してきた街なのです。
 
チェコ語の使用を禁止された「暗黒時代」と呼ばれるハプスブルク家の支配。
第一次大戦後のナチス・ドイツへの編入、そして、冷戦下のソ連の実質的支配と、それを象徴する「プラハの春」を崩壊させた1968年のワルシャワ条約機構軍の侵攻・・・。
この美しい街並みの摩耗した石畳には、そして、教会の側廊の壁面には、プラハという街の幾多の苦難が刻み込まれているのです。
ビートルズの代表曲のひとつに、「ヘイ・ジュード」という曲があります。1968年、「プラハの春」とそれに伴うワルシャワ条約機構軍の軍事介入(チェコ事件)の直後、あるチェコ人女性シンガーがこの曲をカヴァーし、発表しました。

彼女の名は、マルタ・クビショヴァー。マルタは、当時のチェコのトップシンガーのひとり。ソロデビュー曲の「マルタの祈り」(Modlitba pro Martu)という曲が大ヒットし、国民的な歌手としてチェコのみならず、他のヨーロッパの国々まで名を知られている存在でした。


 この、マルタの「ヘイ・ジュード」は、その後、チェコの人々にとって、そして、チェコの歴史にとって大きな意味を持つこととなります。マルタの「ヘイ・ジュード」は、プロテスト・ソングでした。多くの知識人や有名人がソ連や共産主義政権に従属してしまう中、マルタは歌で戦うことを選んだのです。


1968年、チェコスロヴァキア共産党第一書記にアレクサンデル・ドゥプチェク氏が就任します。ドゥプチェクは当時の改革派の筆頭格。
彼は、閉塞状況にあった共産主義体制を改革させるため、同年の春に「新しい社会主義モデル」として、「党への権限の一元的集中の是正」「粛清犠牲者の名誉回復」「企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革」「言論や芸術活動の自由化」「外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した西側との経済関係の強化」といった、革新的な政策を発表しました。
この改革は徐々にチェコスロバキア社会に浸透していき、市民の間にも自由の気運が高まっていきました。



アーティストたちも自由に表現できるようになり、様々な若い才能が開花していきました(その中のひとりがマルタです)。

このドゥプチェクの改革運動が一般に「プラハの春」と言われるものです。しかし、この「プラハの春」は、たった4ヶ月程度で終焉を迎えることとなります。東側の盟主としてのソ連は、チェコスロバキアの自由化の流れを黙って見ているわけにはいかなかったのです。



1968年8月20日、ソ連率いる60万のワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。たった1日でプラハの街を制圧、チェコスロヴァキア全土を占領下に置きます。ドゥプチェクは解任され、「プラハの春」は終わりを告げ、再びチェコは言論弾圧や検閲の厳しい、改革前の状態に逆戻りしてしまいました。

そして、多くの知識人たちも、共産党を支持するか国を捨て国外へと去るかのどちらかを迫られたといいます。そんな中、マルタは秘かに当局と戦う決意をします。当時、放送局は既に当局に占拠され、自由や批判を表現することはできません。そこで、市民は工場の地下に秘密のラジオ局を設けて放送を流しました。


 
放送から流れてきたのは、マルタの「ヘイ・ジュード」歌詞を変え、暗に政府・ソ連批判や、自由への希望をチェコ語で訴える「ヘイ・ジュード」でした。

1969年にシングルカットされた同曲は、チェコ史上空前の60万枚という大ヒットを記録したといいます。しかしながら、すぐに彼女のアルバムは発禁処分を受け、マルタも当局に尋問を受けることとなります。

そして、1970年、マルタは音楽界から永久追放されることとなりました。永久追放後、マルタは歌うことを禁じられ、仕事を奪われ、やっと手にした内職の仕事も奪われるなど、苦しい日々を過ごしたといいます。しかし、彼女の歌はチェコの人々の心に残り、秘かに歌い続けられていたのです。
 
それから約20年後の1989年。東欧は大きな変革を迎えます。ソ連のゴルバチョフのペレストロイカに触発され、東欧の国々は民主化の動きを強め、1989年、ついにその運動が結実したのです。


 
1989年12月10日、プラハのヴァーツラフ広場。チェコの民主革命「ビロード革命」の達成を祝う30万の群衆の前にマルタは姿を現します。そして、人々に促され、代表曲である「マルタの祈り」(Modlitba pro Martu)を歌いました。

歌うことを禁じられていたマルタが、20年ぶりに人々の前で歌った。彼女の長い間訴え続けた自由がついに達成されたのです。それも、民衆の力によって無血で。広場は熱狂に包まれ、この歌は革命の象徴的な歌として、その後もチェコで広く歌われるようになったといいます。



マルタは筆者と同年代で、革命後、現在に至るまで音楽活動を続けており、アルバムを発表し、コンサートを行っているようです。

歌手が歌うことを禁じられる。アーティストとしてこれ以上の苦痛はないはずです。だけど、その苦痛を引き受けてでも、自分の信念に忠実であろうとしたマルタ。これほどの歌手が今いるのでしょうか。

本当に讃えられるべき人だと思います。筆者も年のせいか涙腺が緩み気味で悲しみと、感動が交差して涙が止まらなかった。確かに今日本は平和ですが何時迄も続けなければいけいと・・・・

ビートルズ解散間近のビートルズ音楽の最終章ヘイ・ジュード。新しい音楽への入り口は素晴らしい音楽への扉の音が聴けたことなのでしょう。特に青盤と称される中期~後期は、内省的、実験的な内容は奥深い、ブラボー!

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