伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

花の都パリでのオリンピック2024◆開会式、異様に感じたパリの文化、今後この様な世界に変わるのか・・・ホモサピエンスは何処を目指すのか・・・?

2024年08月07日 | J.S.バッハ関係

暑き夏に炎天下での仕事を連続したが、流石バテバテである・・・若干熱中症気味でもあり食欲も減退し、体調は最悪であった。
作業途中に水分補給(ポカリスエットの大量摂取)を行い大事には至らなかったが、この炎天下での作業は地獄の如きでもある。既に8月になり6時頃は綺麗な夕暮れは実に綺麗に感じた。



我が家のモジャ君も暑そうなので早めにカットしてサッパリした後は、カット後は何故か不機嫌で神経質であったが椅子に座らせ落ち着くを待った5〜6分後に落ち着いた様であった。
この後冷たい濡れタオルで身体を吹き体温が下がると何時もの様なモジャ君に戻る、カットされる緊張に神経質になり体温が上がったのである。



深夜はテレビ観戦でオリンピック開催中だが日本選手も競技を楽しんでいる様だが、パリも相当暑く選手村の宿泊施設でもエアコンも無く聞き、各選手は体調管理は大変であろう、浴室、トイレ事情も悪く出場選手は不満が多いそうである。

オリンピックの取材でパリに滞在していて意外に困るのが、トイレだそうです。日本のように、地下鉄や鉄道の駅に必ず設置されているわけではないし、気軽にトイレを借りられるコンビニがあるわけでもありません。

上記の写真の男子トイレは最悪で4人同時に排泄可能なトイレもあり、昔から伝統の様に紹介するヨーロッパ中世の排泄物の処理の方法を記事で見た事はあるが、実に非文化の極みではないのであろうか?
昔から美食家が多くレストランも最高級を誇るフランスそれもパリにおいての醜態は驚く事ばかりである。

又アスリート達の食事はビーガン食であり、肉・魚介類はもちろん、卵や乳製品、蜂蜜など動物性食品を一切口にすることがない人を指します。 また食事面だけでなく、毛皮やレザー、ウール製品は身につけない、動物実験された日用品を使わないといった生活スタイルを選択。

驚くは、これが最後の晩餐である、常識も宗教も何処に行ったのであろうか?これがフランスの文化なのであろうか?エログロとしか思えない絵柄でもある。



日本では昔から花の都パリと言われ、憧れの町パリではあるが、セーヌ川の水質悪化を受け競技が延期されていたトライアスロンが行われるとされるが、伝統的にゴミはセーヌ川に捨てられヨーロッパで最も有名な川の一つとして観光スポットにもなっている一方で、訪れた人をガッカリさせるほど“汚い”ことでも有名だ。日本で汚い川の代表として例にあげられる、大阪・道頓堀川の4倍もの大腸菌が検出されたとの報道もあり、セーヌ川は1923年より水質汚染による健康被害を理由にして遊泳が禁止されている。

日本の銭湯や温泉での入浴に気恥ずかしさを覚える外国人がいるように、羞恥心の感じ方は千差万別。パリの仮設トイレも、見方を変えれば「開放感抜群」と言えないこともありません。体が求める生理現象に、我慢は禁物ですね!
パリ五輪選手村の食堂を巡り、各国選手団から「肉が足りない」といった不満が相次いでいる。大会組織委員会は「地球にやさしく健康的なメニュー」を誇ってきたが、29日には「700キロの卵や肉を投入し、動物性タンパク質を増強する」と発表し、計画を一部修正した。

しかし此処で思うはEU諸国ではこの様な事が普通であるのであろうか?それとも昔栄えた文化圏は今やこの様な事が常識となっているのか、疑問は絶えない。



衝撃なパリ五輪開会式ではオーストリアのマリア=テレジアの娘「マリー・アントワネット生首演出」のコンシエルジュリーで「国王一家に実際に行われたこと」日本では深夜に行われた開会式をめぐっては、インターネット上に関連ワードがさまざまトレンド入りした。

中でも、フランス国王ルイ16世の妻で、フランス革命で斬首となった王妃マリー・アントワネットを想像させるドレス姿の女性が「生首」を手にして歌う演出には、賛否両論、驚愕(きょうがく)のコメントが相次ぎ「マリー・アントワネット」も、トレンド入りした。
一番の笑いは最近の若者は「マリー・アントワネット」も知らず慌てて携帯で検索する者も大勢いたと報じていた事にはお笑いであろう?



決定的な絵柄はパリオリンピック開会式に登場したダンサー男性、股間に⚫︎⚫︎タマらしきものが映り込み物議を醸す、果たして⚫︎⚫︎タマなのかどうかが世界中で大論争に、テレビ観戦はしたが文化に違いに筆者などは呆れて物も言えないオリンピックの開催が相応しいのであろうか、疑問だけ残る開催である。

この様なゲテモノ趣味様な催しは教育上にも万全ではないであろう?冷静に判断すればこの様な式典は如何にも狂っているとしか思えない、しかし競技にも審判団のミスも多く支那のIOC基金が多いのであろうか?

会場では台湾選手へのボイコットが多く此れが平和の祭典であろうか疑わしい限りである。支那に犯されたIOCは解体しなければならないが、噂では開催中は一泊200万の部屋で快適に過ごしたと言われる、早くもバッハ会長(Thomas Bachドイツの弁護士、元フェンシング選手)は退任を匂わせ逃亡を図ろうとしている。今や世界は健全なオリンピック開催を望む声が多い。



狂喜乱舞のパリオリンピックはパリの都とは思えないフランスの醜態を晒す様でもある。このクソ暑い時期に何かいけない物を見た感じで、具合が悪くなった!

冷静に考えれば正にフランス革命なのであり、フランス王国で1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きた市民革命。野蛮極まりない間違ったフランス革正当化しようとした今回のパリオリンピック、フランス共和国の建国記念日でもあり、毎年7月14日に祝われている。 革命の結果、キリスト教の迫害、絶対王政が打倒され、 人権宣言 が発表されました。 人権宣言では、自由や平等、人民主権などが規定されました。 国民一人一人が主権を持ち、物事を決定していくべきだという考え方が広がっていくのです。簡単いいえば支那に似ている、欧州では支那に一番近い国と言われるが、今回のパリオリンピックで証明された事実である。
その後今回のフランスの影と陰が話題となり、ローマ法王は正式に抗議文を提出に至る「宗教を嘲笑うような演出は如何であるか」金に染まった近代オリンピックは実行する意義があるのかを世界は冷静に判断したいものである。



相変わらず今年も実に暑いが、この様な時は頭の回転を平常に戻すことが肝要であり、この様な状況においてはJ.S.バッハの音楽が実に心地良いとも感じる。
上記写真は現在のアイゼナハの町 である。

昨日は広島平和記念日でした広島市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分、当時連合国のアメリカ合衆国ハリー・S・トルーマンの命令で、枢軸国の日本の広島市に対して原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した大量の民間人を殺傷した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。 その後日本は敗戦国になり同じ様な運命を味わうドイツも国を二分化された忌まわしい戦争である。にどの原爆投下を命じたハリー・S・トルーマンは全く罪の意識は無く戦争を終結させた英雄気取りである。



ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から再統一に至った1990年10月3日1990年10月3日 午前零時 ドイツ国歌が演奏される中、ベルリンの帝国議会議事堂の前に黒赤金のドイツ国旗が掲揚されました。ベルリン市街では数十万人が祝い、ドイツの各都市でもドイツ再統一を祝いました。東西統一から30年を迎えたドイツ。国民を分断していた「ベルリンの壁」は無くなったが、東西の格差は今なお残る。世論調査では、統一がおおむね成功したと答えたのは半数に満たず、双方の住民が抱く「心の壁」は消えていない。
だが、統一は対等な国家統合ではなく、社会主義体制が行き詰まった東独を西独に編入する「吸収合併」だった。東独の民営化された国営企業の多くは倒産や売却を余儀なくされ、大量の失業者を生み出した。政府は「連帯税」を財源にインフラ投資などを進めてきたが、旧東独の経済状況は追い付いていない。調査機関フォルザの世論調査によると、統一がおおむね成功したと考えるのはドイツ全体で47%、旧東独地域に限れば25%しかない。モドロウ氏は「形の上では統一されたが、実際には分断されたまま。政府は真に公平な未来のドイツの姿を示すべきだ」と訴える。



以下の様な解説もありぜひ一読されたい。
今思えば当時東ドイツでの演奏家の演奏はヘルムート・コッホ式いるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、250年を超える歴史を誇る由緒あるオーケストラである。その発祥は、ライプツィヒの商人たちが資金を出し合って発足させたコンサート愛好会に遡る。この愛好会が、音楽界の歴史を作り、世界でも最も有名で、かつ高い名声を誇るオーケストラを育ててきた。歴代のゲヴァントハウス・カペルマイスターは、フェリークス・メンデルスゾーン、アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、フランツ・コンヴィチュニー、そしてクルト・マズアらが務めてきた。彼らはいずれも、比類ない音楽的言語を持つこのオーケストラに、確かな足跡を遺してきた。その伝統をヘルベルト・ブロムシュテットが21世紀に引き継いだ。彼の後継に任命されたリッカルド・シャイーは、伝統と革新の体現者であり、実に35年振りに、ゲヴァントハウス・カペルマイスターと、ライプツィヒ・オペラの音楽監督(2008年まで在任)の両方を務める指揮者となった。

ゲヴァントハウス・オーケストラは、地元ライプツィヒだけで、1シーズンに70会近くもの『グランド・コンサート』を行っている。200年以上もの間、彼らはライプツィヒ・オペラの歌劇場付きのオーケストラとして演奏し、また、毎週行われる聖トーマス教会でのJ.S.バッハのカンタータ演奏会も行い、さらに1シーズンに35以上の客演を世界各地で行ってきた。また、数え切れないほどの録音も行っている。ライプツィヒ、その町の名が広く知られているのは、ゲヴァントハウス・オーケストラの様々な活動と、世界で最も古い歴史を誇る、商人階級の人々によって創設されたオーケストラ、という事実によるところが大きい。
実際、1743年3月、ライプツィヒの16人の商人たちが集会を開き、コンサート愛好会の発足を決め、『グランド・コンサート』の名のもとに僅か16人の楽員で産声をあげたとき、ゲヴァントハウスが成し遂げた今日までのサクセス・ストーリーを予測したものはいなかった。との説明があった。



Brandenburg Concerto :J.S.バッハの『ブランデンブルク協奏曲』(BWV 1046-1051)は1721年に作曲され、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈された全6曲からなる作品で、バロック音楽の最高レベルの合奏協奏曲集として知られています。
理由は不明ですが、ブランデンブルク辺境伯がバッハに感謝することも対価を支払うこともなかったといいます。
ブランデンブルク協奏曲は、コンチェルト・グロッソ、イタリアのソナタ・ダ・キエザ、フランスの序曲の要素を取り入れたとも言われ、音楽形式の発展における大きな転機となった作品です。バッハの最も影響力のある作品として広く知られており、バロック音楽のレパートリーの中で最も愛されている曲のひとつです。ブランデンブルク協奏曲は弦楽器、木管楽器、金管楽器、鍵盤楽器など、さまざまな楽器のために作曲されています。
各協奏曲は3楽章からなり、楽章は伝統的な「速い-遅い-速い」のパターンで並んでいます。協奏曲は第1番のコンチェルティーノ(独奏)とリピエーノ(合奏)というシンプルなものから、第4番の4部構成、第5番の7部構成など、さまざまな音の基本的な組み合わせ方を備えています。



筆者がバッハの音楽を聞き出した頃から良く聴く曲であり、当時は音質にさまざまな問題提示された古楽器演奏のアルバム(N.アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)等は愛聴した懐かしい思い出でもある。

聴けば分かるが,まるで音楽の玉手箱を開けた様な感じに陥る、60年前の演奏には思えなく実に簡素な演奏でありメンバーも相当吟味しこの様な演奏が今に蘇るとこは大変な喜びでもありバッハファンとしても大歓迎である。


収録内容
構成数 | 2枚エディション | Remaster
【曲目】
J.S.バッハ:
<DISC1>
 1. ブランデンブルク協奏曲 第1番 ヘ長調 BWV 1046
 2. ブランデンブルク協奏曲 第2番 ヘ長調 BWV 1047
 3. ブランデンブルク協奏曲 第3番 ト長調 BWV 1048
<DISC2>
 4. ブランデンブルク協奏曲 第4番 ト長調 BWV 1049
 5. ブランデンブルク協奏曲 第5番 ニ長調 BWV 1050
 6. ブランデンブルク協奏曲 第6番 変ロ長調 BWV 1051

【演奏】
 カール・ズスケ(ヴァイオリン)<BWV1047-1049>、(ヴィオラ)<BWV1051>
 ゲルハルト・ボッセ(ヴァイオリン)<BWV1048&1050>
 フランツ・ゲンツェル(ヴィオリーノ・ピッコロ)<BWV1046>
 エヴァ・ケストナー<BWV1049>、テクラ・ヴァルトバウアー<BWV1047&1049> (ブロックフレーテ)
 ハインツ・ヘルチュ(フルート)<BWV1050>
 フリッツ・フンガー、ハンスールドヴィヒ・モーヒェン、ペーター・フィッシャー(オーボエ)<BWV1046>
 ヴェルナー・ゼルトマン(ファゴット)<BWV1046>
 ヘルマン・マーカー、ヴァルデマール・シーバー(ホルン)<BWV1046>
 ヴィリー・クルーク(トランペット)<BWV1047>
 ハンス・ピシュナー(チェンバロ)<BWV1050>、他
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・バッハ管弦楽団
 ヘルムート・コッホ指揮

【録音】
 1963年4月29日 & 5月10-12日
 ベタニア教会、ライプツィヒ



ヨハン・カール・ズスケ(Johann Karl Suske)ヴァイオリニスト。1934年ベルリン生まれ。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの首席コンサートマスター、ゲルハルト・ボッセに師事。同楽団の次席に就任。同時にゲヴァントハウスQの第2ヴァイオリンとなる。62年指揮者コンヴィチュニーの推薦で、ベルリン国立歌劇場管の首席コンサートマスターとなり、65年にズスケQ(後のベルリンSQ)を結成。77年にゲヴァントハウスに復帰してボッセに代わって首席に就き、四重奏団も引き継いだ。



