昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

星に祈ろう!

2011-08-16 19:11:23 | 交流

ゆうべのナイトウォーキングは定番コースなのに
いつもの倍の2時間もかかった
ベンチに寝転んでずっと夜空を眺めていたからだ

Zさん、星に祈ろう!
きっと乗り越えられるよ!
と何度もつぶやいた!



8時頃だったか信頼するZさんからメールがきた
人生最大のピンチに遭遇していると書かれていた

気持ちがひしひしと伝わる文面を何度も読んだが
すぐに返信したくても言葉がみつからなかった

滅多に他人には言えないようなメールをもらって
そんな大事なことを聞いてどこまで受け取れるか

できなければ慰めや励ましの返事になってしまう
どこまでZさんの気持ちにより添うことができるか

Zさんはきっと返信を待っているに違いないと思う
ここはとにかく早く、焦る!

浮かんできた言葉が素直な気持ちだと思ったので
なんとか返信をしたが果たして伝わっただろうか
少しはZさんの気持ちにより添うことができたか

ナイトウォーク中、ずっとそのことが気になった
とうとう持参した水を一滴も飲まないまま戻った

風呂に入っても
布団の中に入っても
ずっとZさんの顔が目の前にあった

よし、今夜はZさんと寝よう!
深夜便も聞かないで眠っていた

朝、もう一度返信したメールを読んでみたが
この程度のことしか伝えられなかったのかなあ・・

もう少し上手に伝えることはできないのかと思ったが
とうとう今日も暮れてきた

できることは「星に祈る」こと
会いにいけばいいのだろうが
多忙なZさんに今は邪魔だろう

Zさん
毎日、ナイトで星に祈っている
お月さんにもお願いするよ

時にはナイト歩きでもして星に祈ろう!

「人生最大のピンチ」と言えるものを経験していないので
「ピンチ」を「チャンス」に変えることを知らない

でも修羅場をくぐりぬけてきたZさんなら必ず解決すると
確信している

今夜も星に祈ろう!

終戦記念日。

2011-08-15 22:33:11 | ひとりごと

今日は66回目の8月15日の「終戦記念日」
昔は「敗戦記念日」と言っていた時期があったと
思うが記憶違いか・・・・

66年前のあの日のことはまったく記憶にない
5歳と4ケ月だったから記憶にないのも無理はない
玉音放送や戦争が終わったという周囲の変化にも
なにひとつ思い出すことはない

それなのに6日の原爆の日のことは鮮明に覚えている
空襲や防空後のこと、兵隊さん、夜間照明、防火訓練
松ヤニとり、供出、空中戦・・・
断片的な記憶はたくさんある
ひとつひとつに強烈なインパクトがあったのだろう

と言っても、自分に後世伝える戦争の惨禍は原爆くらい
同じ世代の人に戦争体験はなく伝え残すものもない

せめて本でも残しておけば誰かが読んでくれるだろう
そう思って毎年この月には戦争に関する本を何冊か
買ってきて読んでいる

今日も二冊買ってきた、いずれも古い本だが、それだけ
内容は正確だと思っている

●「硫黄島に死す」  城山三郎著



●「流れる星は生きている」藤原てい著(新田次郎の夫人)


昭和20年8月9日、ソ連が参戦、満州国で夫と引き裂かれた妻
と愛児三人の言語を脱する逃避行、悲運に耐えて生き抜いた1人
の女性の苦難と愛情の記録。
この本はかなり前に読んでいるが手元にないので残しておくため
にも買ったきた
家内が同じようにソ連参戦の満州で父親をシベリアへ連行された
(いまも不明のまま)
本人は女の子略奪の恐れの中を苦難の末、日本に戻ってきた

ラジオ深夜便でも連日、戦争体験者のインタビュー番組があるが
みんな80代から90代の高齢者ばかり、記憶がたしかなのは
それだけ悲惨な体験は生涯消えさることがないということだろう

語り継げ、戦争!





