伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

J.S.バッハ:パルティータ(クラヴィーア練習曲第1巻)BWV 825-830をグスタフ レオンハルト(Gustav Leonhardt)演奏で聴く。

2021年07月27日 | バロック音楽・オーディオ一般


ただいまオリンピック開催中で大変盛り上がっています・・・、筆者が感じる事は日本人の考えが変わって来たように思う、以前池袋周辺を暴走した車を運転した現在裁判中の飯塚被告は東大卒です、一般には「上級国民」との扱いがあるとも言われるが、むしろ上級国民な尚更刑罰は厳しく示して頂きたい、前職旧通産省(現・経済産業省)に勤めており、軽量計測の専門家として勤務した経歴はあるが、誠に残念なことに飯塚被告は常識の欠片も無いように見える。未だ反省もなく、まるでいさぎ悪く嫌悪感さえ感じる、素直になって頂いたい。

同様に、現在大幅赤字問題の朝日新聞社新聞単価を値上げして、対応するが早く処分が望ましい。何処で道を間違ったかは大変興味深く疑問が多いですが、中共からの提供されたCM料を入金し親中に変化した事が原因だったのかもしれない、歴史ある新聞社も国民からは拒否されて残る道は解散であろう。
確かに昔は評判と格式も高く持ち合わせた日本を代表する新聞社も散々である。

戦後吉田茂総理終盤で登場した時代、朝日新聞の筆勢を主宰した新聞人、緒方竹虎(おがた・たけとら)について考えてみた。1888(明治21)年1月30日、山形市に生まれ、福岡で育つ。昔は権威のある新聞社であった。

1911年早稲田大学専門部を卒業して『大阪朝日新聞』に入り、東京の大阪通信部に勤務する。以後、論説班、英国留学、ワシントン海軍軍縮会議特派などを経て、1923(大正12)年『東京朝日新聞』に移り、整理部長、政治部長の後、1925年編集局長となった。



筆者が感動した緒方竹虎の講演の言葉の原文掲載があります、興味のある方は是非一読していただきたい。

昭和に入ると取締役として経営に参画、石井光次郎、美土路昌一とともに、編集、営業の基礎を固めるとともに自ら『朝日』の筆勢を主宰した。1936(昭和11)年の二・二六事件の時には、陸軍青年将校の朝日襲撃に際し、単身反乱軍と対決した話は有名である。1943年副社長となったが、翌年小磯内閣の国務相兼情報局総裁に就任、退社した。1945年4月内閣総辞職で退官したが、8月東久邇宮内閣成立で再び国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁となり、終戦時の混乱収拾に力を尽くした。

戦後は戦犯容疑者に指名され、公職追放となったが、解除後は政界に復帰、1952年衆議院議員に当選日・米・台の3カ国防衛体制を考案し一年生議員が官房長官を務める国民に世界情勢を正直に伝えるべきと公言している、第4次吉田内閣の国務大臣兼内閣官房長官に就任、以後、副総理、自由党の領袖として活躍した。1954 年吉田茂に代わって自由党総裁になるが、1955年の総選挙に敗れ、保守合同に尽力、11月自由民主党を結成して、総裁代行に就いたが、翌1956(昭和31)年1月28日67歳で急逝した。

当時から問題と言われた事に憲法改正、平和維持の為に日本版CIAの設立案等画期的な案を画策していたようです。当時から緒方竹虎は中共、朝鮮半島には疑問を持っていたのであろう。現在オリンピック終了後アジア情勢(台湾・尖閣諸島)に大きな変化が現れるかもしれなく、注視するところである。いつまでも平和が続くことを祈るばかりだ。



話は本題に戻します。先日暇な時の読破しようと思い、Stereo Sound誌から発売の「EL 34\KT88book」と言う本を購入した。以前読んだ本ではEL 34と6CA7の音に違いがあると書いてましたが、製作時の手法が違うかは私には解らない。

今までにもEL34の真空管に関する本は多いが、誠に残念なことに、松下電機製作所の作った6CA7の火屋を予備球と合わせ8本しか持参してなく、情報を仕入れじっくり読んでみた。音は穏やかな感じで鳴る、ゴールデン・ドラゴンと似ているといわれる。松下製6CA7はゴールデン・ドラゴンと比べると明るさ、輝が若干抑えられた渋めの厚みのある球と記載されている。

当時日本の真空管のの歴史は、マツダ(後の東芝)が最高級でその下にナショナル、NEC、TENが傾城される様な順にありましたが、フィリップスと技術提携した松下電器から画期的な高性能出力管6CA7(25W)が登場した、特性は綺麗で安定性が高くしかもハイパワー、外観もスマートと多くの魅力的的なパワー管が昭和30年に登場したそうである。今も名機と言われるパワーアンプにマランツ♯8Bの真空管は6CA7(EL34)を使い、アルテックの1568Aのパワーアンプも6CA7(EL34)を使っている。