ハンス・ピシュナー(Hans Pischner)は、ドイツ出身のチェンバロ奏者及びインテンダント。 ブレスラウの生まれ。102歳の長寿であり、ブロニスワフ・フォン・ポズニャクにピアノ、ゲルトルート・ヴェルトハイムにチェンバロを学び、シレジア・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学で音楽学を修めた。以前筆者のブログにも取り上げました。
当時は使用楽器はモダンチェンバロでの演奏で若干鈍重な鳴り方ではあるが世界的な知名度やレコードの売り上げはそれほどないようですが、実際には相当な実力派です、曲にしっかりと向き合いながらも音楽が感じられるという意味で蓋し名演でしょう。

本題のブランデンブルク協奏曲は当時のブランデンブルク選帝侯であるクリスティアン・ルートヴィヒに献呈したと言われるブランデンブルク協奏曲、まるで万華鏡のように色鮮やか!個性あふれる6曲からなる協奏曲はバッハの魔法の作曲集の様でもある。今回の演奏はこれぞ正調ブランデンブルク協奏曲と言える様な作品で感動したのでもある。

1962年、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者フランツ・コンヴィチュニーは、第1コンサートマスターのゲルハルト・ボッセをリーダーとするトップ奏者を集め、バッハを演奏する小編成のオーケストラを組織した。そして翌年1963年にアナログ・ステレオ録音され、旧東ドイツでのみLPで発売された幻の名盤が世界初SACD化(CD化も初)された。ライプツィヒはバッハが楽長として赴任した最後の地で、19世紀にバッハ作品が人気を失った時代にも、その演奏伝統は脈々と受け継がれてきた。戦後、西側では各地の演奏様式が混合し、グローバル化が進んだが、東独は文化的に言わば鎖国状態にあり、ライプツィヒでの蒼古な音色による感情豊かなバッハ演奏が守られたのである。しっとりと落ち着いた響きと清廉なアンサンブル、あくせくしない格調の高さ。こうしたバッハは現代では耳にし得なくなっただけに、極めて貴重な復刻と言えるだろう。
確かにカール・ズスケを初め往年の名演技者の演奏は実にお見事でもありBWV1050の演奏はもちろんハンス・ピシュナー(チェンバロ)の演奏が光る。



実に整然と演奏するJ.S.バッハの演奏である、昔から聴く ブランデンブルク協奏曲 を今回改めて聴き直しバッハの音楽の深さを感じる次第でもあった。因みに拙宅で使用する装置で塩梅良く鳴る音楽は実に好ましいTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetでの視聴には正にピッタリハマる音量と思える演奏でもある。
ヘルムート・コッホ指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス・バッハ管弦楽団のJ.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲を聴くうちに徐々に平常心に戻る様でもあった。良い音楽は精神安定剤でもある、ブラボー!

TANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetで聴くうまく調律されたクラヴィーアのピアノ演奏の検証。

2024年07月21日 | J.S.バッハ関係

筆者の知るバッハの鍵盤音楽では試聴回数を重ねれば重ねるほど塩梅が良くなる曲集でもある、強いて言えば不満は全曲通して聴くには長すぎるが、そこは自由時間が多い後期高齢者にとっては美味しい淹れたての珈琲を頂きながらの試聴は正に極楽の様でもある。昔は鍵盤楽器は圧倒的にチェンバロ演奏が多く選んだが最近はピアノ演奏が増えた様に思う。
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲全集とは一般的にピアニストにとってのバイブルであると言われ、西洋音楽の金字塔『平均律クラヴィーア曲集』は、JSバッハ作品の中でも最高傑作の一つであり、見事な対位法と想像力を高めて組み立てられた24の調すべてによる前奏曲とフーガで構成された大作です。
しかし筆者のように楽器演奏は出来ない物には分からない事も多く、専門的な楽譜の事など全く分からないのである。

J.S.バッハが命名した正式名は「うまく調律されたクラヴィーア(Das Wohltemperirte Clavier)、あるいは、長三度つまりドレミ、短三度つまりレミファにかかわるすべての全音と半音を用いたプレリュードとフーガ。音楽を学ぶ意欲のある若者たちの役に立つように、また、この勉強にすでに熟達した人たちには、格別の時のすさびになるように。元アンハルト=ケーテン宮廷楽長兼室内楽団監督、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが起草、完成。1722年。」と記されている、確かに鍵盤楽器の旧約聖書とも言えるのであろう。

指導を求めて止まぬ
音楽青年の利用と実用のため
また同様に既に今までこの研究を行なった人々に
特別な娯楽として役立つために・・・と記されている。

当時からJ.S.バッハが如何に教育に熱心であったかわ示す言葉であろう・・・
つまり教科書の様な演奏が良い演奏とおまっている。



文献には次の様に明記されていました、作曲は1720-22年、ケーテンに務めた時代、また長男フリーデマンに音楽の手ほどきを始めた時代にあたる。フリーデマンの音楽帖にはすでに11のプレリュードの原曲が見られる。1722年に浄書された。18世紀には筆写譜を通じ広く伝えられ、モーツァルトやベートーヴェンもよく研究した。出版譜は1801年、19世紀の始まりを告げる年に、ドイツ語圏の3つの出版社から同時に刊行された。ライプツィヒのホーフマイスター・ウント・キューネル社(のちのペータース社)ではフォルケル、ボンのジムロック社ではシュヴェンケ、チューリヒのネーゲリ社はネーゲリ自らが校訂している。この出版がバッハ・ルネサンスの嚆矢となった。
この問題は確かにミーントーンと言われる調律方法にも影響する簡単に言え「12平均律」の音律で正しく調整されたサウンドです。現在では当然の事に思う「ロ長調」「変ト長調」など、シャープや♭がたくさんつくような、どんな難しい調性で演奏したとしても音律破綻を生じません。鍵盤楽器の調律には大変難しい過程があった様です。
18世紀前半にはまだ、現代的な意味での十二等分平均律(1オクターヴ12音の各周波数比を2の12乗根とする調律法) を実践できなかったが、少なくともバッハは「24の調がすべて綺麗に弾けるように自分の楽器を調律することを学んだ」(フォルケル)と言われている。この曲集が《インヴェンション》と同じく教程として編まれたことは間違いない。しかし同時に、全調を用いて音楽の世界を踏破するという大きな理念が込められていた。「世界」の普遍的な秩序を捉えること。これは16-17世紀を通じて希求された究極の神学的課題である。《平均律クラヴィーア曲集》は、神の秩序をうつしとった、小さな完成された「世界」(ミクロコスモス)なのである。と記してあった。

このことは音楽的にどのように確かめられるだろうか?ひとつの調には自由な書法のプレリュードと厳格な書法のフーガが1曲ずつ配されるが、多くの場合、これらは調以外にはほとんど何らの関連もない。両者は「自由」/「厳格」という対立項ですらないし、プレリュードは文字通りフーガの「前奏」であるわけもない。プレリュードにはきわめて多様な新旧の書法、形式、様式のものが現れる。またフーガにせよ、簡明、あるいは比較的自由なものから、厳格対位法の極限を追究するものまで、さまざまである。それでも、各曲は24の調の世界で自らの位置を保ち、全体で秩序を成す。まさに「多様な中にも多様なものの統一」であり、これこそ「世界」の似姿なのだ。《平均律》は言うまでもなく、つねに全24調を通して弾くことを想定した曲集ではない。しかしどの1曲を取り出してもそこには「世界」の一角が宿っている。

