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昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

ウォーキング倶楽部で琵琶湖に行った。

2011-05-03 23:14:16 | ウォーキング
お世話をしているウォーキング倶楽部の月例会で滋賀県の大津へ行った。9時45分にJR大津駅に集合、予報に反してどんよりとした空模様、黄砂の影響もあると思ったがそれにしても怪しげな空気に気勢をそそがれた。

駅前広場でコースの概要説明、リーダーのちゅうさん(sns会員)によるストレッチを済ませてさっそく琵琶湖岸を目指してスタート。
コースは、大津市の名刹、三井寺から石山寺までを結んで琵琶湖岸、瀬田川畔を沿うように春の水辺を歩こうというもの、本来担当のHさんがご母堂の病気見舞のため急に帰郷することになったので急きょ、自分が代役、それならはと選んだお気に入りのコース。

コースは、まず、西国三十三ケ所霊場巡り14番札所でおなじみ三井寺へ向かった。
駅前から琵琶湖岸へ伸びる道を下り、湖岸を左へまわり大津港を通過、目の前に迫る比叡山のふもとにある三井寺を目指した。

琵琶湖から京都に水を運ぶ第二疏水のきれいな桜並木をどんどん上がっていくと三井寺へ着いた、いつもは仁王門から入るが今日は逆から入ることにして急な階段を上がり札所がある観音堂を最初に訪ねた。いつもはお遍路姿をたくさんみかけるのだが今日は見られなかった。

観月舞台でもらったパンフレットの読み合わせをし、毘沙門堂から広大な境内の中心部だけを見て歩きすることにした、三井寺の桜は過ぎ、いまは新緑があふれているが、ここはなんといっても秋の紅葉がおすすめだ。


重文の唐院から徳川家康が寄進したという三重塔を経て一切経蔵へ、ここを案内したかったのだが、運悪く工事中で中に入れず、弁慶の引摺り鐘のある霊鐘堂から天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたという霊泉へむかった。



このあたりは天智天皇が667年に飛鳥から都を移してきて大津京が開かれたところ、その天智天皇の継承争いで天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が争う「壬申の乱」が勃発したところ。勝利した大海人皇子は再び飛鳥へ遷都し大津京はわずか5年で廃都になった歴史があるところ。


三井寺の中心はなんといっても威容を誇る国宝の金堂、個人的には上品な風格のある建物の雰囲気が好きだ。ここはみんなで堂内をじっくりとみさせてもらった。
この金堂は豊臣秀吉の正室、北の政所によって再建されたといわれており桃山時代を代表する名建築として知られている。


金堂のすぐ横によく知られた近江八景の「三井の晩鐘」、宇治の平等院、京都高尾の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられ、その音色が「日本に残したい音風景百選」にも選ばれている。


広い境内のほんの一部しか見られなかったが、正面の入口、徳川家康寄進の仁王門から出て次のコースへ急いだ。



昼食を皇子山競技場横の公園で済ませたあと琵琶湖競艇場、琵琶湖第二疏水前を通り再び大津港へ。丁度、琵琶湖観光船ミシガンの出向前に出くわした、乗船を待つ人が列をなして待っていた。
ここからゴールの石山寺をめざして琵琶湖岸のさざなみ公園のトリムコースをすすむ、このコースを設定した中心メンバーの県の役人が知人なのだが、最近はご無沙汰している。

普段なら琵琶湖の景色がすばらしいところで、それをメンバーに見せたくて選んだコースなのだが湖面と空の区別がまったくわからないほどの黄砂、最悪の景色、振り向くと比叡山のテッペンまでもわからなかった。それでも湖岸は釣り人でいっぱいで、こちらの人にとって琵琶湖は身近な楽しみの場所なのだと思った。


天気予報では15時ころから雨になるという、いまにも降りだしそうな空を眺めながら次の目的地、近江大橋をめざした。ここらから女性軍が遅れ始めた、楽しそうにおしゃべりをしながら歩く女性には気の毒だが目で急ぎのサインを出す。

1500メートルの近江大橋に着いたがここからの絶景もかなわなかった。ゴールまでの距離と想定時間より約30分遅れていることを説明すると、とうとう女性軍から“男性の真ん中に入れて前後からくるんでください”と注文が出た。
つまり、女性だけで歩くと遅れるので、男性に巻き込んで引っ張ってほしいとのこと、女歯科医のしっかりMさんらしい提案、歩幅に男女差があるので遅れるのは当たり前だが必死でついてくるのは根性か、やけくそか、いや、大阪のおばちゃん力や!

倶楽部のウォーキングは、だらだら歩きにならないように、そんな姿が見えたら、前後一列になって「しっかり歩き」をトレーニングを兼ねて行うようにしている、さすがに女性も無口になる、これ女性の口封じ作戦!

近江大橋を渡り夕照の道に入る、琵琶湖漕艇場前で最後の休憩をした、女性の足の疲れが目立ってきたので、残りの距離と時間を説明した。日曜日だから少しでも早く帰してあげたい。
当面の目標、瀬田の唐橋をめざす、コースで一番くるしいところだが、まだ、残りが4キロあるので励ましながらすすんだ。


瀬田唐橋を渡り瀬田川に沿って京阪石山寺駅までが最後の頑張りどころ、みんなの疲れを励ますように、倶楽部のリーダーをしてくれているちゅうさんが先を歩きを始めた、あっという間に差がついていく、誰もおいつけるものはいない、なにしろ四国霊場八十八か所めぐりをしている超健脚、一昨日まで3日間で14万歩も歩きながら疲れもみせず、みんなを引っ張ってくれた。


石山寺の東大門へ着いたら予定時間を15分程度遅れまで回復して15時45分だった。
石山寺は先月13日の誕生日に訪れたばかりだが、東大門から入ると13日は満開の桜が迎えてくれたのに、たった3週間の間に桜は新緑に、そしてつつじが咲き始めていた。



ここまで来て足の疲れも個人差が出ていたので境内は自由行動、16時30分、当初の予定時間通りに石山寺を出て京阪石山寺駅から乗車、JR石山駅で乗り換えて全員、元気に戻ってきた。