ナイトウォーキング。

2011-08-14 23:54:51 | ウォーキング

午後11時48分、ナイトウォーキングから
あせいっぱいになって帰ってきた

あれあれもう12時や
ブログの発行ぎりぎり時間

でも汗が噴き出てブログどころではない
まずは風呂に入って汗を流してきたい

夏場の日中ウォーキングは71歳には
さすがにきついし無理をすることはない

それでも夏のいい汗をいっぱいかきたいので
8月からナイトウォーキングを復活している

暑い家にいるより公園で虫の音を聞きながら
歩くほうが涼しいし暗くて集中できるのがいい

コースの服部緑地は2000年10月1日から
ウォーキング人生をはじめたところ

いまは当時の距離を歩くことはやらないが
歩き方は昔のまま、速歩と普通歩の繰り返し
決してのんびりだらだら歩きはしない・・

そしてベンチ休憩、寝そべって天体観測?
簡単なストレッチ、腹筋は必ずやる
不思議に足がよく歩いてくれるのでありがたい

今夜もまん丸いお月さんが見守ってくれて
とても気持ちのいい歩きができた。


ふるさと新幹線。

2011-08-13 20:53:08 | 輝いて生きる
きのうから新大阪駅の混雑ぶりが目立ってきた
いよいよお盆休み、ふるさとへ戻ってくる人
ふるさとへ帰って行く人の大移動が始まった

甲子園の高校野球の応援組も混じっている
一年でもっともにぎわうときだと思うが
節電で余計に暑い夏、移動も大変だろう

甲子園の高校野球の観戦に行く予定だったが
第一試合から47000人の観客で満員になった
午後からでは入場もできそうにないので諦めた

今日を計画していたのは第四試合で
ふるさとの広島代表の如水館高校と
地元大阪代表の東大阪大柏原が対戦

どっちも応援したい
どっちが勝ってもいいと
楽しみにこの日を待っていたので
スタンドでみられず残念!

試合は延長に入る大接戦の末
結局ふるさと如水館が勝った
うーん、熱戦、応援したかった!

大会中に一度は行っておきたいが
熱中症も怖いからね・・・

ふるさと新幹線は忙しく走っている
いっぱいお土産を乗せて走っている
ほんまにご苦労なことや!

今朝11時で大阪は34.7度だった
おそらく日中は35度を超していたと思う

ふと窓の外をのぞいたらきれいな夕焼け
あしたも暑くなりそうだ



なら燈花会。(11日)

2011-08-12 17:58:55 | ウォーキング

猛暑が続く、同じ暑いのなら・・・外で汗をかいたほうが
健康的!とばかり奈良の夜をろうそくの灯りだけで彩る夏の
風物詩「なら燈花会」へ出かけてきた。
しかし、近鉄奈良駅へついたら暑さは大阪とかわらん!
35度はあったのでは・・・と思うくらい暑かった!
近鉄奈良駅から東大寺をめざして、しばらく歩くともう汗が
噴き出る、17時近くにになるというのにすごい暑さ!




それでも鹿さんたちを冷やかしながら、ほんとは遊ばれ
ながら遊ばれながら東大寺へついた。


参道は相変わらずの人出、ここだけは年中かわらないね。フンをよけながら歩くのだから歩きにくい。道の真ん中に寝ている奴がいる、熱中症?


燈花会は13回目、なぜか、毎年毎年、引き寄せられるよう
に行く「燈花会」の不思議な魅力にとりつかれている。

広い奈良公園一帯を2万を超えるローソクの灯りで彩られる
「燈花会」は、神秘的で温かくて、まほろばのほのぼのとした
情景を映し出して、心にやさしさと安らぎを与えてくれる
すばらしい祭典だと思っている。
カメラマンの多いのには辟易するがそれも灯りにつられてだろう。



自分のために、たった一つの灯りの花を咲かせてみませんかと
「一客一燈」をうたい文句にしている燈花会だが、生かされて
71年、いただいている命がある限り、誰かのために、何かの
ために、小さくてもいい、自分の灯りを灯して生きていきたい!
大震災のあった今年だからこそ、その思いを深く心に刻んで
、鎮魂の気持ちも込めてひとときを「灯りウォーク」にしたいと
特別な思いで訪れた。