平均律は1オクターブを12等分にした音律のことを言います。 隣り合う音の周波数は等しく100セントとなり、身近なところではピアノの調律に使われます。 一方の純正律は和音の響きの美しさを重視し、オーケストラや吹奏楽、合唱に使われる音律です。
今回はクラヴィーア楽器の指定ですが、クラヴィーア、鍵盤楽器 はチェンバロ、クラヴィコード、ピアノなど。 場合によってはオルガンも指すことがありますが、今回ピアノ演奏を取り上げました。



イリーナ・メジューエワ(Irina Mejoueva)は1975年、ロシアのゴーリキー(現ニジニー・ノヴゴロド)生まれのピアニスト。モスクワのグネーシン音楽院でヴラジーミル・トロップに師事。92年、ロッテルダムのE.フリプセ国際コンクールで優勝し、ヨーロッパでの活動を開始する。97年、日本でコンサート・デビューして以来、日本を本拠に活動を続けている。バロックから近・現代の作品までレパートリーは広いが、最近評価の高まってきたロシアの作曲家メトネルの作品紹介にも努めている。
1996年、コロムビアより日本デビュー盤がリリースされる。現在のCDリリースは、主に若林工房が行なっている。以前購入した若林工房販売のメジューエワ(Irina Mejoueva)のバッハ作品集。『平均律クラヴィーア曲集』より第1巻をリッピングすると上手くできない?良く見ると演奏者がAngela Hewittに変わっている、筆者の先に登録した音源に書き変わってしまう、直し方はAngela Hewittの平均律クラヴィーア曲全集を削除しIrina MejouevaをリッピングしコピーされたアイチューンのAngela Hewitt名前をIrina Mejoueva書き直し、再度Angela Hewittの平均律クラヴィーア曲全集をリッピングして整理した。現在若林工房は閉鎖されたようだ。



J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1巻
(24の前奏曲とフーガ BWV846~869)
イリーナ・メジューエワ(ピアノ)
録音: 2014~2015年、新川文化ホール(富山県魚津市)

メジューエワは、気負うこともひるむこともなく、ひたすら謙虚に、バッハの書いた音符ひとつひとつを紡いでゆきます。その姿勢は、まるで修道僧の祈りを思わせるもの。厳しい精神性を徹底した先に生まれたのは、「自在の優しさと奥深さ」、そして「光と調和に満ちた世界の妙なる愉悦」。汲んでも尽きぬバッハ音楽の魅力をストレートに伝える、まさに「musizieren(ムジツィーレン=よい音楽をする)」という言葉に相応しい演奏です。古来、名演奏の多い「平均律」の録音史にまた新たな一頁が書き加えられた様です。


J.S.バッハが教育用に仕上げた鍵盤楽器のバイブルとも言える曲平均律を聴けば分かるが確かに癖の無い演奏が実に心に沁みる、一音一音がクリヤーな音が沁みピアノ演奏者は数多く演奏を聴くが、彼女の演奏は確かにうまく調律された楽器による的確な演奏の見事さなのでさのであろう。

同じ様なアルバムは平均律クラヴィーア曲集 第2巻であり、筆者が思うに実に癖のない演奏には何度聞くも飽きない良さに好感する。クラヴィーア曲集と指定されるが今回はピアノ演奏での比較をして見ました。メジューエワは下記の楽器を愛用している様です。



尚筆者が愛聴する機材はメインに10吋TANNOYのユニットを使うが、設置方法について色々試すが最終的には15mm厚の人工石(ダイニングに使う人工石)を敷きその上に箱を乗せ音質が安定したのでした。此のTANNOYタイプのスピーカーの音は原音(ゲンオン)の再生に目的があるのではなくて、多分コンサートホールの音楽の感動を再現する当に”イリュージョン オブリアルサウンド”なんだと思う、此れがTANNOYの音の原点と言えるのでしょうね、此れはジックリ音楽を聴けば解明される音ののです。誠に残念なことに10吋ユニットの箱はTANNOY IIILZ in Cabinetオンリーでそれ以外は自作に入れた物、アメリカタンノイしか無かった為か、TANNOYファンは15吋ユニットが主流になったのであろう。

思えば現在愛用の此のAXIOM80NO箱は2018年7月今から六年前に関西のY氏の好意により送って頂いた箱で、途中運送屋さんが傷をつけ修復に2ヶ月程でやっと再開し、その後色々好みに合わせ現在に至るが、現在は略満足する音になるまでの時間は費やした事になる。Y氏曰くコーネッタ(所謂アメリカンTANNOY)もお持ちになる造詣も深いTANNOY愛好家でもある。確かに筆者の好みの演奏はオーケストラ、オペラ等ではなく少人数のソナタ、トリオ、クインテットが断然多い事が特徴でもあるが我がTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetは誠に上手く鳴らすツボを心得ている様でもある。

確かにオーディオ機器も色々個性があり一般的には原音忠実を声高に言われる方もいますが、年齢も高齢になればむしろ味わい深い音を求める様に変化するのであるまいか?まるで静かに響き渡る小さなコンサートホールの特等席で聴く音楽を求めてしまう様である。そう様な音はむしろ古い機材を使うことで意外と簡単に入手できるのかも知れません。確かに据え置き型のエンクロージャーで小音で聴くも低尾は隣室にも響く、ブックシェルフ型では不可能な技でもある。
今筆者の耳元で囁く悪魔の声はドイツ音楽は古いドイツのユニットで聴く事が一番であると?・・・囁くのだ!



一般的に弦楽器の再生音が良いと言われるが、ある意味コンサートホールでのピアノ演奏も良く原音の良さと違い、確かにそれらをすべて捨ててもTANNOYにしかない美しさや響きの魅力がある様です。詳しく言えばコンサート等の特等席で聴く様な感じで聴こえる装置を目指しで製作したスピーカーなんです、TANNOYの音の原点はここなんでしょうね。TANNOYの音は生の音らしくはないのであろう筆者が現在使うIIILZ Monitor Goldをオリジナルより一回り大きなGOODMANS AXIOM 80の箱に入れTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetと言う姿になって聴くが家で聴く音楽はこの音で聴きたいと思っている。

尚お手入れは簡単で大体3ヶ月毎にブリテッシュビーズワックスを軽く塗布し後は乾拭きして終了する程度である。



しかし扱いは一手間入るがトランジスターアンプと真空管アンプの違い、どちらと言えばトランジスターアンプは音の広がりがあり、爽快感のある音ですが真空管アンプでは音の密度が高く、音色が濃く傾向がある様です。特に三極管使用の場合は音楽が心に染み込んでくる感じで特に今回のうまく調律されたクラヴィーアの演奏などは安定した演奏が体得できる様です。