連休中で参加者が少なかったのとお天気にめぐまれなかったのは残念だったが、名刹を結ぶ今日のコースは楽しんでくれたと思ったのだが。

法然展に行ってきた。

2011-05-02 23:22:01 | ウォーキング
お天気につられて昼過ぎから京都へでかけた。
行き先は国立京都博物館の「法然展」、8日で閉幕するので連休後半は混雑するはず、少しでも早く見ておきたくて、それに合わせて法然上人ゆかりのお寺を訪ねて歩くことにした。
それに明日、W倶楽部の例会でメンバーを引率するが、震災後、誕生日以外はまったく歩いていないので足慣らしをしておこうと思った。



京都駅を12時40分にスタート、高瀬川を渡り鴨川にかかる七条大橋へ、この橋からいつもなら左前方に見える比叡山が黄砂でまったく見えない、これから向かう東山方面もぼんやりとしている、こんなにひどい黄砂は初めてみた。



13時過ぎに博物館へ着いた、やはり訪れる人は多い。
京都は「法然上人八百回忌」と「親鸞上人七百五十回忌」の年ですでにさまざまな行事が行われており、展覧会も時期が重なるように開催されており、それ目当てに上洛してくる人は多いと思うが震災の影響はどうなっているのやら・・・。



親鸞上人については書物も沢山あり、真宗のお寺に行くと親鸞さんの像に出会うこともよくあり身近に感ずるが、法然上人については意外と知るものが残されていない。そんなこともあって法然上人のことを少しでも知ることができればいい、そんな思いで楽しみに館内に入った。

法然上人は、浄土宗の宗祖、日本の仏教界では鎌倉仏教のリーダー(広めた最初の人)で、平安時代の末期に、人々を救済するために念仏信仰を唱え広めた。(1133~1212)
早くから比叡山で修業を積んでいた法然は、修行僧をみて疑念を抱き、山を降りて、厳しい修業をしなくても念仏を唱えれば人は救われると説き、それが民衆はもとより公家や武家まで法然に帰依するほど広まったが、それを他宗から迫害されて四国に流罪されるなど苦難の道を歩みながら「浄土宗」の基礎をつくりあげた、親鸞さんは法然さんの弟子にあたる。

法然上人が仏教界に与えた影響(改革)は計り知れないと思う。末法思想が蔓延した平安時代に、死後は阿弥陀如来の極楽浄土へと憧れさせ民を導いた浄土思想から、次々と新しい宗祖と宗派が生まれていった、その先人が法然上人だったと・・・思うが。

展覧会は、その法然上人の生い立ちから亡くなるまで、そして引き継がれるまでの生涯を国宝「法然上人絵伝四十八巻」という華麗な絵巻物で繰り広げられているのがメインで、それも鮮明な絵図で大変わかりやすくて興味深かった。伝記といえばわかりやすい。
また、国宝、重文をはじめ数々の名品も展示されていた。

展覧会場から出ると浄土宗の総本山「知恩院」をめざしてウォーキング、東山七条から清水寺へ通ずる東山五条、円山公園の中を通り抜けて知恩院へ、黄砂の関係か蒸し暑い、やがてあの壮大な知恩院の三門の前に着いた。先月8日にも来たばかりだから”こんにちは、この間はどうも”。
徳川秀忠によって建てられた二階建ての三門は国宝で最大の建造物。とにかく大きい。そこから知恩院の中心の御影堂へ行く石段(男坂)はきつい。



知恩院が浄土宗の総本山として拡大したのは徳川家の庇護によるところが大きかったらしい。代々徳川家は浄土宗で家康は知恩院を徳川家の菩提寺にした。

御影堂へ入ると大勢の人が畳の広間に座っている。こちらもそれを楽しみにしてきたのだから座らせてもらう。ただ歩くだけではもったいない、やっぱり心の寄り道が大事、神社仏閣はそのためにあると思うがいい、仏さまの前に座っていると心までも座るようで気持ちが落ち着く。年齢のせいかもしれないがそんな時が自分に戻れる貴重な時間、自分にとってウォーキングはそうありたいと思っている。
座りながら思いつくままに浮かぶことを文字にして書き込んでみようといつも携帯しているマイノートを広げたがまわりも人ひと・・・気になってリュックにしまいこんだ。



知恩院の北口から出て青蓮院前を通り平安神宮の横を通って次に目指すは、やはり浄土宗の金戒光明寺、法然上人が比叡山を降りて最初に草庵を結んだのがこのお寺の始まり。ここの三門もひときわ壮大で階段を上がると御影堂がある、ここから京都市内が展望できる。高台にあるために余計に迫りくるものを感じた。ここに来たのは恐らく20代の時だろう、ほんとうに久しぶりに来た。残念ながら着いたら16時を少し過ぎていて特別拝観は終わっていた。



金戒光明寺は、幕末に京都の治安維持のため京都守護職についた松平容歩は会津藩の本陣として倒幕派の取り締まりに新撰組を下に置いたことでも知られているが、蛤門の変や伏見鳥羽の闘いで亡くなった会津藩の墓所がある、それは立派な墓所で今日も掃除をしている人を二人見た。



さらに大河ドラマの「江」の立派な供養塔があるのを始めてしった。後に徳川秀忠に嫁いだ江だから、やはりこのお寺も徳川家とゆかりがあったのかもしれない。



17時になった、さあ帰ろう!ここから京都駅まで歩く!はるか向こうに京都駅前の京都タワーが見える、ざっと見積もって18時半くらいかな・・・

帰り道は平安神宮へ立ち寄って先月歩いた白川通りを歩いてみた。




夕暮れまじかの四条市場大橋の上に行くと始まったばかりの川床に灯りがつき始めて京都らしい風情を見せていた。



さすがに橋の上を行きかう人でいっぱい、気がついたのは、いつもの京都観光コースなら中国語と韓国語があふれているのに今日はひとことも聞かなかった。
やはりここにも震災の影響が色濃く出ている、京都にも外国人観光客が来ていないのだ・・・

先月は桜の下を歩いた木屋町を高瀬川にそって五条大橋まで歩き、牛若丸と弁慶の像がある牛若公園で最後の休憩。



、そのまま五条通りから烏丸通を歩いて京都駅へ着いた。18時32分、ほぼ予想していた時間で無事に久しぶりのウォーキングを完歩した。歩数は約27,000歩。

万博記念公園梅見ウォーキング。

2011-02-26 22:50:39 | ウォーキング
朝から青空が広がり暖かくてウォーキングには絶好の日和になった
毎年この時期に必ず行く万博記念公園の梅まつりと園内ウオークに出かけた

モノレールの万博中央口に着くとおなじみの太陽の塔がいつものよう
に両手を広げるようなポーズで出迎えてくれた



来月で1970年に開催されたあの大阪万国博覧会から41年になる
いまでも太陽の塔をみると当時のことが鮮明に蘇ってきてなつかしい

好天と梅まつりの開催中ということもあるのだろうが駅から会場の入り口まで大勢の列が太陽の塔に招かれるように続いく

公園のゲートを入ると正面に太陽の塔が41年間変わることなく昔のま
まで空にそびえるように立っている(いいなあ年をとらなくて!)