毎年、19時に燈火される前、奈良公園周辺のショートウォーク
をしてきたが、今年は初めての試みで若草山へ登ることにした。
若草山から生駒山へ没する夕陽と灯火される眼下の燈花会の灯り
を山頂から眺めてみたいという願望もあった。





日没時間は18時40分頃、それに合わせて東大寺周辺をぶら
ぶらウォークして、時間に余裕をもって若草山下に行ったら、
お土産物屋の「とうふアイスクリーム」?のノボリにつられる
ようにふらふらと店に入ってしまった。せっかくだからと
「とうふアイスクリーム」を食べた、これおいしかった、客の
いなくなったお店で甲子園の九州国際大付属高校と関西高校戦
をテレビ観戦して時間オーバー、あわてて若草山登頂をめざす、
うまく夕陽が見えたらいいが・・・。

いつもの下から眺めている若草山、頂上までは560メートル、
登り始めて想像以上に急な坂道が続くのにびっくり、中腹まで
の芝がきれいに手入れさているところは、立っていることすら
怖い急斜面、転ぶと間違いなく下まで転げ落ちてしまう・・・
その急な斜面を何十頭もの鹿さん集団が草を食べていた、芝が
きれいなのも多分、鹿さんが食べてくれているからだろう。




中腹から山の側面の林の中を右へ左へ縫うように上がるがきつくて
、それでも一気に頂上へついた。奈良市内から生駒、葛城の連山、
はるか大和三山の山影まで見えるすばらしい夕景、ただし夕陽は
雲間にかくれてみることができなくて残念だった。
それでも、東大寺の巨大な大仏殿が右手、正面には興福寺の五重塔、
手前には燈花会の会場がきれいにみえて満足した。



さっきの鹿さん達だろうか、集団になって奥のほうをめざして
いたが、ねぐらは春日の原生林なのか・・人さえみれば寄って
きてエサをねだる街中のシティー派の鹿さん達にくらべると、
こちらはカントリー派の鹿さん達、さすがにお行儀がいい、
よちよちのバンビちゃんはかわいいね。

560メートルの山頂は下界?とちがって涼しい、涼しい風が
気持ちよかった。夕暮れになって町に灯りがつき始めてきれいな
夜景が始まった。燈花会場の灯りもくっきりと見えてきた。
いつまでも眺めていたかったが、入山口(若草山は有料)の
係員さんに暗くなる前に下りてくるように言われていたので、
着替えをしてあわてて下り始めたが、林の中の道がみえにくく
肝を冷やした、それでも転がり降りるように無事下山した。

そのまま三月堂からいつもは夕陽を眺める二月堂へ、ここで
しばし夜景を眺めて、もう一度、東大寺へ行った。



ここからは大変な人、人、そして、鹿、鹿・・・
“おじ(い抜き)ちゃん、せんべいおくれ”
(注・せんべいをください)”と寄ってくるので
“夜更かししたらあかん!早ようお帰り!”
不良になるな!
とちびちゃん鹿に言ってやったが、わかるかなあ・・・
わかれへんやろなあ。

それから広い奈良公園内の燈花会会場の灯りを訪ねて
「灯りウォーク」




多くの人達の尊い命が奪われた東北の人達への鎮魂の
灯火なのか、頑張っている人達への励ましの灯りなのか、
すべての日本人へのメッセージなのか、鹿さんが背負った
「命」、「絆」の灯りもあった。

浮見堂


お腹がすいた!奈良の名物といえば「柿の葉寿司」、
公園内で食べられる店を知っていたので夕食代わり
寄っておいしくいただいた。
コースの最後は興福寺から猿沢の池のほとりを歩いて
JR奈良駅までウォーキング。快速が出たばかりで
22時3分発の大和路線各停に乗ったので時間がかか
ったがJRで天王寺駅まで戻り、地下鉄に乗り換えて
帰宅したら23時半になっていた>
、さすがに疲れたので本日のすべては終業とした。


お天気よりお電気予報を先に!

