伝統ある英国の10吋ユニットで聴く、音楽の父のJ.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

人間は何故音楽を聴くのであろうか、と疑問を持った事は無かったのかについて考えてみる。果たして「良い音楽」とは・・・

2022年04月23日 | J.S.バッハ制作音楽

今回もバッハの音楽を聴いてます。途中になっているカンタータを聴き続ける。

 BA1. BWV 1-231 カンタータ、モテット
 BA2. BWV 232-243 ミサ
 BA3. BWV 244-249 オラトリオ
 BA4. BWV 250-524 コラール、歌曲
 BA5. BWV 525-771 オルガン曲
 BA6. BWV 772-994 オルガン以外の鍵盤楽器(チェンバロ、クラヴィコード)の曲
 BA7. BWV 995-1000 リュート曲
 BA8. BWV 1001-1040 室内楽
 BA9. BWV 1041-1065 協奏曲
 BA10. BWV 1066-1071 管弦楽曲
 BA11. BWV 1072-1080 ひとつの作品の中に異なる演奏形態の含まれている作品や演奏形態の指定のない作品

さて今回はBA1カンタータ、モテットの詳細であります。

最近また五味康祐について思い出す、オーディオ好きの筆者は昔からの愛読書に五味氏による数々の本があるが、殆どは読んだが全て理解したわけでは無い、その中でも一番納得する本と言えばオーディオの教科書とも言われたステレオサウンド誌に掲載されたオーディオ巡礼は今も時々目を通わせている。


当時からステレオサウンド誌と言えば世界の名機が写真により掲載され写真技術も印刷技術も高度な雑誌であり、高額は常識と思えたことも不思議であった。
五味先生は当時タンノイ、マランツ、マッキントッシュ、JBL、アルテック等。世界の銘機も、使い方を誤れば音が悪くなる。生涯、理想の音を追求しつづけた著者にとって、よいオーディオ装置とは何だったか? スピーカーの逸品タンノイ・オートグラフへの愛を語り、真空管アンプの品位を称讃し、FMチューナー・マランツ10Bの性能向上に熱意を燃やしたスーパーマニアの、生涯、理想の音を追求しつづけた著者にとって、よいオーディオ装置とは何だったか?

最近何かと話題となっている、ジョン・レノン生誕80年目を迎えた10月9日から行われている展覧会『DOUBLE FANTASY - John & Yoko』の会場の一角に、こんなテキストが記されていた。これは『Rolling Stone』誌によるジョン・レノン生前最後のインタビューで語られた言葉として知られている。
般若心経 × イマジン [ジョン・レノン cover]を聴きながら・・・・少し筆者の本音を考えてみました。

兎角今の時代は完全に狂っている、良いオーディオ装置は何千万と桁が二桁三桁も違う、とんでもない時代であろう。この事は昔から同じで、金がない貧乏人は音楽は聴くなって感じに思える、しかし貧乏人でも音楽は楽しみたい。
その様な時に、五味氏の本に中身は、ホッとさせる文章がある、「一枚でも多く、先ずいいレコードを聴くことだ。装置をいじるのは、レコードを聴き込んでからでも遅くはない。むしろ、その後に装置を改良したほうが、曲の良さが一そうわかり、味わいが深まるだろう。」そのときには、コンポーネントにどんな部品を選ぶかは、本誌などの助言をまたずともあなた自身が決めることになるだろう。その時こそ、あなたの教養が、全人生が、あなたの部屋で鳴るだろう。「オーディオの真髄」よりの文章を見つけ納得する。



オーディオで、ナマを深追いしてはならない。それはけっして美しい音ではない。美しい音は、聴覚が持っている。機械が出すのではないのである。「美しい音とは」を再考するのである。