次にカール=アンドレアス・コリー(Karl-Andreas Kolly)1965年5月26日生まれは、スイスのピアノ奏者。 クール出身。幼少期より教会オルガニストの父カールとカール・ゲルナッヒャーにピアノの手ほどきを受け、チューリッヒ音楽院でハンス・シカー、ベルンでカール・エンゲル、ルツェルンでミェチスワフ・ホルショフスキの各氏の薫陶を受けた。
J.S.バッハの演奏は大変多くアルバムもあるが、今回は父親が教会のオルガニストということもあるのか、コリーにとってバッハは“なくてはならぬもの”なのだろう。“対峙する”なんて大げさなところのまったくない、血の中に流れているかのような自然なバッハの平均律を楽しんだ。こんな風に何気なく弾けたら、さぞ楽しいだろう。



J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 (カール アンドレアス・コリー)

J.S.バッハ:前奏曲とフーガ 第1番 - 第12番 BWV 846-857
        前奏曲とフーガ 第13番 - 第24番 BWV 858-869

カール=アンドレアス・コリー(ピアノ)

バッハの音楽を自己と一体化させたコリーの演奏は、他者が真似をすることのできない迫真性によって聴き手を魅了するのである。



カール=アンドレアス・コリーが『平均律』を全曲リリースします。教育者でもあるコリーによるレコーディングは、大変意義が深く、教育者は奏でる演奏は注目に値する内容である。
勿論筆者の好きなJ.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻も聴いたが全てを聴くには4時間ほどは必要で、真空管の熱気でエアコンの温度は何時もより下げた、夏期の2日間による音楽鑑賞も意外と苦労する様である。

筆者の平均律クラヴィーア曲集のなかで演奏楽器をチェンバロ楽器演奏は以前も紹介はしているが、勿論有名なランドフスカも良いが少し録音条件が悪く、筆者は以下の二人の演奏を挙げる、一人は2001年4月19日に亡くなったバッハの演奏では厳格なエディット・ピヒト=アクセンフェルト(Edith Picht-Axenfeld)は、ドイツのチェンバロ奏者・ピアニストはJ.S.バッハの演奏が良く知られている勿論安定した演奏には定評がある。
後一人は昔から良く聴くオランダのチェンバロ奏者レオンハルトの弟子とも伺うが、ボブ・ファン・アスペレン(Bob van Asperen)の演奏はクセもなく教科書通りの演奏である、特に筆者がJ.S.バッハの演奏の好みは、厳格な教科書の様な演奏を好む、ブラボー!

老人達の楽しい遠足です、今回は盛岡集合にて、秋田から青森と・・・

2024年07月18日 | 旅行

今年も楽しい遠足の時がやって参りました。場所は日本海を見ながら温泉に浸かりに行こう、前々からの提案があり実現する。
早速港北新幹線にて上野=盛岡まで2.5時間の新幹線に乗車、関東は最近連夜30度以上の夏日である、便りによれば東北方面は雨模様との連絡がる。
アイスコーヒーを片手に乗車し途中暇つぶしに面白かったサピアンス全史を片手に盛岡の旅に出立である。


新幹線の乗車率は粗満席状態でしたが、仙台で下車する方も多く、仙台からは寄ったり気分を味わう、確かに新幹線は横揺れも少なく乗り心地は良い、停車する場合も前後に身体が動くでもなく世界的レベルも良いと改めて思った。

何時もの様に南口で待ち合わせ早速盛岡駅から車でいつものメンバーで出発である。途中話題は尽きない雨模様であったが、秋田に向かい徐々に曇りになってゆく。
下車して思うは東京は30℃以上の暑さであったが、東北は23℃で実に過ごしやすのだ、日本も広さを感じつ瞬間でもあった・・・。途中道の駅にてランチを頂き、秋田大学附属鉱業博物館に向かう。

秋田大学大学院国際資源学研究科の附属施設です。秋田県は鉱産資源に恵まれ,古くから鉱山開発が進められてきた地域です。県内各地には黒鉱鉱床や鉱脈鉱床などの金属鉱床が多数存在します。また,日本海沿岸部は国内有数の油田地帯として知られています。これらの地下資源は, 長年にわたり採掘され日本の近代化や高度成長を支えてきました。


秋田大学附属鉱業博物館の建物向かって左側にある重機は原油を採取する汲み取りの車両だそうです。早速館内に・・・


中央ホールは三階の天井まで吹き抜けになっていて2重の螺旋(らせん)階段がホールを取り巻くように配置されています。


標本類は実に数多く展示されている、現在日本最南帯の新しい島々に於いて報道される新しい資源も注目され太平洋の島々の海底からの採取が可能となれば日本も資源大国になれるのかも知れない、日本の領海・排他的経済水域の海底に金、銀、銅、亜鉛、鉛、石油、コバルト・リッチ・クラスト、メタンハイドレートなどの豊富なエネルギー資源や鉱物資源の存在が確認されている。

特に南鳥島周辺の海域ではレアメタルのコバルトやニッケルなどが豊富に含まれていルことが判明されているそうです。未だ未開発の尖閣を調査しましょう。









日本刀の玉鋼の作り方も明記されたコーナーもある、金属関係の特に冶金関係者には注目される特殊鋼については昔から日本は得意分野でもある。
戦国時代火縄銃を国産化した話は有名で、当時の日本で生産する銃器は精度が良く日本刀で鍛えられた玉鋼を使い戦争の中心武器となった話は有名でもあった。

秋田中心部から盛岡方面い向かう秋田市内の途中に見た原油を汲み出していた。


暫く走ると信号機も少なく対向車も少なく、気づけばコンビニさえ少ない、と云うよりコンビニも無い。暫く海岸線を走ると其れらしいサインがあった。


まだ早いのに直売店はクローズであった。


本日お世話になる「ハタハタ館」である、早速チェックインし4人部屋の3Fに案内される。


早速皆で1Fの風呂に行く。


本日は岩風呂だそうです、確かに前方は日本海が広がる。
天候されよければ爽快であろうが本日は曇り空である。
すると前の芝生にやせの狐が海鳥を捕獲して飛び掛かるのを見た。自然な光景に驚く、確かに秋田はクマを見た人が一番多いと聞く、途中道の駅にもクマにお肉が販売されたいた、またクマカレーは美味しいと話していた。


お風呂から出ると食事である。



地酒が実に美味しい、部屋に帰ってからは、盛岡組が持参した「一の蔵」醸造所でしか販売していないと言われる「一の蔵」を頂いたが流石ドッシリした重みのある「一の蔵」はうまいと思った。
最近確かに齢喜寿を迎えると、食事もお酒も量は少なくなり、生ビール(小)と冷酒は一合程で十分である、しかし美味しいと思われるものを好む様になり、美味しいお酒をチビチビ頂く何ぞは極楽でもある。


この他に写真以外にも揚げ物、焼き物、鍋物があり満腹状態である、部屋に引き上げ二次会の開催である、久しぶりの会話にも花が咲き酒蔵でしか購入出来ないと言われた「一の蔵」4合瓶を空にして本日はお開きである。

普通の一の蔵と違いコクが良く日本酒らしいドッシリした味があり、それで持ってスッキリした飲み心地は実に美味かった。


朝風呂は木の風呂である、若干塩分を含んだ鉱泉とも思われる温泉で実に気分爽快である、手前に見える日本海が実に雄大でもある。
本日は青森の千畳敷から津軽白神インフォメーションセンターを目指しあとは盛岡に向かう予定である。

早速朝食です、温泉入浴後は朝食が旨い!
昨日道の駅にて購入した「いぶりがっこ」大根のつけものと聞くが調理法も様々で朝食にも付いていた。今回初めての体験、意外と塩分は少なめに感じた。


筆者などは朝からお刺身付きの朝食などは大変珍しく、見た目にも大変豪華にも思う、この様に思うは如何に貧しい等思える、これぞ旅の楽しみであろうか。

普段朝食は温かい珈琲程度ですが、偶には朝から知ったりと頂く朝食は美味い!