2011-08-10 18:00:01 | チャレンジ

今日の午後の関西電力電力使用量は91%
(ピーク時供給力のうち)

やや厳しい需給状況です!

と関電のHPの関西電力電気予報に悲しい顔で
表示されている

節電のお願い時間帯が8時半から19時半
とくに13時から16時までが使用ピーク時
仕事場でも目につくところは節電タイム!

中部電力の浜岡原発がストップをかけられた時
関電が応援!
と時の人?時の電力会社になりかけたのに
いまは全く逆でお助け願う逆転の立場になった

原発に依存する比率が高い関電さん
夏はなんとか切り抜けても冬はどうなる
湯たんぽ、今から手配したほうがいいのか

来年はどうなる・・・
関電は運転が再開されないと来年はゼロ運転?
耐えがたきを耐え
忍びがたきを忍んで
少しはそんな時代を知ってるのだが

あー田舎の海辺で水浴びしたい!

お天気キャスター
お天気おねえさんから

お電気キャスター!
お電気おじさん!

そのうちテレビデビューするんかなあ・・・

(8月10日の予報)
電力会社 使用率 コメント
東北電力 96%  大変厳しくなる
東京電力 91%  厳しくなる
中部電力 89%  安定した需給状況
関西電力 91%  やや厳しくなる
北陸電力 89%  余裕があります
四国電力 89%  安定した需給状況
九州電力 90%  比較的余裕のある




恐ろしい現実、京都までもか!

2011-08-09 22:12:07 | ひとりごと

信じられないことが京都で起きている
伝統行事の大文字の送り火で計画してきた
被災地の松の使用が中止になったという



震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田市の
名称「高田の松原」の倒された松を加工して
遺族らが家族への思いや祈りの言葉や
復興にかけるメッセージを書き込んだ松に

「放射能汚染が心配!」とか

「燃やした灰が琵琶湖に落ちて水が飲めなくなるのでは?」
など、心配する電話が大文字保存会に寄せられたために
中止に決めたらしい

それに対して京都市に
被災者の気持ちを無視するのか
京都のイメージダウンにつながるなど
計画の中止に抗議や批難が殺到しているという

あたり前や!

なにを考えている!
被災者に鞭打ちするようなことしたらあかん!



そもそも陸前高田では放射能は検出されておらず
松からも放射性物質は検出されていないというのに


7日のブログでヒロシマの「被爆者」は生涯「被爆者」として
目に見えない差別の人生を送ってきたことを書いた

そしていま福島産の農産物も風評被害で差別されているが
それが「人」の差別にならないようにと書いたばかり

福島から遠く離れた陸前高田市の松にそこまで思うのなら
京都では、震災地の人たちにも差別感を持っているという
ことではないか

恐ろしい感覚
ここまでもか!


ここまで書いて思い出した
ずっと以前の8月6日にヒロシマの原爆のことを話していたら
少し年上の先輩が
”そんなこと言うけど先に日本が真珠湾を攻撃したで!”と
はっきりと言われてことばを失ったことがある

偶然かもしれないが
その人、京都人

あんたらにわかるか!と口にでかかったのを我慢したことを
思い出した

別に京都に何の恨みも特別な感情もない
いつも楽しく観光させてもらっている

ほんの一部の人がさわいでいるのだろうが
こういうことになってしまう。



あなたのおかげ、ありがとう!