以前東京御茶ノ水にある某オーディオショップの年配の店舗の方から、最近は昔のヴィンテージと言われるオーディオ機器で揃えたシステムのが安価で、しかも音質が良くある程度適度にメンテナンスすれば良い音で意外と安価に仕上がります、最近のお客様には人気があるようですと答えていたことが印象に残る。
勿論その昔15吋のタンノイヨークを発注するが、タンノイ工場火災により他の商品の購入を余儀なくされた過去があるその後購入したBBCモニターである、他に筆者のスピーカーには1974年発売されたその昔、悪友のI君から譲り受けたTANNOY IIILZ in Cabinet(Chevening)は手元に残し十数年前にオーディオ趣味は止めて処分してしまった、5年程前人生の終活を考える時期に、最後にバッハらしい音のバッハの音楽が聴きたくなって、年老いての趣味なので無理はしない程度でこの泥沼生活を再開させてしまった。

確かに退職を迎え膨大な時間を楽しんでみようと、オーディオの再会と共に、其れまでの釣りプログを音楽ブログに変えた、齢70歳を過ぎた爺さんに僅かな年金で暮らす貧困老人ではあるが、高額なオーディオ商品は観るだけと言う実に悲惨な状態の環境ではあるが、救いは昔は無かったヤフオクという奥の細道での購買方法があった。ソフト関係もiTune、CDでの購入で好きな演奏を入手して細々と老後の生活を楽しんでいる。

さて其処で最近購入のバッハの全集とカンタータ全集(Nikolaus Harnoncourt, Gustav Leonhardt)を入手しせっせと聴いている、今回はカンタータ 第106番 哀悼行事『神の時こそいと良き時』BWV106この曲は、若い時の作品ながら、バッハが再評価された19世紀からとても人気があった作品です。



同じく若い頃のものとされる『トッカータとフーガ』のように、斬新な魅力があるといえるでしょう。
歌詞は、「掟としての死」を説く旧約聖書と、「救済としての死」を説く新約聖書を対比的に引用するという凝ったもので、音楽にも細かな彫琢が施されています。

但し日本人には余り受け入れられない海外の宗教の歴史はすごい違いがある、日本が近代国家に発展したかの秘密は、世界中の本が翻訳され、あまりにも多くの本が勤勉な日本人は書物を読み理解し一般的には教養を身につけた事は大きい。但し宗教の違いに猛烈な違いを知った、勿論筆者なども日本人であるので宗教についても全く興味はなく何となく学校で習う歴史的宗教知識しか無い。
世界には大別するとシーパワー(自由圏)とランドパワー(共産圏)が有るが一番始末の悪いのは支那は朱子学と共産圏とのマッチングして、この先も変わらず、ロシアはキリスト教という宗教がある為変わる可能性もあると言う方もいるようです・・・・・。
アメリカは大東亜戦争と言わず大平洋戦争と言わせたか?今こそ、この事を日本人が知り理解しなければならない大東亜戦争の真実 歴史は時々立ち止まり史跡を振り返り真実を突き止め事実を理解する事が肝心である

筆者が思う、ロシア、支那、朝鮮(大韓民国含め)嫌いな嘘つき国家で工業製品までも疑いも強く持っているが、冷静に考えれば我が国も所謂コピー商品を作り成長した国ではあるが、但しオリジナルを越えようと努力しオリジナを超えた物作り出して現在の地位を築いたがこの三つの国の違いは、ポリシーが無い共産圏の国ではある。しかし現在真空管に関して考えればロシア、支那の球は産地国でもあり、需要が大きく馬鹿に出来ない現状がある。一刻も早く平和国家を目指して欲しいと願うばかりである。確かに最近の支那製品のオーディオ機器の価格は完全に価格破壊を起こしているように感じる。

西洋では、元を正せばユダヤ人が唱えたユダヤ教はやがて一神教キリスト教を起こしたイエスもユダヤ人でキリスト教も西欧カトリック(イギリス、フランス他)と東ローマ正教会(トルコ、キエフルーシ、ロシア等)に分離するがユダヤ人はバラバラになる生き抜くためにユダヤの歴史は史上初の商業、金融業を起こしが、申命記という戒律があり、同族には金利は取らず他民族には金利を取っても良い。この様なことで国を持たないユダヤ人が世界に散った。



内容的にも、明らかに特定の人物を想定した葬儀用音楽になっています。此処で言い訳をしますと、キリストの教えも色々あり、イスラム教のアッラーの神が伝えた教え、また仏教が教えたお釈迦様の教え等があり神は人々に神の道を教え導く、勿論毎週毎に教会に通いカンタータを賛美する。