ここから行先は梅まつりの開かれている梅林へ
150種類あるという梅はちょうど見ごろですでに大変な人、人、人・・・
早い弁当を広げている人たちもいてとてもゆっくりできる場所などない




梅林内をぐるり一周したあと次はすっかり森に生育した元パビリオンあ
との自然観察コースにもなっている森の道を歩き続けてもう一つの見どころ

「つばきの森」へ行った



いまの時期、万博公園の目玉は「つばきの森」で88種類の椿が
きれいに咲きそろっていてここにも素人カメラマンが大勢来ていた
このつばき園も当時のパビリオン跡が記されていて懐かしい

ここからせせらぎ広場、水すまし池をまわって日本庭園へ
日本庭園もいまの時期はつばきがいたるところに咲いていて
まるでつばきの道を歩くようで顔まで赤く染まるような気がした



レストランでコーヒータイムをしたあと
日本民芸館、国立民族学博物館を経て太陽の塔の背中、黒い太陽の
顔を目指して歩いていると途中で大変な人だかりがあったので覗いてみると



大道芸人がパフォーマンス中だった
それにしても大変な人、人、人・・・



アルバイトもしないで大道芸人一筋16年というその芸人
大道芸にかけているというだけあってすばらしい芸を見せてくれた
テレビで見る下手な芸人に教えてもらえと言ってやりたいくらい

場所の提供のみで一切のお金はもらっていないそうで
かぶっていた帽子に見物した人たちがお金を入れて行く
生きるか死ぬか

内容は違うがよく似た生き方をしてきたので痛いほどわかる
止まったら死んでしまう、頑張れ!

再び入場門にもどるとここにも大道芸人がパフォーマンスしていた
彼らの話芸はとくに参考になるので興味深く見物をした



たいした距離を歩いたわけではないがなかなか目覚めない
冬眠気分を春模様に梅とつばきが覚ましてくれたような気がした



ウォーキング倶楽部を主宰して10年!長浜記念ウォーク。

2011-02-20 21:51:50 | ウォーキング
お世話をしているウォーキング倶楽部が今月で10年になった。倶楽部を立ち上げ、第一回の例会を開催したのが2002年2月23日(土)、まさかこんなに長続きするとは思いもしなかったのでここまでよく続いたものだと自分でも驚いている。

10年間、120回近い例会を開催してくることができたのも、いいメンバーに恵まれ、お手伝いをしてくれるリーダーにも恵まれ、人数を増やさず、人間関係を大切に、例会の内容と倶楽部の運営にこだわったことがよかったのかなあと思っている。

区切りの2011年2月例会を記念例会として第一回例会を開催した思い出の地、滋賀県長浜市で20日(日)に開催することにした、長浜を選んだもう一つの目的は、現在放映されている大河ドラマ「江~娘たちの戦国~」の父親、浅井長政ゆかりの地、そして三人姉妹が過ごした小谷城も姉川の合戦場もすぐ近くにあり参加するメンバーもドラマに結び付けて楽しんでくれるだろうと思った。

日曜日の滋賀は快晴で暖かくウォークにはいい日和になった。
午前10時前、JR北陸線、長浜駅に11名が集結した。大阪駅から1時間47分、兵庫県西部からの遠方組は3時間近くもかけて元気な顔を見せてくれてうれしいやら申し訳ないやら・・・。

長浜を訪れるとまず立ち寄るのが駅前に立っている豊臣秀吉と石田三成の出会いの像、長浜で生まれた三成が家臣になるきっかけとなった「三献の茶」の様子が像に再現されている。



「三献の茶」とは長浜城主となった秀吉が、鷹狩の帰途、のど乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望したところ、対応した小姓が、大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのむと、小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶を出した。もう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。この気働きに感じ入った秀吉は、その小姓を家来とした。この小姓こそ、のちの石田三成、これを三献の茶と言い伝えられている。

その前で記念撮影をしていよいよスタート、まず長浜城のある豊公園へ、桜でも有名な公園は琵琶湖畔へと続く、ここから眺める琵琶湖は広い、沖ノ島も長命山もはるか彦根城も、そして対岸の湖西の頂に雪の積もる山々も遠望できる絶景の地、湖畔から眺める長浜城の佇まいもすばらしい。




次に長浜のシンボル長浜城へ、長浜はかって今浜といっていたが、天正元年(1573)、秀吉が浅井長政の小谷城攻めの功により、信長より浅井氏の領地の大部分を与えられて、初めて今浜に城を築き、信長の名を入れ地名を「長浜」に改め長浜は長浜城の城下町として発展した。

長浜城は昭和38年に「歴史博物館」として再興されているが、いまは、「浅井三姉妹展覧会」が開催されておりそれを見学したあと、10年前の第一回例会で記念撮影をした天守閣の同じ場所で全員集合写真を撮った。背景は滋賀、岐阜県の境にある伊吹山。




秀吉ゆかりの長浜には、秀吉ゆかりの六社寺を巡る「六(む)瓢箪めぐり」がある、秀吉が合戦で掲げた旗印が縁起ものと言われた瓢箪で、戦いに勝つと腰に付けた瓢箪を一つずつくわえてたという。

六瓢が「無(む)病」につながるとして長浜では「六(む)瓢箪めぐり」は大切にされている。めぐるたびに一つずつ瓢箪を集めて六つ授かると無病息災、開運招福、子孫繁栄。今日はそのうち近場の4社寺をコースに入れ、最初に訪れたのが「豊国神社」、ご朱印をもらっているうちにメンバーは行ってしまった!