高出力の魅力ある火屋とし今も安心して使われてきた真空管でもあり、現在のアンプとしても火屋のアンプは一戦で活躍している、勿論現行管も海外製品は製造してしているロシア、支那、チェコ製品と海外製品名が多いと聞く、支那の作る真空管の相当良くなっているそうです。

今後機会があれば銘管と言われる火屋を入手し玉転がしたいと思う、今後アンプ本体も良い物が見つかれば仕入れて視聴し楽しみた。



筆者も未だ古い1972年2月発売されたLUXKIT A3500の配線をある程度WEのケーブルに交換したものを愛用している。このアンプをお使いの貴兄は未だ沢山の方がお使いになられると思いますが、意外と長持ちして堅牢の様子で大切に使っています。注意は定期的にコンデンサーの交換は消耗品と理解しているが、又サブ管にECC85を使うが当初は松下製が使われたいたが、この火屋はSIEMENS等海外物を購入して期待した、後は海外製を含め7種類程の玉転がしをしたが、現状の6CA7(EL34)には結果は日立製品の音が良く、音の輝き等が優れ予備管を含め6本購入して定番として使っている。

真空管アンプの面白さは火屋での音質が微妙に違い色々の球を交換して試したいのだが、ヴィンテージ管は高額で4本10万円程は低額で当たり前の世界であり、貧困老人には中々手が出せないのが現状である、先日松下製の6CA7未使用球を4本予備として購入したが意外と出費したと反省しています。フタには当時は定価1,400円のプリントされていた、現在は10倍以上の価格になっている。

確かに真空管アンプの魅力は出力管の違いで大いに音質が違う、音楽により選ぶ真空管を選ぶ楽しさは、深みがありオーディオの醍醐味かも知れない。但し注意点はピアノ演奏での音質を重視すると、弦楽器の音に模台が生じる、お互い適度な音楽の聴ける音を選ぶ事は面白いようです。



この曲6つのパルティータ(クラヴィーア練習曲第1巻)BWV 825-830(Sechs Partiten, Erster Teil der Klavierübung )は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が作曲したクラヴィーアのための曲集。

このクラヴィーア練習曲第1巻に筆者が興味を持ったのはバッハを聴き出し、かなり遅い時期と記憶する、バッハらしい落ち着いた曲である。

この曲の特徴は「クラヴィーア練習曲集。プレリュード、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグ、メヌエットおよびその他の当世風舞曲よりなる。愛好家の心を楽しませるために、ザクセン公およびヴァイセンフェルス公の楽長にしてライプツィヒの音楽監督、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲。作品1。作曲者により刊行。1731年。」



1726年、バッハは自作品の出版を開始した。ライプツィヒに赴任して3年半を経た頃のことである。出版に際してバッハの計画は慎重と周到をきわめた。曲種としては、当時の最新流行であるギャラントな組曲を選んだ。規模は《イギリス組曲》のように長大でなく、《フランス組曲》のように華奢でなく、内容は平易で、しかし鍵盤楽器のヴィルトゥオーゾと呼ばれたバッハの名声をより高めるような、何より自身が納得できる、充実したものでなければならない。

購買層としては、公開演奏のレパートリーよりも、家庭やサロンなど私的な場で演奏しようという一般の人々を想定した。そして、ほぼ毎年1曲を順次刊行して売れ行きを確かめ、1731年にいよいよ6曲をまとめて再版した。

タイトルに関しては奇をてらわず、ライプツィヒ・トマス教会の前任者クーナウにならって組曲をイタリア語風に《パルティータ》とした。また、好評を博し当時ひろく知られていたクーナウの作品集から『クラヴィーア練習曲集』の表題を拝借した。この「練習曲」というタイトルは、決して19世紀的なエチュードと同義ではない。音楽から慰めを得たいと望む人々のための親密な作品として、そしてもちろん、完成された音楽的規範としての意図がここには込められている。



この曲集は、出版されたにも拘らず、改訂に関して複雑な問題を残している。バッハは自作、とりわけ鍵盤作品に改良の手を加え続けたが、その筆は出版作品に対しても鈍ることはなかった。分冊で先行して出された稿と、1731年の集成本の稿はすでに異なっている。また、バッハが手元に置いた1731年版には更なる修正が施された。このほかにも改良のための書き込みを含む印刷譜が4部つたえられており、そのうち1冊はバッハ自身のものである可能性が高い。

全6曲には、それぞれ異なった冒頭楽章が与えられた。組曲の構成は《フランス組曲》以上にさまざまで、挿入舞曲の曲種や配列においては慣習を逸脱するものがある。楽章構成や音楽語法が多様をきわめる一方、曲の冒頭の関連付けや終止音型の統一、対位法的展開や綿密な動機労作によって、楽曲の統一感はいっそう高まる。「多様と統一」というバッハの美学の極致を、ここに見ることができよう。繰り返し何度も聴けばその音楽の魅力に虜になる。