2011-08-08 21:24:38 | 輝いて生きる

8月からずっと休んでいたナイトウォーキングを再開
コースは10年来かわらず近くの服部緑地公園周辺へ

昔は公園を抜けて阪急宝塚線曽根駅往復が定番だったが
いまは夜間にそんな距離は歩けないのでその3分の1ほど

別に距離に問題はないが翌朝に疲れが残るから
ナイトはそれくらいがいまの自分にはいいと思っている

昨夜は風が涼しくてベンチに寝転んで星空を眺め
虫の音にしばしいい気分になっていた

歩いたあとの風呂で必ずやっていることがある
湯船の中で足やふくらはぎをやわらかくさすり
足裏を何度もなでてやる

「ありがとう、あんたのおかげで歩けたよ!」
と声をかけてやることだ

これは紀伊山中の携帯電話も通じない熊野古道を歩いて
いる時にふと、もし、ここで歩けなくなったらどうする
そう思う瞬間があってから始めたことだ

頼りは自前の足だけ
思わず「頼むよ!」

それから毎日「風呂でお礼の行事」
ありがとう!
あんたのおかけで人生ここまで歩いてきた!


たまたま五木寛之さんの本を読んでいたら
同じようなことが書いてあってびっくりした



・・・・・
がんばって今日まで生きつづけたこの身体に感謝と
尊敬の念をもって接するのが大事ではないか。
そんな働き者の身体を、少しでも楽にしてやりたい。

そういう気持ちで、私は毎日欠かさず、足を温めたり
耳を引っ張ったりしてきました。
・・・・

ほんとうにそうだ!
楽しいウォーキングができるのも身体のおかげ
メンテナンスを大事にして元気でいてもらわないと。


ヒバクシャからの手紙。

2011-08-07 19:10:26 | ひとりごと

NHKのラジオ深夜便で6日の23時から7日朝にかけて
広島、長崎局から「ヒバクシャからの手紙」の朗読があった

その朗読を聞いているうちに涙が流れてしかたがなかった
布団に入って電気を消してずっと聞いていたが
涙がほほを伝って枕を濡らしていたに違いない

いま被爆者の平均年齢は77歳を過ぎたという
残り人生はもう少ない

これまで伏せていた悲惨な被爆体験を後に伝えておかねば
とやっとハガキに代えて番組の応募に口を開いたのだろう

わが父は子や孫に聞かれて「お前たちに話してもわからない!」
と、目の当たりにした悲劇を一切話さないまま逝ってしまった
あの悲惨さを言葉では伝えられないということだったのか
ご近所の亡くなった人たちに対する懺悔の気持ちだったのか
いまとなってはわからない

被爆者は生きている限り「被爆者」というレッテルをはられ
66年も差別を受け続ける人生を歩んできた
自分がヒロシマにいた頃はひどかった

NHK広島放送局のHPから「ヒバクシャからの手紙」の
朗読を聞くことができる
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/tegami/

いま福島県産の生産物や東北の畜産や魚が放射能汚染という
つらい現実と差別を受けている

恐ろしいのは「フクシマ」の人が今後に差別を受けないか
それが心配でたまらない
国の責任で間違ってもそのような風評被害がないように祈る


いつの間にか深夜便から眠ってしまっていた
明け方、部屋の外の通路から聞こえてくる男女の立ち話に
目が覚めた・・・

うるさい!

なかなかやめない

やかましい!

まだ、やめない

もっと大きな声で、やかましい!

と言って立ち上がろうとして気がついた












耳元のラジオ深夜便のアナウンサーと女性作家との対談を
立ち話と聞きちがえていたのだ
あー恥ずかしい、近所に聞こえていなければいいが・・・
(なにとぞ、ここだけの話ということで)

そのラジオの話、ふるさと宮島の海の祭り「管弦祭」に
ついて地元の女性作家が語っていたのだが、子供の頃から
よく知っている祭りなのでなつかしく目もばっちり覚めた

かくして「深夜便寝床編」は朝を迎えた

なに?

「深夜便寝言編」やないかって?

しらん。


それぞれの2011年8月6日。

2011-08-07 16:50:52 | ひとりごと
新聞記事から(朝日、日経)

甲子園・がんばろう日本・絆の夏が始まった!