隣の派手な朱色の出世稲荷にもお参りした“いまさら出世でもないやろ!”そんな声が背中から聞こえてくるような気がして・・・あわててメンバーのあとを追った。




そのまま進むと長浜市街地の中心、昔はお城に通じた大手門通りにすすむ、このあたりから長浜随一の観光エリアの黒壁スクエア、観光客が多い、モダンな雰囲気が漂うさまざまな観光スポット、男でも楽しいお店が続く、長浜はガラス細工の地で黒壁とガラスショップなどの古い町と新しい町とが融合して魅力的な街歩きは楽しい。



通りには、大河ドラマにちなんで浅井三姉妹ゆかりの幟りや広告物がやたらと目についてまさに時の地と言っていいのだろう。三姉妹の博覧会も開かれている。







時間は少し早かったが、みんな早朝に出掛けてきたので食事を先に済ませて、ながはま御坊表参道を通って長浜御坊として知られている大通寺へ、この参道は大通寺へ続く門前町として栄えたところ、いまもその風情が残っている。
大通寺は浄土真宗大谷派の古刹、狩野山楽や円山応挙の襖絵が有名で小学生だった息子を連れてきたとき、大変に気に入って広間に座り続けていたことを思い出した。いまはこのお寺で有名な「あせび展」を開催していたが時間の関係でパス。この時期にしかみられないんだけど・・・。





六瓢箪めぐりの続き、「長浜八幡」へ行く、参道から正面に冠雪の伊吹山がきれいに見えたが、さすがに滋賀県の湖北は寒いところだ。




長浜八幡宮のすぐ隣にやはり六瓢箪のひとつ「舎那院」へ、ここも秀吉ゆかりのお寺、観光コースから少し外れただけでほとんど人影もなく我々のグループだけが境内を独占、空模様に陰りが出てきて風も冷たくなったので再び、大手門通りにもどり、日本三大曳山としても知られている長浜曳山会館へ、そして向かいのオルゴール館に入った、こんなにたくさんの種類のオルゴールがあるものかとびっくりするほどさまざまなオルゴールに驚いた。
実は、これまで何度このあたりに来たことがあるが入ったことはなかった、女性メンバーのためにと思って入ったのだが、おじさんメンバーも楽しんでいたな。
ここだけの話だけど、みんなの目が離れている間にバレンタインデーのお返しに一品を買った!
まさかオルゴールではないよ。でも、どうして渡そうかなあ。

お土産物店が続く大手門通りでメンバーの買い物や散策に自由時間を提供、ここから南北に通っている北国街道をすすむ、長浜は近畿と北陸を結ぶ交通の要衝で古くから北国街道としても栄えた町、当時の名残があるレトロな建物をみながら歩くのも楽しい街道歩き、そのまますすみ明治ステーション通りで右折、すぐ両側の建物が舟の廃材で作られた舟べいが続く通りをすすむ。



JR北陸線の踏切を渡ると右手に現存する日本最古の長浜駅舎、明治ステーション通りとはこの駅のことを呼称したのだろう、表から見るだけで見学はパスしてコースの最後、駅舎の向かいにある慶雲館で開催中の「長浜盆梅展」の会場へ入った、集合時間を15時にして自由見学、この盆梅展は今年で60回、関西ではよく知られており記憶をたどってみると今回で来たのは4回目だと思う。








見学を終えて帰りのJR乗車時間に余裕があったので駅前のスーパーのレストランでコーヒータイム、しばらくくつろいで予定していた15時59分の新快速に乗車、10周年記念の例会を無事に終えてきた。

帰りの車内から信長の安土城跡のある安土を通過、今夜の大河ドラマのシーンは?と思いをはせながら戻ってきた、長浜の周辺には、小谷城、姉川古戦場の他、すこし北へ行くと秀吉と柴田勝家の賎ゲ岳の戦いのあった古戦場、さらに北へ行くとお市の方がドラマでこれから出てくると思う勝家の北の庄がある、このあたりは激動の戦国時代に主戦場になった地域、またの機会にゆっくりと歩きたい。

敵は本能寺にあり!信長の足跡を歩いてきた。

2011-02-12 20:48:55 | ウォーキング
昨日は珍しい雪で終日、ふとんにくるまって巣籠りしたので、今日はそうはいかん!幸いに昼前から天気も回復の兆しが見えてきたので久しぶりにぶらりウォーキングにでかけてくることにした。
さて、どこに行こうかと電車に乗ってぼそぼそひとり会談、そうだ、先週の大河ドラマ、江の舞台になった京都・本能寺など「信長の足跡」を巡り歩きしようと決めてJRに乗り換え、JR京都駅に着いたのが12時20分。風が冷たい!身体を温めておこうと駅でかきあげうどんを食べていざスタート。
コースは電車内で考えた織田信長と信忠親子の眠る「阿弥陀寺」→明治2年に明治天皇により創建された信長・信忠親子が祀ってある船岡山の「建勲神社」→本能寺の変があった「本能寺跡」→その後移転して現在の「本能寺」を回って16時半に京都駅に戻ってくることにした。先週のNHKテレビでは、祇園の近くにある大雲院が紹介されていたがこのお寺は一般公開されていないのでパス。


まず地下鉄で今出川まで行き、12月に訪れた京都五山2位の相国寺の境内を横切って寺町通りを北上、途中で京都の某ウォーキング団体の旗を持った人たちと一緒になったがこの一団はただ見るだけの素通りで巻き込まれなくてほっとした。


「阿弥陀寺」のことは知っていたが来たのは初めて、門前に「織田信長公本廟」の大きな石碑が建っている。


信長が帰依した清玉上人が創建した織田家の菩提寺で、信長が本能寺で自刃した際、清玉が遺骸を持ち帰り供養し墓を建立したという。信長、信忠の墓が並んで立っているが古くて文字も正確に読みにくいくらい古い。
ここには信長に仕えた森蘭丸ら三兄弟をはじめ本能寺で討ち死にした110余名の墓もある。6月2日の「信長忌」には党内の拝観ができるそうだ。


阿弥陀寺を出て烏丸通へ、途中で上御霊神社の前を通る、ここも12月に訪れた神社で室町幕府八代将軍足利義政の跡目争いになった内乱「応仁の乱」(1467-1477)の勃発した地。


烏丸通りを北へすすみ大徳寺近くの船岡山にある建勲神社を目指し烏丸鞍馬口を通過、烏丸紫明の交差点へ行ったところでみぞれまじりの雨が降ってきた。空を見ても晴れる見込みがなさそうなのでしばらく雨宿りした後、引返すことにして地下鉄鞍馬口から烏丸御池へ、下車して外に出ると、小雨になっていたので「本能寺跡」へ行くことにした。