なお、この曲集が「ドイツ組曲」と呼ばれたことがあるが、バッハに由来する名称ではないし、様式の上からもこれは適切でないと言われています。《フランス組曲》や《イギリス組曲》がそれぞれフランス的、イギリス的な典型とは言えないように、《パルティータ》にもまた、ドイツ的な典型を見出すことができないからである。
パルティータ(全曲)(クラヴィーア練習曲集第1部)
使用楽器:
チェンバロ…J.D.ドゥルケンのモデル(1745年アントワープ)によるマルティン・スコヴロネク製(1962年ブレーメン)
録音:1963年-1970年 キルヒハイム,フッガー城,糸杉の間 [ADD/STEREO]



 1.パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825-プレルーディウム
 2.パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825-アルマンド
 3.パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825-クーラント
 4.パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825-サラバンド
 5.パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825-メヌエット1/メヌエット2
 6.パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825-ジーグ
 7.パルティータ第2番 ハ短調 BWV826-シンフォニア(グラーヴェアダージョ-アンダンテ)
 8.パルティータ第2番 ハ短調 BWV826-アルマンド
 9.パルティータ第2番 ハ短調 BWV826-クーラント
 10.パルティータ第2番 ハ短調 BWV826-サラバンド
 11.パルティータ第2番 ハ短調 BWV826-ロンドー
 12.パルティータ第2番 ハ短調 BWV826-カプリッチョ
 13.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-序曲
 14.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-アルマンド
 15.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-クーラント
 16.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-アリア
 17.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-サラバンド
 18.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-メヌエット
 19.パルティータ第4番 ニ長調 BWV828-ジーグ

 1.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-ファンタジア
 2.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-アルマンド
 3.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-クーラント
 4.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-サラバンド
 5.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-ブルレスカ
 6.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-スケルツォ
 7.パルティータ第3番 イ短調 BWV827-ジーグ
 8.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-プレアンブルム
 9.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-アルマンド
 10.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-クーラント
 11.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-サラバンド
 12.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-テンポ ディ メヌエット
 13.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-パスピエ
 14.パルティータ第5番 ト長調 BWV829-ジーグ
 15.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-トッカータ
 16.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-アルマンド
 17.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-クーラント
 18.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-アリア
 19.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-サラバンド
 20.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-テンポ ディ ガヴォット
 21.パルティータ第6番 ホ短調BWV830-ジーグ

 [演奏] グスタフ・レオンハルト(チェンバロ:J.D.ドゥルケンのモデル[1745年アントワープ]によるマルティン・スコヴロネク製[1962年ブレーメン]) [録音] 1968年6月16日&17日(第1番&第5番) 1964年2月28日-3月1日(第2番) 1970年2月11-12日(第3番&第6番) 1963年9月3日-6日(第4番) キルヒハイム、フッガー城、糸杉の間(ドイツ) ADD ジャンル:器楽曲(チェンバロ)



演奏者は筆者の好きなGustav Leonhardt(グスタフ・レオンハルト)をよく聞く。古楽鍵盤楽器奏者、1928年オランダ生まれ。バーゼル(スイス)のスコラ・カントルムでチェンバロ、オルガン、音楽学を学んだ。20世紀後半に興った古楽の復興のパイオニア的存在としてチェンバロ、オルガン、フォルテピアノを演奏、指揮活動ではニコラウス・アーノンクールと共同で行った古楽器演奏によるバッハの教会カンタータ全曲録音が特によく知られている。鍵盤演奏の分野では、とくに歴史的チェンバロの意義と奏法にいち早く着目し、現代式のチェンバロとは大きく異なるその魅力を演奏者ないし教育者として広く伝えてきた。

2007年には長年遠ざかっていた指揮活動に復帰。2011年12月にパリで引退公演を行い演奏活動から遠ざかっていたが、2012年1月16日、アムステルダムの自宅で亡くなった。



バッハの鍵盤音楽の中でもひときわ美しく、自由さと新鮮さに溢れた6曲のパルティータ。大家レオンハルトによる、深い思索の時を思わせる名演! バッハの数多い鍵盤作品の中でもその美しさと独創性において際立った存在であるこの「6つのパルティータ」は現在ピアノでも演奏される機会の多い名曲ですが、バロックの舞曲とその性格が弱まり、古典組曲様式の崩壊と新しい様式を告げるものとして興味深い作品です。レオンハルトによる演奏はそのクラヴィーア組曲の最後を飾るにふさわしい、各曲の性格を実に入念に表現して深い精神性を感じさせる、チェンバロによる決定的名盤です。