千畳敷海岸 その昔、殿様が千畳の畳を敷き酒宴を催したといわれる岩棚が広大に続く「千畳敷海岸」。恵比寿岩、かぶと岩などと名づけられた奇岩が海岸線に続く様は圧巻です。他の星に降り立ったかのような不思議な気持ちにさせられる光景です。夕暮れ時には夕陽をバックにした独特な形の岩がシルエットに。夕陽の名所としても名高く、「日本の夕陽百選」にも選ばれています。





その後津軽白神インフォメーションセンターに向かうが生憎定休日で前の道の駅に立ち寄る。








道の駅の中に白神焙煎炭焼珈琲がある、実に美味しそうな匂いがする・・・
老舗の珈琲専門店による味づくりの技術が加わり、まろやかな白神山地の天然水で淹れたコーヒーは香り・味ともに一級品。すべてにこだわり抜いた、極上の一杯をどうぞ。これは飲まずにはいられない。
勿論本格的な焙煎資材も設置され工場内は使用する珈琲を焙煎する仕組みだそうです、珈琲の旨い淹れ方は焙煎挽きたての豆と美味しい水を使い、淹れたての旨い珈琲の条件でもある。


筆者は海外訪問は数少ないが訪問すれば珈琲は頂く、最悪は支那、韓国は断然不味かった!記憶に残るはキラエアー火山で有名なハワイコナ珈琲のワンビーンズは美味しい珈琲であったが、お土産で購入し日本に帰りコナコーヒーの美味さは現地の味より断然美味かった!その地方で頂く日本の珈琲は実に美味しい味がする、日本独自の軟水の天然の美味しい水の違いが珈琲の味の美味さをましているのであろうか?
東北に来ると不思議なことに新幹線を下車してドトールコーヒーショップに立ち寄りブレンドコーヒーを頂くが東京の味より旨さが違う、盛岡の水の旨さであろう旨さの秘訣はどうやら水の旨さの違いが味に反映しているのあろう。


今回は深煎りより普通のレギュラーを注文するが、お店は深煎りを売り出しているようで、レギュラーより少し深煎り調の味が心地良かった珈琲の味が良か塩梅である。


朝少し食べ過ぎのためか、腹が空かないので青森から盛岡に戻るコースを・・・
ここから青森の弘前周りで盛岡まで走るランチ後は高速に乗り盛岡まで直走る。

「道の駅 いかりがせき・津軽関の庄」に併設された日帰り入浴施設有名だそうです。




香木と呼ばれるほど香り豊かな「青森ヒバ」を贅沢に使った浴場で、源泉かけ流しの温泉が楽しめる。低張性弱アルカリ性温泉の単純温泉は、神経痛や筋肉痛、関節痛などの効能があるとされる。



時間があればぜひ立ち寄りたいのだが・・・津軽関の庄で遅めのランチを頂き次の宿泊地盛岡に・・・

この様な感じで東北を楽しむ爺さん達の遠足であった。
来年も皆元気で楽しい遠足を考えましょう、疲れた為今日は早めに就寝。ブラボー!

外出、旅行で音楽が堪らなく聴きたく合間を縫ってアンプに火を灯し、ジャズピアノを楽しむ。

2024年07月13日 | JAZZ・ボサノヴァ

此の所大阪に居る娘が遊びにきたり、旧友との爺さん達の遠足に、帰宅すれば生憎仕事も重なり、時間の空いた隙間に音楽を耳にした。

昔から筆者の好きなピーターソン~ブラウン~シグペンからなる黄金トリオによる1962年のヴァーヴ盤。ハイライトは同年にリリースされたビル・エヴァンスの名曲「ワルツ・フォー・デビー」の演奏は、今回の聴きものです。スウィンギーで力強いタッチから繰り出されるワルツは圧巻だ。ジャズピアノの魅力が存分に詰まった、歴史に残る名盤ウィ・ゲット・リクエストは、ジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンと彼のトリオによるアルバムで、その後1964年にリリースされ、10月19日、10月20日、11月19日または20日にニューヨーク市のRCAスタジオで録音された。このAFFINITYは2年前に発売された当時の流行り曲をまとめた今聴くも実に懐かしいアルバムでもある。
CD盤は上記のジャケットでレコードはシンプルなピーターソン・トリオではシンプルなデザインジャケットが好きなアルバムでもある。録音当時のピーターソンは37歳頃の作品で最も脂の乗り切った時期と想像する。



AFFINITY
 01WALTZ FOR DEBBY /ワルツ・フォー・デビー(ビル・エヴァンス)
 02TANGERINE /タンジェリン(ジョニー・マーサー=ヴィクター・シャーツィンガー)
 03GRAVY WALTZ /グレイビー・ワルツ(レイ・ブラウン、スティーブ・アレン)
 04THIS COULD BE THE START OF SOMETHING /これは何か大きなことの始まりになるかもしれない(スティーブ・アレン)
 05BAUBLES. BANGLES AND BEADS /飾り物、腕輪、ビーズ(アレクサンダー・ボロディン、ジョージ・フォレスト、ロバート・ライト)
 06SIX AND FOUR /6と4(オリバー・ネルソン)
 07I'M A FOOL TO WANT YOU /君を欲しがるなんてバカだ(ジョエル・ヘロン、フランク・シナトラ、ジャック・ウルフ)
 08YOURS IS MY HEART ALONE /私の心はあなただけ(ルートヴィヒ・ヘルツァー、フランツ・レハール、ベーダ・フリッツ・レーナー)
録音:1962.9
 
レコーディングに参加したのは、1958年からトリオを組んでいるレイ・ブラウン(Ray Brown)、エド・シグペン(Ed Thigpen)。
オスカーはこのトリオで『ナイト・トレイン』(Night Train)、『カナダ組曲』(Canadiana Suite)、『オスカー・ピーターソン+ 1』(Oscar Peterson + 1)など数々の名盤を生み出している。
その中でも、ヴァーヴ・レコード(Verve Records)からリリースした『プリーズ・リクエスト』(We Get Requests)は、「歴史に残る名盤」として現在も広く愛されている。
筆者はピーターソン独特の転がし演奏が好きで昔は視覚障害者でありながら超絶技巧を誇るアート・テイタムの奏法と良く似た演奏と言われたが今はピーターソン奏法(節)と言えるのであろう。この辺りのニュアンスはエバンスとの違いは明らかであろう。