御池通りを西へすすみ堀川通りを南へ、一度訪ねたことはあるが昔のことなのでわかるだろうかと心配したが迷うこともなくぴたり跡地の碑の前に着いた。ここにもお父さんと男の子が来ていてノートしていた、自分も父子でよくやったことなのでなつかしく、ほほえましく眺めていた。“あの男の子も歴史好きになるやろな”この地があの「本能寺の変」(天正10年1582年6月2日)の舞台になった「本能寺」があったところ。


ここから、現在の本能寺へ向かう、地下鉄の御池を経由、小雨の御池通りを東へ、京都市役所向かいまですすみ本能寺へ着いた。テレビの影響なのか本能寺には若い人たちの姿が目立って見受けられた。


現在の本能寺は法華宗の大本山、本能寺の変で焼失した後、豊臣秀吉の命で天正15年(1587)に現在地に移転した。境内には信長供養塔があり宝物館では「本能寺信長公の遺品展」を開催中だった。


さて、帰ろうかと地下鉄の駅をめざしていると先ほどの雨があがってきた・・・地下鉄で京都駅に着くと、なんと、空はからりと晴れ上がっているではないか、これなら建勲神社へ行っておけばよかったと悔しかったが、次の楽しみにということにして少し早かったがJRで戻ってきた。
明日の「江」は、秀吉と光秀の天王山(山崎)の合戦、そして琵琶湖畔坂本城へ敗走する山中で光秀は土民に・・・・そんな場面何だろうと想像しているが。

災害時帰宅コースの確認ウォーク。

2011-01-22 20:22:58 | ウォーキング

久しぶりに暖かくて快晴の土曜日になったので
以前から思っていた災害時に自宅まで歩いて
帰ることを想定したウォークをすることにした

幸いに自宅と仕事場までは地下鉄でわずか3駅
一本道でわかりやすいが途中にある神崎川に
かかる橋が通行不能になると事情は一変する

16年前の阪神淡路大震災で地下鉄も新御堂筋も
閉鎖され豊中市の自宅から仕事場の新大阪駅前まで
2日後に歩いたことをこの間のことのように覚えている

その後、ウォーキングを始めてその道をどれだけ歩いたか
わからないが、ここ1年はまったく歩いていないので防災の
目で何か変化はないか、歩いておくことにした

自宅から仕事場へと帰宅コースとは逆に歩くことになるが
12時30分に豊中市の自宅から訓練ウォークをスタート
すぐ新御堂筋に沿って一路、新大阪駅をめざした

自宅を出ると下りが続きやがて吹田市に入る
高架になっている地下鉄と並行する新御堂筋の下を
次の江坂駅を目指して快晴の空の下を気持ちよく歩く

地下鉄江坂駅から新大阪までは1年ぶりに歩く
震災時、この江坂駅の南、北側の橋桁に傷が入り
補修で半年間も地下鉄は徐行運転線を続けた

吹田市と大阪市との境を流れる神崎川まで行く
もし、災害が発生しこの橋が渡れなくなると大変
橋はらせん階段で上がり下りするのでここも問題



念のために上、下流の橋は渡って確認をしているが
そこの橋も通れなくなるとお手上げになる
橋を渡り大阪市域に入った

地下鉄東三国駅周辺に近づくと町の雰囲気が以前より
随分と変わったのは単身者が多く済んでいるからか
若者は町を変えてしまう

たこ焼きのいいにおいがしてくる
おいしそう・・・食べたいなあと思うが
でも、だめだめ、今日は災害帰宅訓練中!

今度は大好きなミスタードーナツショップ
暖かいコーヒーが飲みたい!
だめだめ、今日は災害帰宅訓練中!

途中でのお小遣はゼロ!

それにしてもコンビニが多い、次々と現れる
あの震災頃にコンビニはほとんどなかったはず
単身者の町になった証拠だ

そのコンビニで確かめたいことがひとつあった
「災害時帰宅支援ステーション」の
ステッカーがどうなっているのか



関西のコンビニでは数年前からよく見かけられる
「災害時帰宅支援ステーション・ステッカー」のこと
「災害時の帰宅困難者を支援します」
「万一の時、歩いて帰宅する人々に必要なサービスを提供いたします」
等、文言は各店で違うがステッカーのロゴは統一されている

この「災害時帰宅支援ステーション・ステッカー」とは
阪神大震災を教訓に、平成17年4月に関西広域機構
から始まり、関西2府5県にあるコンビニや外食事業者と
災害時に帰宅路の途絶えた通勤・通学者など歩いて帰る
人に対する「水道水」「トイレ」「道路情報」の提供などの
帰宅支援サービスを行うためにスタートした


「災害時帰宅支援ステーション・ステッカー」は支援可能な
店舗に貼りだしてある
いまでは関東圏、東海圏まで広がっているらしい
そうはいいながら、新大阪まで10店以上のコンビニで
ステッカーの有無をチェックしたが無い店のほうが多かった

東三国駅から新大阪までは随分変わってきている
軽快に新大阪駅へ着いた
いま新しいホームの新設や駅全体の改修中の駅も
震災時は壊れた窓ガラスがコンコースに散乱していた
そのコンコースを通り抜けて仕事場のビルへ着いた

ここまで自宅を出てから68分
震災2日目に歩いた時の時間を記憶していて75分
当時は54歳、ウォーキングという言葉もなかったし
歩くと言えばお散歩程度だった
あれから16年も歳とったのに足はむしろ丈夫になっている

あの日、仕事場のビル前は水道管が破裂し道路は水浸し
ビルの玄関エントランスは床がめくれあがり水浸しだった
ところどころ壁の落ちた非常階段を上り事務所へ入ってみると
部屋にあった物はすべて北側へ移動、一人では動かせない
本や書類の入った固定書棚が部屋の真ん中まで移動して
これを戻すのに三人がかりでも動かせないほどだった

この一週間、関西限定版かもしれないが、テレビや新聞で
震災特集が組まれていたが、いまでは内容も防災特集へと
変わりつつあり関西は「防災」という言葉がすっかり定着した

しかし、最後は、ひとりひとりの意識と、災害が発生した時
自宅と仕事場との帰宅路を確認しておくことは必要だと思う
「震災時帰宅支援マップ」も万一の時のために備えたい。

 


震災記念日前日に神戸を歩いて。

2011-01-17 20:33:48 | ウォーキング

阪神淡路大震災16周年記念日の前日16日、お世話をしているウォーキング倶楽部の1月例会で神戸を訪ねた。例会テーマは「震災モニュメント(慰霊碑)と神戸の歴史を訪ねて」、コースは須磨から三宮・震災記念の集いが開催される東遊園地までの20キロを歩こうというもの。