グスタフ・レオンハルトは1928年5月30日、オランダ・ヒルフェルスム近郊のフラーフェラントに生まれた。生家は貴族の血を引くスウェーデン系の富裕な実業家の家庭で、幼い頃からピアノを学び始め、15歳の時に父親が購入したチェンバロ、オルガンに親しむ(妹トゥルデリース・レオンハルトもフォルテピアノ奏者)。
1947年にバーゼル・スコラ・カントールムに入学、チェンバロとオルガンをエドゥアルト・ミュラーに師事。1950年に最高栄誉賞とソリスト・ディプロマを得て卒業し、同年にウィーンでチェンバロ奏者としてデビューした。
1952年にウィーン音楽アカデミーに教授として迎えられ後進の指導を始めるが、1954年アムステルダム音楽院の教授にも任じられ、1955年にはウィーンの職を辞して故郷アムステルダムに帰り、同地での指導に専念、ニーウエ・ケルク(新教会)の専属オルガニストとしても活躍する。



また、50年代半ばにはレオンハルト・バロック・アンサンブル(後にはレオンハルト・コンソートとなる)を組織し、アンサンブルの中心として、また指揮者としても活動を始める。1954年カウンターテナーのパイオニア、アルフレッド・デラーと共演しバッハのカンタータ(BWV54&170の2曲)の先駆的な録音を行う。このアンサンブルにはウィーンで知り合ったニコラウス・アーノンクールもチェロ・ガンバ奏者として参加していたが、この縁が1971年からのバッハ:カンタータ全集録音へと発展する。1960年代には、フランス・ブリュッヘン、アンナー・ビルスマ、ヤープ・シュレーダーとともにクアドロ・アムステルダムを結成、古楽器演奏の牽引的存在として大きな注目を得る。

指揮者としてはモンテヴェルディやラモーなどのバロック・オペラを蘇演し、バッハの『マタイ受難曲』や『ミサ曲ロ短調』、アーノンクールと分担で録音したカンタータ全集(1991年に完成)など声楽作品の録音も多い。

もしレオンハルトがいなかったなら、アーノンクールやブリュッヘン、ビルスマ、クイケン兄弟など古楽の同志や仲間たちの演奏活動は随分違ったものとなっただろう。彼の周囲に参集した若い古楽奏者たちは、もし彼という中心がなかったら、何処に集まったのだろうか。オランダは古楽復興の世界的な中心地となっただろうか。
チェンバロを取り巻く状況はどのようになっていただろうか。彼が演奏活動を始めた1950年代の前半には、「チェンバロ」と言えば「モダン・チェンバロ」を意味した。「モダン・チェンバロ」とは、ピアノのように堅牢な構造体にチェンバロの弦をはじくアクションを組み込んだ楽器で、今日広く用いられている「歴史的チェンバロ」とはおよそ似て非なる楽器であり、チェンバロと言うよりは「チェンバロ化されたピアノ」を呼んだ方がふさわしいものであった。今日では、当時を知る多くのチェンバロ製作家やチェンバロ奏者が「怪物」とか「モンスター・マシン」などと呼んで、モダン・チェンバロに対しては否定的な評価を下しているが、歴史的チェンバロの魅力を世界中に伝えたのは、1960年代のレオンハルトのレコードであった。彼の音色に魅せられて彼の直輸入レコードを買い漁った事も記憶に残っている。



レオンハルトの死、2006年春レオンハルトはリンパの癌にかかり、秋には危篤に陥ったが、奇跡的に回復し、その後は演奏にもますます深みを加えた。80歳の誕生日のパーティには、世界中から音楽関係者が参集し、オランダのラジオは毎日のように彼を祝福するメッセージを流し続けた。しかし近年は体調も思わしくなく、12月中旬、パリ北部でのリサイタルの後、突如引退を宣言してその後の演奏会の予定を全てキャンセルした。そして葬式の準備などを全て自らの手で整え、1月16日、アムステルダムの自宅で、家族のみに囲まれながら静かに逝った。享年83歳。一つの時代が終わった。

1750年7月28日バッハの命日に聴く音楽はカンタータ106番です。「BWV106」  神の時こそ いと良き時 (Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit)を聴く。次回はカンタータBWV106の紹介をしようと思います。

夫人から彼の逝去と葬儀の次第の通知を頂いたそうですが、実にレオンハルトらしく、その最初のページにはカンタータ第106番の歌詞が印刷されていたそうである。「神の時こそいと良き時。われらは神の中に生き、動き、また在るなり、御心に定めたもうかぎり。我らはまた良き時を得て、神の中に死ぬるなり、御心の定めたもうままに。・・・・」バッハに一番近づいた方のように感じた。

再度レオンハルトのカンタータ全集を改めて考察したい。ブラボー!

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