しかし日本人はあまりカンタータ等は興味はない方が多いと思う、ヘブライ語、ドイツ語、英語等其々の言語で歌う歌など関心は示さない。

しかし確り整った装置で聞けば意味不明の曲も実に美しく尊い物の様に感じる、地球上で一番素に近い民族である日本人の宗教は自然なので、神は回答を示さず自然に過ごせば善悪は自然と理解できる事が神である、「八百万の神」日本人は古代から稲作をはじめとした農耕や漁などを通じて、自然と関わりながら生活をしてきました。自然の恵みにあやかる一方で、台風や日照りなどの脅威にもさらされることで、人々は自然現象に神を感じるようになりました。



海外の宗教と異なり自然を神とする民族であり、根本的に仏教、キリスト教等は教えである、その様な背景を考えれば西洋音楽等を趣味とする日本人は少ないのであろう。

但しここで衝撃の事実が伝わるユダヤ教の教えに神の証拠に関する事の掲載がある、
 1.モーゼの石板「契約の板」
 2.アロンの杖「モーゼの兄アロンの使った不思議な杖」
 3.マナの壺「永遠の食べ物」
そして、この三つを入れた黄金の箱が「契約の箱」アカシアの木で作られた金で化粧を施したアークである。その全てはヘブライ語で示されていますが、最近の研究では日本語とヘブライ語に多くの共通点があると話題にもなっているようです。本来の歴史は新しい発見と共に事実が解明さるようです。
化学的にも染色体、DN遺伝子で解明される新しい分野も歴史を改める方法にもなっている今後化学の発達により解き明かされる事も多そうである。


映画でも話題になったインディ・ジョーンズ/レイダース 失われたアークがあるが、日本も太古の歴史から三種の神器はある、何か似たような話であろうか、海外ではこの「アーク」のレプリカを担ぎ神輿のように担ぎ街を練り歩く風習もエチオピアでは盛大に行われているそうである。

祭りの起源でもあり、まるで日本のお祭りの様な光景で思わず近親姦が湧く話である。
夢の様な話ではあるが実際にアークは存在すると言う、この契約の箱が見つかれば新しい歴史が生まれ変わるのかもしれない。



この当時はスラブ人はモンゴル人に圧倒的戦力に完敗し暫くモンゴルが解体するまで奴隷的な仕打ちにあいアジア人を嫌った過去がある。

その後東ローマ正教会はウクライナ(コサック騎兵)とユダヤ人問題となりモンゴル支配とローマ正教会ウクライナ・コサックと異なった国との交流によりモスクワ大公国は第二のローマ正教会と言われ、その後帝国主義となったモスクワ大公国とウクライナの争いに発展した歴史がある。現在による民主国と共産国の違いのように思えるのは筆者だけなのであろうか?
蒙古騎兵が強かった当時の鎌倉末期に2度の元寇の役で競り勝った日本武士団は相当強かったのであろう。あの時蒙古に負けていれば今の日本は全く違う国家形成を進んだのであろう。



日露戦争当時は圧倒的強さを誇るコサック騎兵団と対等に戦った秋山支隊の日本騎馬兵の強さを世界が認めた瞬間でもあった。日露戦争と言えど日本軍が戦った場所は現在の支那の遼東半島であり、末期はバルチック艦隊を殲滅してしまったのが日露戦争である、ロシアの地での戦は無かったがロシアはアジア人に2度も戦争で負けている、アジア人は憎く怖いのである。

ヨーロッパの歴史は宗教の起こした過ちが多い様に感じるは筆者が日本人であるからそのように思うのかもしれない。最近DNA解析で人間の歴史を紐解くことができるようになり、男性のY遺伝子で祖先が判別出来るようになっているが、日本人の遺伝子は何と支那でも朝鮮でもモンゴルでも無くイルサレムと似かよっていると言われる。

人間色々で人生何かと関わった事は特に音楽のリズム等はその後に影響する事は事実であろう、筆者など若い頃聴いたビートルズの曲にIn My Lifeという曲を聴き中間にバロック調の曲に興味が湧きバッハの音楽に夢中になった、特に当初はバッハ音楽の特にケーテン時代の器楽曲を多く聴く様になった。其処でオーデオにも目覚めた時代であった。