広島県人は「忘れちゃいけん!」


ヒロシマとナガサキとフクシマ






「原爆はどこか遠い場所での出来事と思っていたが原発事故が
起きてから放射線の恐ろしさを身近に感ずるようになった」
(福島県遺族代表被爆者二世の声)

同じ6日、仙台では七夕祭りが始まった。
それぞれ思いをもって2011年大震災の夏を送っている。

励ますことは簡単だが・・・

2011-08-06 21:15:49 | ひとりごと

問題を起こした人に対して

「見て見ぬふりをする」ひと
「励ます」ひと
「忠告する」ひと

「忠告して励ます」ひと
「叱る」ひと
「聞く」ひと

一番簡単なのは「頑張って!」と励ますこと
励まされたほうも
「以後気をつけます、頑張ります!」で終わる
差し障りのない表面的な繕いごとでお互いに
気づきがなくて本質的な解決にはならない

状況もいろいろ違うから一律にはいかないが
相手の問題解決の手助けをするつもりなら
きついと思われてもきちんと対応したい

①なぜ問題を起こしたか問いてみる
②どんな影響を与えているか尋ねてみる
③どうするつもりか解決策を聞きだしてみる

なぜ問題行動を起こしたのか原因がわかっているか
そのことでどれだけ影響を与えているかわかっているか
当面の解決方法は、今後再発防止にどうするつもりか
どこまで気づいているか、どこまで考えているか
問いかけて気づかせたい

「感情」で対応すると「激励」か「叱る」かどちらか
これでは指導としてほめられたものではない

こんなことを書いたのも身近で自分が遭遇する事件?
が発生して「叱る」をやってしまった

勿論「投げかけた・問いかけた」つもりなのだが
ネット上でのやりとりでタイミングが合わない
反応を見ると「反省→頑張ります」というよくある
パターンで、叱られた本当の意味がわかっていない!
ネットではよほど注意しないと難しいと再認識した

物事を深く考える習慣を身につけていない相手だと
謝って気をつけます!ですんだと思ってしまう
じれんまだ

人のことで発生するストレスはエネルギーをとられる
それが無為な時間の浪費にもなりかねないので
気をつけたい

人に迷惑だけはかけないようにしたい!
これが大嫌いな性分だから度重なると爆発する
・・・

でも「暴走老人」になったらあかんよ
せめて「暴走朗人」くらいにしとこか!
そうやな!
と自分にも厳しく!

ヒロシマ・66回目の原爆記念日。

2011-08-06 18:14:23 | ひとりごと

今年も8月6日がやってきた
あれから66年
今年もまた5歳のあの日に戻る

歳月を重ねても
あの日、あの瞬間が
今も鮮明に見えてくる

真っさおに晴れ渡った空
セミの声
かぼちゃ畑に立っている自分

ぴかっと光った
日陰も一瞬明るくなった
猛烈な風に周囲の物が飛んだ
ドーンと大きな音がした

隣のおばさんの背中にしがみついて
小さな橋をわたり50m先の防空壕へ
人がどんどん逃げてくる

その日から地獄絵を見続けた
海岸に流れ着く死体、死体・・
水を求めてくる焼けただれた人たち

5歳のあの瞬間から
自分も放射線を受け続け
汚染された魚や野菜や米を食べ
空気を身体いっぱい吸い浴び続けた

叔母も従妹も突然の白血病で亡くなった
母は原爆手帳を離さなかった
よく何もなくて生きてきたものだ

ご近所はみんな惨禍を受けたのに
わが家だけが無事だった
父はそれが辛かったようだった

当時のことを知る人は高齢化し
語り継ぐ人は少なくなった

しかし東電福島原発事故により
放射線の恐怖が日本を揺るがせている
未来のためにここは逃げてはいけない

8時15分、毎年恒例のテレビ前に座り
記念式典をみた
その光景は変わらない

3年前の8月6日に原爆慰霊碑にお祈りし
ドームや爆心地を訪ねて歩いたが
まだ目標の原爆慰霊碑めぐりはできていない
(2008.8.6ブログ広島)
http://blog.goo.ne.jp/yhyh1940/e/c7f6a2d3e262bfa25622d4cb68516b58