Oscar Peterson (オスカー・ピーターソン)
1925年8月15日、カナダのモントリオール生まれ。45年から地元カナダでリーダー作を残し、49年に興行師のノーマン・グランツに才能を見出され米国デビュー。J.A.T.P.などオールスター・セッションに起用される一方、レイ・ブラウン、バーニー・ケッセル、エド・シグペンらと多くの名作を発表した。90年代に脳梗塞で倒れるも見事な復帰を果たし、その健在ぶりを強くアピールした。2007年12月23日、腎不全のためカナダ・トロントの自宅で死去。享年82。
アート・テイタムを彷彿とさせる高速のアドリブが特徴で決して音が乱れることはなく、もちろん、ただ技巧がすごいだけでなく、ピアノ奏法の独創性や、卓越した和声感覚で、オスカー・ピーターソン特有の音楽を作り上げています。オスカー・ピーターソンはその圧倒的な演奏力が特徴です。ミスタッチをほとんどすることがないと言われており、正確な指使いと同時に疾走感のある早いテンポを弾きこなすなど超絶テクニックを持ったピアニストで、「鍵盤の皇帝」との異名をとっていました。そのような超絶技巧の演奏を可能にしていたのは長年のキャリアに裏打ちされたテクニックに加え、オスカー・ピーターソンの大きな「手」も理由の一つかもしれません。1オクターブは余裕でつかめる大きな手でダイナミックな演奏をし、観客を沸かせていました。
オスカー・ピーターソンは1964年にも来日しており、長きにわたり日本での人気も高かったことがうかがい知れます。


Ray Brown (レイ・ブラウン)
1926年10月米国ペンシルヴァニア州ピッツバーグ生まれ。ジャズ・ベースの巨匠。オスカー・ピーターソン、ミルト・ジャクソンとの長年にわたる共演活動が有名だが、チャーリー・パーカー、バド・パウエルなど、ジャズ史に残る数々の傑作に参加している名盤請負人。自己のバンドは、モンティ・アレキサンダー、ジーン・ハリス、ジェフ・キーザーらのピアニストを迎えたトリオでの活動が中心。2002年7月2日インディアナポリスで死去。享年75歳。
レイ・ブラウン(Ray Brown)はエラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)と結婚していたんですよね。今思うと、凄い夫婦ですね。
レイ・ブラウンはハイスクール時代からピッツバーグではちょっと知られたベーシストになっていましたが、20歳の時ニューヨークに出てディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)のベーシストとなり、次第にアート・テイタム(Art Tatum)やチャーリー・パーカー(Charlie Parker)らとも演奏する機会を得るようになりました。



ディジー・ガレスピーのバンドには1946年から1951年までいました。その間、1949年にノーマン・グランツ(Norman Granz)が企画しているコンサートでオスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)と初めて共演します。その後、ディジー・ガレスピーのバンドをやめてオスカー・ピーターソン・トリオに加入します。このトリオは1951年から1966年まで続く最強トリオとなり、数多くの名盤とライブを生み出すことになります。数多くのミュージシャンと共演、レコーディングを行い、オスカー・ピーターソンとの長期にわたる共演でも有名です。
私的にはプリーズ・リクエストでバースを弓で奏でるブーミー音は実に印象的な演奏でもあり一種の低音の魅力その物でもある。


Ed Thigpen (エド・シグペン)
欠かせない存在だったエド・シグペンは、「ミスター・テイスト」として知られていました。シグペンは、そのブラシテクニックと、脈拍とスイングの明瞭な感覚で最もよく知られていました。
ティグペンは 1930 年にシカゴで生まれ、ジャズ ドラマーのベン ティグペンの息子です。ベン ティグペンはバンドリーダー兼ベーシストのアンディ カークとの共演で高く評価されていました。両親が離婚した後、エドは母親とともにロサンゼルスに移り、ピアノを学び、教会の聖歌隊で歌い、ダンスのレッスンを受け、学校のバンドでドラムを演奏しました。ティグペンの最初のプロとしての演奏は、エドが 18 歳のときにバディ コレットと共演したことでした。その後、すぐにジャクソン ブラザーズのショー バンドに参加しました。その後、ニューヨークのサヴォイ ボールルームでクーティー ウィリアムスと共演し、その後 2 年間陸軍バンドのドラマーを務めました。
1959 年、シグペンはベーシストのレイ・ブラウンを含むオスカー・ピーターソン・トリオに加入しました。「トリオで活動することで、自分の演奏の特定の要素を発展させる機会を得ました」とエドは1982 年にMD 誌に語っています。「シンバルのテクニックとビッグバンドの状況をシミュレートするフレージングの手法を習得することができました。メロディーの聴き方や、即興のラインに合わせてフレージングして、他のことが起こっているような感覚を与える方法を学びました。それは補完的なものでしたが、それでもオスカーが最初に望んでいた時間でした。



ピーターソン・トリオのジャズの聴き所はウッドベースのグク普通の低音、ドラムのキレ音に巧みに転がす様なタッチのピアノ曲、普通に演奏してるのであろうが、魅力一杯のピアノ・トリオならではのジャズの魅力を味わうには筆者自慢のTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetに突然の出会いで見つけ遭遇した三極管「Zaika5300」を装着した、パワーアンプSV-501SEジャズ音楽を聴くには若干パワー不足な所もあるが、筆者のリビング10畳程では十分満足できます。
確かにサブのパワーにLUXKIT A3500も種有するがパワーは十分だがじっくり聴くのはZaika5300の三極管を好んでしまう事が現実である。

兎角昔から好きな言葉に「得手に帆を挙げて」の如く此の様なピーターソン・トリオのゴールデンコンビの演奏は鳴り出した音に思うは、手足しっかりした音が響く装置で聴く事が一番の至上の喜びでもあろう。



昔から良く聴く馴染みやすいジャズにオスカー・ピーターソン(p)レイ・ブラウン(b)エド・シグペン(ds)ヴァーブ時代のピーターソン・トリオの曲が多い、カナダで最初のピアノ・トリオを結成して以来、半世紀を越える活動で、スィングとバップを融合させた独自のスタイルを確立、ジャズって変に哲学的になったり、原曲が全然見えなくなっちゃったりということがあるけれど、ピーターソン・トリオの曲はオーソドックスで聴きやすく魅力的で個人的にも好きなトリオでもある。
久々に聴くキレの良いピアノ曲に、ブラボー!

高齢老人達の楽しい「遠足」の最終日の紹介から・・・

2024年07月10日 | 旅行


老人四人組の毎年恒例になっている行事、東北地方の旅行である。今回は行き先は秋田の八森いさりび温泉、日本海を眺めながら、どっぷりと露天の湯に浸かれる若干塩分を含んだお湯でユックリ出来ましたが此の公開は後ほど・・・

実は写真が多く整理に時間が必要であり、この時期室内温度も高く旅行終了後の仕事も予定され忙しくしていたのが理由になります。



旅行の最終日で此れは予定に無い、10代からの旧友と共に盛岡の県立美術館でギャラリートーク「川端龍子展」が開催されているので、ユックリ見学をしようと盛岡に来る前から予定されたコースである。

流石旧友は筆者の好みを知り尽くし、デザイン要素も強い日本画の巨匠である川端龍子展にさそっったのであった、実に嬉しいお誘いでもあり感謝!