今だにメインのエンクロージャーは10inch同軸2ウェイ(HPD295)を使用していたが1年前にIIILZ Monitor Goldのユニットを入手して現在はMonitor Goldで楽しんでいます。
勿論駆動するアンプは真空管を使っているが、先ず先ずの鳴り方に粗満足していたが、プリアンプをモノーラルで使うと音質が良くなったと騒いでいる記事を見つけ、プリアンプをポチリしてしまった。早速届き現在使っている状態と同様に改造を施し試してみた。真空管等が馴染むまで適度な時間が必要であろう、2〜3日の間は電源を入れ調整した。



そして早速繋げてて視聴する、これは、実に驚きである、真空管プリアンプと言えどこれは最新のデジプリアンプでの音は繊細で、凄まじい分離が体感出来た、視聴したDina Ugorskajaのベートーヴェンピアノソナタ31番、ダヴィッド・フレイ & ルノー・カピュソンのバッハヴァイオリンソナタBWV1016の触りを聴く、そして好きなウィーン・フィルハーモニー, ロンドン交響楽団 & イシュトヴァン・ケルテスのドボルザークを・・・実に良い塩梅に鳴った、プリアンプのモノーラル使用の威力は想像を超えた音が一音一音分離してしっかり耳に伝わる様に感じる。全く余分な音がしないのです。あとはヴォーガルを試そう。
今のシステムの其々の機器のエージングが落ち着けば人様に聴かせても恥ずかしくない仕上がりの音楽が鳴らせる音になるのであろう。(プリのモノーラル化で全く違う解像度の変化が反応した。)このような変化があるのならパワーアンプのモノーラルで益々冴えるのであろうか?

今回の音質の変化を堪能するには長い時間を要した、頭では解るが言葉での説明が難しい、其処を敢えて文章にすると、今まで演奏を聴くと中央より若干離れた場所で聴いていた席で聴く感じが、中央より少し前に移動し音符の一つ一つが明確になった感じになる、しかし目の前の演奏とは違いそれなりに距離は感じる。特にヴォーガル等はその傾向が近く感じた。

早速紹介するのは編成はなかなかの規模で、4人の独唱に4部合唱、リコーダー(ブロックフレーテ)、ヴィオラ・ダ・ガンバ各2、通奏低音という、古風で渋いものです。
この曲については、音楽学者の礒山雅氏が名著、バッハ=魂の聖書引用部分のうち登場人物のセリフ以外の部分をレチタティーヴォで歌う役のこと。一般的にテノールが担当することが多い。宗教的な意味合いと音楽を詳しく考察されているので、それを引用しながら聴いていきます。

バッハ:カンタータ 第106番 哀悼行事『神の時こそいと良き時』BWV106
Johann Sebastian Bach:Cantata, BWV106 “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit”



アーノンクール・レオンハルト60枚組。購入前、一番心配したのは、「動」と「静」ぐらい違う2人が200曲近い曲を分担で録音しています。
オケは違うし、2人の個性は違うが素晴らしい全集である。と言うのは、ソロ歌手が同じで少年合唱(ウィーン、テルツ、ハノーハーの3団体)が同じなため、指揮者が違う事によって200曲が変化のある全集になっており、良い結果を生んでいるのだ。
歌手では、クルトエクヴィルツ(テノール)とポールエスウッド(アルト、C-T)が素晴らしく安定感があるため全集の価値をたかめている。

第1曲 ソナティーナ
冒頭、この上なく愛らしい、それでいて含蓄深いメロディーを奏でるのは、リコーダー(ブロックフレーテ)とヴィオラ・ダ・ガンバという、もうすぐいったん世から消え去る楽器です。もちろん、バッハにはそんな認識はありませんが、今から思うと暗示的です。現代のお葬式でリコーダーが吹かれたら、学芸会か!?ということになりますが、苦労の多かったであろう人生を終えて、救いに向かう魂を送るのにふさわしい音色に思えます。この曲は葬儀の参列者の心に、故人の思い出とともに沁み入っていくことでしょう。