2000年から年に一度だけ更新しているHP

昨日からマツダスタジアムで
「ピースナイター2011」が始まった
兵器廃絶と恒久平和実現を訴えるイベントで
漫画「はだしのゲン」作者の中沢啓治さんが
始球式をしたそうで
今夜もカープ-ジャイアンツ戦が行われる


普段は真っ赤に染まる球場全体が
期の絵は緑でそまったそうだ
今日もそうだろう

広島市で8月6日、カープの試合開催は
長く行われてこなかった
やっと何十年振りかの開催だそうだ

カープは昭和25年に広島復興の灯りとして
親会社を持たない市民球団として設立された
弱小球団だったのに市民とともにあったので
つぶれることなく存在価値を発揮してきた

HIROSHIMAという球団名でなくて
企業チームであったら今頃は存在していなかった

RAKUTENも東北復興のシンボルとして
TOHOKUのユニフォームにしたらどうだろう
名前一つでファンの意識もちがうと思うのだが
余計なお世話かな

ヒロシマとフクシマとカタカナ書きをみた
66年を経て同じ環境に置かれた
イーグルスがんばってほしい。

自己流で年一度更新のヒロシマ原爆関連HP
http://www.human-dy.com/hirosima


Kさん、定年ご苦労さま!

2011-08-05 18:06:22 | 交流

先日も定年で福岡に帰ったIさんのことを書いたが
昨日、帰宅したら某業界トップメーカーで近畿管内の
出向先で定年を迎えたKさんから挨拶状がきていた

古い勉強会仲間の1人で仕事場を使って主宰していた
交流会のメンバーでも熱心で中心的なメンバーだった

人好き、酒好き、本好き、道産子らしい大らかな男で
司馬遼太郎をこよなく愛する無類の読書家でもあった

勉強会を閉鎖した時、読書会(Book Cafe)はKさんに
引き継いでもらっていまなお彼の主宰で続けているが
その後は参加したことはない

そのKさんが、はがきの空きスペースに
”交流会があったお陰で仕事が今日まで続けられた様な
気がします”と書いてあった
自分へのメッセージとして心遣いをありがたく思った



”よし!定年を無事に迎えた長年のご苦労を慰労しよう”
そういえば、もう5年くらいは会っていない気がする
当時の仲間にも声をかけて久しぶりにやるか!

職場の後半は転勤と単身赴任続きで厳しかったはずだが
暗さどころか、いつも明るく楽しく過ごしている様子を
写真で送り続けてくれたのは立派だった

人と交流することが好きであったこと
年季の入った趣味をもっていたこと
職場や地域になじんでいく好奇心旺盛だったこと
いかなる状況も前向きに受け入れる強さがあったこと

Kさんからはそんなことを感じていた
久しぶりに会える彼がどんなに変身しているか
みてやろうじゃないか!
(会えると決めたのなら世話しろや!)

いつ、何があるかわからないご時世だから元気なうちに
交流のあった人と会っておくのも人生後半のすべきこと
かもしれないと思う

そう思うと忘れずに連絡をしてくれたKさんはチャンス
をくれたと思うので大事にしよう

久しぶりにKさんとのなつかしい思い出に浸った!

サッカー界・悲喜こもごもの日。

2011-08-04 22:43:16 | スポーツ-トレーニング

昨日のブログに書いたサッカー元日本代表の松田直樹選手
が残念なことに亡くなったというニュースが入ってきた

日本代表として数々の活躍をした選手だけに突然の訃報に
衝撃が走っている

34歳、選手としての全盛期は過ぎたにせよまだまだ現役
として若い選手にプレーのお手本をみせながらの活躍が
期待されていたのに日本サッカー界には大きな損失になる

謹んで松田選手のご冥福を祈りたい


一方で「なでしこジャパン」では国民栄誉賞受賞に続いて
個人報奨金650万円が出ることに決定したそうだ

なでしこジャパン、おめでとう!

同じサッカー界で、喜びの日と悲しみの日を同時に迎える
というのも複雑な思いがする。