ポスターも当時の作家と比べ奇抜なレイアウトに特徴がある、特に孫悟空の作品は正に迫力満点で孫悟空の毛から小さな猿どものまとわりつくくように現れる、まさに龍子マジックに浮き立つ気分はよく、胸躍らされた。

特に間近に見る如意棒を持つ手は如何にも本物のようである、まさに直ぐに動きだそうに感じるのは実物を見ないと分からないのかもしれない。



規格外のスケール、斬新な画面などで画壇に旋風を巻き起こした日本画家、川端龍子(かわばた・りゅうし)の50年以上に渡る画業を紹介していました。

特に皆様ご承知の「草の実」の現物は黒色の下地に金色の草が見事に浮き上がって見えデザインの領域のように思えた。まるで秋風に揺れる見事な趣向である。
此のように静から動を感じさせる技法と繊細なススキのタッチはナイスアイデアは流石であろう、周りのススキが今にも秋風に揺れる様でもある。この感覚は原画を観なければ櫓櫂できない雰囲気でもありバランスの良いモノトーンに極みの様な作品は息を呑む美しさである。



もちろん館内は撮影禁止で作品は紹介できな事が残念である。写真は雑誌から複写であるが、此のような作品を見ると実に時間の過ぎるのが早い。

この様に日本画の美しさは洋画では味わえない筆のタッチ色具合等兎に角作品の前で時が止まった様に感じつ感動は特別にも感じた。




一般的には盛岡の繁華街は駅前周辺では無く繁華街、歓楽街は駅前ではなく歩いて15分ほど。北上川を渡ります。橋の名前は開運橋を渡り。大通りという繁華街がある。大通りはアーケードになって雨の日も濡れずに通行加工である。
そして以前盛岡に行った時に偶々定休日で立ち寄れなかった、今回は光原社 可否((こーひー))館に寄り美味しい珈琲をいただく。此処岩手には落ち着いた伝統ある落ち着いた珈琲店は数はあるが、深煎りコーヒーは此の店を紹介する、盛岡駅からは離れているのが残念だが機会があれば是非訪れたい店舗の一つであるが、今回は開店5分前に到着したのである。

此処で渋さ一杯の英国調のオーディオ機器が似合う雰囲気ではあるが、BGM音楽が無いの誠にが残念である。場所は盛岡駅から循環バス3分、材木町南口下車徒歩2分で到着する。



店舗近くに宮沢賢治の銅像があるのが印象的で、冬場の雪の降った時などは、銅像にマスク、帽子等が施されていた記憶がある。

宮沢賢治の童話集『注文の多い料理店』を刊行。



宮沢賢治が名付けた、盛岡を象徴する店出版社として出発し、大正後期の1924年、創業者の及川四郎は盛岡高等農林学校時代の先輩だった宮沢賢治の童話集『注文の多い料理店』を刊行。 光原社(こうげんしゃ)という名は賢治が命名したものだそうです。



開店はAM10:00からでその前は鉄格子の扉で塞がれている。

注文の多い料理店を読むと・・・

ミルクの香りのボディークリームを塗って♪ 「どなたもどうかお入りください」宮沢賢治著『注文の多い料理店』に登場する牛乳クリームをモチーフにした、うるおい成分配合のボディークリーム。とあるが本文では、お皿も洗つてありますし、菜つ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜つ葉をうまくとりあはせて、まつ白なお皿にのせる丈けです。はやくいらつしやい。(中略)それともサラドはお嫌ひですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげませうか。解答は山猫たちが男たちをどんな料理にしようとしているのかが明らかになりましたね。サラダです。山猫たちが男たちをどんな料理にしようとしているのかが明らかになりましたね。サラダです。

この短編は童話の世界と言われるが大人も楽しめる本でもある様です。


素敵なマグカップも置いてあり実は欲しい作品ではあるが、まるで手が出なかった事は事実である。



お店の全景で、後の建物は工芸品等を販売している、佇まいも何処か懐かしい趣がある・・・・陶芸好きには良い目の保養でもある。



お店の前で・・・写真左が可否(こーひー)館





左の明かりの付いた処が光原社 「可否館」である。

この辺りの雰囲気の良さは古き街の良さを存分に味わえる「杜と水の都」盛岡の良さでもあろう、盛岡の別名「不来方」の地名の起こりになりました。 鬼の退散を喜んだ里人たちは大いに喜び祝い、三ツ石のまわりを「さんさ、さんさ」と感謝のまごころを捧げて踊ったのが、さんさ踊りの始まりだといわれています。


店内でコーヒーは深煎りと普通があるが、普通の珈琲も深煎り風で味わい深いコーヒーであった。
今回は東北地方は曇りで25〜6度と実に過ごしやすい天気であった、最後の盛岡では雨に見舞われた。


実に落ち着いた雰囲気で漆喰の城影に刻んだ宮沢賢治の歌が印象的でもあった。
思うは盛岡は昔からジャズ喫茶が有名で今もジャズを聴かせるお店があるが、筆者が思うは此の店舗に見合った小洒落た音楽装置は必要にも思えた、勿論鳴る音楽は品の良いバロック音楽等はいかがであろう・・・?


本日は雨模様のため打ち水は無いが、敷地内はすみずみまで掃き清められ、朝は打ち水の跡が清々しいと言う。一点の“手抜き”もない空間に、〈光原社〉という場所を支える人々の暮らしぶりや心意気を見る思いだ。「第2次民藝ブーム以降、若いお客様が増えてそうです。
此の雰囲気を維持することも大変であろうが、今回の少し深煎り調の美味しい珈琲の味わいは好きな人には病み付きになってしまうであろう、定休は毎月15日だそうである。



一番奥にあるトイレのカラスもステンドグラスの細工を施しお洒落な雰囲気も良い。
左に見えるは北上川である、盛岡も盆地状態で今後の夏場は相当暑いのであろう。



トイレに行くにはリンゴの木が植えられ雰囲気を壊さないようにしている。今丁度実がついた状態でその内に赤く染まるのであろう・・・

お隣には北上川が流れている、雨のために水は濁っているが普段は透明度のある美しい水が流れている。



『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモである。一般には詩として受容されている。広く知られており、賢治の代表作のひとつともされるものである。 
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きである。


帰りの新幹線の中で宮沢賢治の詩を見ながら、筆者の下手な文字で愛用するボールペン.7mmを使い感想を記してみた、確かに日本での新幹線の車内での落書き程度は十分可能であった。

年になり文字を書かなくなると、実に下手になる。特にPCでほとんど対応する世の中になって益々文字を書くのは年賀ハガキ程度である。



筆者の妹は細字で日展入選しているが、私は全く下手である。川端龍子の書も良い字を書いていた、思えば筆者の文字はデザイン文字的でもある。

ランチはこのところ日本食と蕎麦、うどんが多く、盛岡発祥のハンバーグでもと提案し、びっくりドンキーでランチを頂く。


店内は落ち着いた雰囲気で関東のお店と比べ雰囲気も若干違うように感じる。此の様な内装には相当の予算がかかるのであろう・・・?


岩手県盛岡市に誕生したハンバーガーとサラダの店「べる」。13坪の、そのこぢんまりとしたお店にが始まりと聞く。

久しぶりのお肉は美味しく感じた、そして16時頃の新幹線にて千葉に帰った。来年また 爺さん達の「大人の遠足」を開催まで元気で・・・ブラボー!