神戸にゆかりの平清盛一族と盛衰の跡がいまなお強く残る史跡を訪ねること、とくに来年の大河ドラマ「平清盛」を先取りして現地を訪ねておこう②大震災後の神戸の復興状況を足で見て歩き亡くなった人の慰霊碑を訪ねてお慰めをすることにした。

JR須磨駅に集合、今回は初めて参加(お試し)の男性が二人。9名で駅前から広がる須磨の海岸を歩いて須磨浦公園まで行った。



公園の西側のすみっこにある平敦盛塚へ、敦盛は平清盛の弟・経盛の末っ子で一の谷の合戦で源氏の熊谷直美と一騎打ち、その悲劇は「平家物語」でも有名。ここへは何度きたことやら、この後で須磨寺に行くとその一騎打ちの場面が見られる。



須磨浦公園一帯は源平の合戦のうち一の谷合戦の戦場となったことから「戦の浜」と呼ばれ、「源平史跡 戦の浜」と書かれた石碑が建っている。



公園を出て一路神戸方面へ2号線に沿って歩き続ける。源平にゆかりの深い須磨寺へ寄ったが、時間の関係で今日は中へは入らなかった。このお寺はゆっくりと見るにはかなりの時間が必要なお寺。

須磨寺正覚院のお地蔵さんたち、震災で行き場がなくなった地区のお地蔵さん達をここに引き取ったという。さまざまなお地蔵さんたちが丁寧に安置され静かに時を送っているように見えた。

ここに一の谷合戦の敦盛と熊谷直美との一騎打ちの場面を再現した源平の庭がある。当時16歳だった敦盛が源氏に追われ平家劣勢で海に逃れようとしていた時源氏の熊谷直美に挑まれ、勝った直美が首を斬ろうとすると敦盛であることがわかり、自分の子供と同じような年齢の敦盛の首を味方の武士に斬らせることはできないと涙を飲んで自分で斬る、この場面が歌舞伎などで演じられている。

山陽電鉄須磨寺駅横には平重衝とらわれの松の碑がある。うっかりすると見逃しそうな駅と往来の激しい道路わきにある。

源平合戦で敗走した平清盛の五男重衛がこの地で生け捕りにあい松の木に縛られたとある。

琵琶の名人の藤原師長がこの地で村上天皇の霊に琵琶の奥義を伝授したという村上帝社により、さらに関守稲荷神社へ向かった。

ここから鷹取駅方面を目指してどんどんすすむ、初参加の二人も問題なく歩いて行くのでひと安心、12時ちょうど、鷹取駅前へ来た。



JR鷹取駅前から16年前のあの時、火災で町中が火の海と化し、多くの犠牲者を出した鷹取商店街の今を訪ねた。商店街はしばらく古い建物が残り震災の傷跡があまり感じられない通りをすすんでいると公園についた。

実はこの公園にあるクスノキがこれから向かう全焼した商店街や住宅との防火壁の役目を果たし、いま歩いてきた通りへの類焼を防いだそうだ。今日の担当、ちゅうさんがここを皆に見せたかったらしい。確かに歩いてきた通りとこれから行く通りはまるで雰囲気が違う、どこにでもあるような公園が実は大きな役割を果たしたこと、そのクスノキは何もなかったかのように空に向かっているが、なにもかも知っているのだろう。

 

 (↑正面に公園が見える-このあたりは古い建物が多い)

大国公園にあね倒壊した鳥居で作ったお地蔵さん。

公園を出ると焼けつくされた町はすっかり区画化され、きれいに立ち並ぶ新しい建物、そして商店街は異様な感じさえした。

そんな鷹取の通りを歩いていたら年配の男性に声をかけられた、それがすばらしい出会いになった。



その人は、Aさんというプロゴルファー、赤井英和さん主演の震災をテーマにして数年前に上映された映画「ありがとう」のモデルになった人だった。震災前からこの街に住み、あの震災を体験、がれきの下から11人助け出しながら、生きている人を火の海から救い出せなかった、助けて!という声がいまも消えないという。
地震と火災の怖さを伝えていきたいと400回を超える講演を行っているそうだ。寒い商店街の一角で震災体験者のAさんから真に迫る話を聞くことができてすばらしい出会いになった。

Aさん70才、同じ年齢なのに若さが違う、メンバーが二人で肩を組んでいる写真を撮ってくれた。握手して別れたが、家に戻ってきて実はAさんとつながりがあることがわかってびっくり。何気なく組んだ肩のぬくもり、つながっていた。一度、Aさんを訪ねたいと思っている。



若松鷹取公園、Aさんに教えられた合掌の地蔵さん、震災当日、ここにあった家から出火しこのあたりを火の海にしたらしい。



鷹取から同じく火災で町が焼けつくされた長田へ移動、ここも火災に包まれた町がテレビで映され続けた町、5年前に訪れた時とはかなり変わっていた。駅前は復興事業で大規模集合住宅や店舗が目立ち、表向きはここも新興の駅前、商店街。

昨年、突然現れた鉄人28号の像は復興の象徴のように力強く見えた。

行くぞ、おっ!


いつの間にか12時半を過ぎていたので新長田駅前の商店街で長田名物の「ぼっかけうどん」で身体を温めた。うわさ通りおいしかった。



長田でよく紹介されていた菅原商店街を訪ねた、商店街は集合店舗になり震災前とは町が一変していた。

よく紹介された菅原商店街だったと思われるところが「すがはらすいせん公園」になっているが、その公園に、天皇陛下、皇后陛下がお見舞いに来られたとき水仙の花束をお供えになったことで名づけられ、今日も可憐に水仙の花が咲き、花束を模したモニュメントもあった。



14時8分にJR兵庫駅前を通過。

駅前すぐ、西国街道の柳原えびす神社がある、ここが西国街道、これから行く兵庫城(跡)への西の入り口・柳原総門があったところ。

しばらく行くと兵庫大仏のある能福寺へ、日本三大大仏の三位。高さ18メートル。ここは来年の大河ドラマの平清盛に清盛役で出演するタレントが訪れたという新聞記事が張り出してあった。平清盛の供養塔があるからだろう。

「江」が始まったばかりなのに、もう、来年のことが始まっている、驚いた。

 