第2曲 合唱と独唱  
歌詞は聖書を引用した自由詩ですが、作者は分かっていません。バッハ自身だという人もいます。全体は4部に分かれ、後年のカンタータのように、アリア、レチタティーヴォときっぱり分かたれているわけではなく、連続して続いていきます。未成熟のような形式ですが、それがかえって劇的に心に訴えてくる、というので人気があります。古くて新しい音楽といえるでしょう。

第3曲 独唱とコラール 
通奏低音のみの伴奏で、アルトが神への呼びかけを歌いますが、その響きにはすでに哀願や恐怖はなく、静かな中に神への信頼に満ちています。
音楽はそのままバスに受け継がれます。その歌詞は、イエスと一緒に十字架にかけられたふたりの罪人の片方に語った言葉です。一人はイエスに「神の子なら自分と俺達を救って見せろ」と罵ったのに対して、もう一人は「我々は当然の報いを受けているだけだが、この人は何の罪も無いのだ」と諭し、さらにイエスに「神の国で、私のことを思い出して下さい」と語りかけました。それに対するイエスの返事、「きょう、あなたは私と一緒にパラダイスにいるだろう」です。死を前にしたキリスト教徒にとって、かけがえのない言葉であり、これでカンタータは希望に転換し、ルターのコラールがアルトで歌われ、ヴィオラ・ダ・ガンバがこれに和し、天国的雰囲気に満ち溢れます。
教師による弔辞と遺骸の祝別を経て演奏されたと思われるカンタータの後半は、すでに浄化された気分に支配されている。

第4曲 合唱
途中の深い信仰的考察の世界から、冒頭の明るい器楽の奏楽に戻り、その導入に続いて、コラールがしめやかに歌われます。そして、合唱がイエスの栄光の力を讃え、最後にはアレグロのフーガ「アーメン」で締めくくられます。
こうしてカンタータは、喜びに満ちた終曲へと入ってゆく。つまり、コラール「誉れ、讃美、尊崇、栄光を」が合唱され、「アーメン」の二重フーガがクライマックスを築いて、全曲が閉じられるのである。



こうしたカンタータを前にすると、われわれは、宗教的歌詞の解釈やその音楽化において、バッハがすでにきわめて高い境地に達していたと実感しないわけにいかない。いやそれどころか、バッハは、22歳に於いてすでに、生と死の問題に関して、大きな悟りのようなものに到達していたと、信ぜざるを得ないのである。
全曲聞いても20分弱で聴き終わるカンタータですが実に気高き聡明な音楽に包まれる様な感じがする、確かにこの辺りのニュアンスが一枚で良い音楽をと言う意味が徐々に理解できるのである、またそれにはより透明度の音質を得ることでそのような感覚が身近になる感覚か?

実にクリヤーに研ぎ澄まされたカンタータを聴くことが出来た、正しく神に感謝するしかか無いのであろう。時に昔から存在するメーカーにWestern Electericと言う大変有名な会社の、特に真空管WE300Bは有名であるが余りの高額の為使った事はなく、ケーブル類は使ったが安定した良い商品である。プリアンプの使い方を改た次第であった、染み染み思うは貧困とは辛いモノである。
多種のBWV106の演奏を聴き比べおもうはアーノンクール・レオンハルトが一番演奏は透明度に優れ筆者には最善のシリーズであった。



バッハは、この曲のように、それを若いうちから音楽という形で具現化しており、その作品には常に生と死についての深い考察が込められているのです。 これに対して、日本では古来、死は「穢れ」であり、タブーとされてきました。日常では、死に関することを口にするのも憚られ、そんな話をしようものなら〝縁起でもない〟とたしなめられたものです。そのため、親に、葬式はどんな感じにしたい?とも聞けず、亡くなってから大慌て、というのが当たり前でした。
でも、昨今では〝終活〟が広がってきて、自分の死後に子や周囲に迷惑をかけないよう、また悔いなく一生を終えられるよう、元気なうちに準備をしておこう、という人が増えてきました。バッハの音楽に込められた「死」に耳を傾けてみるのも、人生の味わいではないかと思うのです。ブラボー!

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