時宗の一遍上人の五輪塔、廟のある一遍上人がなくなった真光寺へも寄ってみた。



すぐ向かいの清盛の像と高い十三塔もあり、いかにも清盛が切り開いた兵庫津らしく清盛の史跡がいたるところにあった。
左・清盛像と右・清盛の甥の経正を祀る琵琶塚。

清盛塚、鎌倉時代の執権の北条貞時が平清盛の冥福を祈って建立した石塔。



兵庫運河にかかる大和田橋を渡ってみた、このあたりは数年前に方向は逆だが歩いたことがあるので記憶に新しい。橋の大きな飾り柱が倒壊しているのを見るといかに震災のエネルギーが大きかったか、想像もつかない。

新川運河のほとりが遊歩道・キャナルプロムナードという、ここはかって兵庫の港であった大和田泊、後に兵庫津(港)といわれたところ。それをすすめたのが平清盛、福原に遷都、そしてこの地、和田に和田京を思い、外国との交易を広げるために港の整備を行った。

そばに兵庫城跡の碑があった、兵庫城は、池田信輝、輝政父子が1581年(天正9年)にこの兵庫津(港)に築いた城で、海陸の要所として栄えた兵庫津をおさめた。初代兵庫県庁があったところ。ということは、初代知事の伊藤博文さんはここにいたのだろうか。

七宮神社まで来た、七宮神社は平清盛が築造した人工島(経が島)ゆかりの神社。人工島の工事が難航するのを不審に思った清盛が調べたところ土砂をとっていた塩槌山の神の怒りとわかり、山にあつた七宮神社を現在地に移したら工事は無事に終わったという。

七宮神社を過ぎると高田屋嘉兵衛本店跡の碑が建っていた。嘉兵衛は江戸時代後期、西回り航路から北をめざし北海道、やがてロシアと交易を発展させた人物として知られている。



コースはいよいよ終盤、寒さの中を歩き続け、さすがにメンバーの足が重くなったころ、神戸ハーバーランドについた。ここからが現在の神戸港一帯、あれなに?水陸両用車に遭遇した。しかし、この水陸両用バスさん、なんや、頼りなかったなあ・・・。



崩れた岸壁をモニュメントにしているメリケン波止場へ、ここに去年の1月17日、福島県から震災の日を訪ねてきた親子ウォーカーさん(親子)を案内したことを思い出した。そして、勝海舟と龍馬の神戸海軍操連所跡の碑前を通り最終目的地の東遊園地へ急いだ。



ゴールの神戸市役所南側、東遊園地は、明日「震災から16年 阪神淡路大震災1.17の集い」が開かれるメイン会場になる。地下室に亡くなった人の名前が刻まれている復興のモニュメントへ行ってみた、関係者なのだろう、刻まれた名前の前でじっと佇む人、名前にそっと手をやる人、そこは鎮魂の静けさが漂っていた。




●365日、消えることなく灯り続けている希望の灯かりへも行った。ここでもうれしい出会いがあった。17日のイベントを中心的にサポートしているNPOの初代理事長で、いまなお中心的な存在でいる友人のSさんに会った。あの震災で大学生だった息子さんを亡くしたSさんは、定年退職後、被災者の心の復活のためNPOを立ち上げ、神戸に限らず、国内外の震災にかけつけ心のケアに生涯を捧げている。

久しぶりの再会。




6年前のあの日、ウォーキング倶楽部で半年間折り続けた千羽鶴6433羽を希望の灯かり前でSさんに届けたことを懐かしく思い出した。はるかのひまわり活動もSさんのNPOが中心でやっている。

最後に震災記念日のメイン会場をのぞいてみたら、すでに多くのボランティアたちが明日のため竹筒で1.17の文字にして、水を入れる作業をしていた。多くの男子中、高校生が寒さの中を一生懸命に動いているのを見ながら手伝いもせず会場をあとにした。

公園北側、MARINA像の時計は、あの日から16年間も5時46分を指したまま。



公園を出るころ日も隠れ、寒風に冷えた体を温めたくてJR三ノ宮駅前のホテルでコーヒーを飲みながら楽しいひとときを過ごして解散した。ほんとうに寒い中をよく歩いた。

2002年に立ち上げたW倶楽部もついに10年目になり開催してきた例会は100回を越えた。みんなの手作りで例会を運営してきたからこそ、ここまで続けることができたので一人ではとてもできないこと、最近、とくに入会希望が多くなったので抑えてきた会員を増やすことにした。


震災記念日前日に神戸を歩いて。

2011-01-16 23:43:03 | ウォーキング
阪神淡路大震災16年記念日の一日前を

お世話をしているウォーキング倶楽部の

1月例会で神戸を須磨から三宮まで歩いた

全国的な寒波、暖かい地方まで雪便りなのに

寒さは厳しかったが雪にもあわず

参加者全員が最後まで歩き切って

それぞれの神戸を見て感じてきた。

改めて書くことにして今日はこれくらいで。

行こうか止めておこうか・・・?

2011-01-07 23:54:23 | ウォーキング
明日はお天気がいいらしいので

予定しているお伊勢さんウォークに

行きたいと思って用意はしたものの


年末からずっと血圧が高くて

どうしたものかと結論が出せないまま

日が変わるこんな時間まで起きている


明日の朝、時間通りに目が覚めた時の

状態を見てから判断することにして

もう寝よう。


これまでこんな短いブログは

記憶にないがたまにはいい

ことしのキャッチフレーズは

70点でいこう!

それでもええじゃないか!

初歩き、大阪城公園。

2011-01-02 22:31:00 | ウォーキング
正月二日はお決まりの箱根大学駅伝をテレビ観戦、去年、一昨年
、東海道五十三次で歩いたところが駅伝のコースに出てきてなつ
かしくて、あっ、あれ見た!あそこで休憩した!

最初はそのたびにへえー、とか、ふーん、とか相づちを打っては
付き合ってくれていた家内もいつのまにかいなくなった、それで
も一人でテレビを占領して話しかけ続けた。

戸塚から藤沢市に入る遊行寺坂、往路は下りだか、明日の復路は
上りになる。あの坂も東海道五十三次歩きの思い出になっている
思わずテレビの前に乗り出して見ていた。
芦ノ湖の赤い鳥居からゴールまでのコースが特になつかしかった。

選手たちの頑張りをもらい張り切って2011年の初歩きに大阪
城へ向かった。曇り空で風は冷たかったが大阪城は大変な人出、
外国人が目立つ、珍しいのだろうかやたらと天守閣を背景に写真
を撮る人が多くみられた。



桜門正面の巨石「蛸石」平面積36畳敷。


さまざまなイベント、南京玉すだれ熱演のおじさん、おばさん。


遠くから眺める天守閣も、近くで見る天守閣も自分にはパワーの素、
よし、やろう!この言葉が自然に出てくるのだからやっぱり太閤殿
下のパワーはすごい。


大阪城に行くと忘れないように訪れるところが一か所ある
天守閣に近い公園内の奥まった石垣のそばにひっそりとたたずむ
「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の碑にお参りすることにしている。
通行路から少し離れただけなのに、ここを訪ねる人影はほとんど
ないのがさびしい。


今年は大河ドラマで浅井家三姉妹「江」が始まる、徳川、豊臣に
嫁いで戦乱の具にされてしまう運命を背負う三姉妹、どんなドラマ
になるのか、今日は特別な思いでお参りした。

極楽門から西へ大阪城一番のお気に入りスポット、内濠北側から。


京橋口を出て内濠西側を行くと乾櫓へ。


ビジネスパークが見える。


南外濠。広大な大阪城公園を一周して初歩きを終えた。


毎年、初歩きで一年間の自分の気持ちを決意にする「キャッチフ
レーズ」と「漢字」を決めているが、年末にいくつか練った案から
歩きながら次のように決めた。

2011年の決意を示す漢字は「脱」と「創」のセット

日々の行動ルールをキャッチフレーズにして「70点でいこう!」

自分に残された時間は限られていると思うので人と同じことをした
り、去年と同じことをしていては面白くない。戒めのためにも決定
した二つのことはA4用紙に書き出して仕事場に張り出し、勉強会
ではみんなの前で発表する、これが長く続けてきた年頭のお決ま
りごと、これで初歩きの行事も無事に完了した。

あとは一歩踏み出すだけ!

龍馬の足跡たどって師走の京の町へ。

2010-12-05 22:40:39 | ウォーキング
昨日までの寒さから一変して朝から快晴で暖かかった
ウオーキング倶楽部の恒例の納会ウォークで京都へ行った

あわただしい12月、せめて半日のゆっくりコースにと
12時半に京都駅集合、テレビで先週に終了したばかりの
「龍馬伝」にちなんで龍馬の足跡をたどるウォークにした

ごった返している駅からいきなりウオーキングの開始
西本願寺へ寄って五条通りを五条大橋手前まで歩いた

高瀬川にそって四条、三条、御池通りを少し上がった所まで
師走とは思えない暖かな日差しの中を足取り軽くすすむ

高瀬川にそって古高俊太郎寓居跡、土佐藩邸跡、土佐稲荷神社
先週のテレビの最終回、龍馬と中岡慎太郎が襲撃された場面の
近江屋跡を訪ねた

意外やメンバーのほとんどがコースの龍馬の足跡を知らない
という、まあそんなもんかなあ

近江屋に移る1ケ月前まで龍馬がいた酢屋からさらに高瀬川を
上がって行き武市瑞山、桂小五郎の像、小五郎と後に妻となった
幾松のいた寓居跡、現在も料亭幾松として営業している

もとに戻り三条大橋を渡り加茂川の遊歩道を下って四条から
祇園花見小路、建仁寺を訪ねて最後は龍馬の眠る霊山墓地と
歴史記念館へ向かった

時間が足らなくなって歴史館へは入れなかったが予定していた
以上のコースをみんなよく歩いてくれて健脚ぶりを示した

高台寺横から西山に沈む太陽と八坂の塔の見事な日没風景は
おまけ、素敵な京都からのプレゼントだった。

コーヒーミーティングの後はJRと京阪電車組にわかれ解散した。

(写真は後日挿入)

かぐや姫と京都・西山の里を紅葉めぐり!

2010-11-23 22:36:20 | ウォーキング
お世話をしているウォーキング倶楽部の月例会で京都の
西山(洛西)へ行った

9時半にJR向日町駅に10名が集合、昨夜からの雨は
上がったが気温は低く風が冷たい
あわててマスクをしたが咳は相変わらず止まらない
メンバーにうつしてはいけない、大丈夫かなあ

リーダーを囲んで駅前ストレッチをして今日を担当する
女性のみやちゃんから資料を渡され下見した彼女を先導
に出発、今日は新入りのお試し参加者があり楽しみ

コースの前半はきれいに整備された竹林の道を上り下り
しながらフリーウォーク、この地は「かぐや姫」伝説の
発祥の地と言われるだけにきれいに整備された竹林の径
は土で足に優しくてとても歩きやすい



竹林の中に突然現れた古墳(寺戸大塚古墳)



桓武天皇皇后稜



元稲荷古墳公園で昼食、ビニールシートを敷いてみんなで
にぎやかな食事時間は楽しい、来月の例会、特別例会の
予定も決定して午後のコースへ向かった

午後からはかって日本の中心が一時期あった「長岡宮跡」
を訪ねる



いま奈良の遷都1300年祭は終盤だが、その平城京から
784年に桓武天皇によって遷都されたのが長岡京である
ことはよく知られている



ただその遺跡はほとんど残されておらず大極殿跡はわずか
公園として整備されいまは記念碑だけが建てられている



その長岡京は794年に平安京へ移されたのでわずか10
年間の都だった
それも桓武天皇と遷都に尽くした藤原種継が795年に暗殺
されたが、それに桓武天皇の弟、早良親王が加わっていたと
疑いがかけられ親王は乙訓寺(後ほど説明)に幽閉された後
流罪として淡路島へ護送中に亡くなった

その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病、悪疫の流行等
が続き怨霊のたたりと都を恐怖に陥れたために長岡京から
平安京へ移ることになった

W倶楽部の9月例会で平城宮跡を訪ねていたので今日の長岡宮
跡の訪問は1300年前の歴史の流れを思うと感慨深いもの
があった

集落の小道をたどりながら聖徳太子が創建した乙訓寺へ急いだ
山門前に「弘法大師ゆかりの寺」と大きな石碑が建っているが
怨霊のたたり説が続くのを鎮めるために嵯峨天皇が弘法大師に
期待してここに任じたとつたえられている
また弘法大師と伝教大師(最澄)が出会い仏教を伝授しあった
お寺だというのだから驚いた



弘法大師と客殿


弘法大師が中国から持ち帰ってきたみかんの木を植えた


乙訓寺から歩いて35分、最後は紅葉で有名な光明寺へ、一番の
楽しみだったが期待していた以上に見事な紅葉で迎えてくれた
それにしても大変な人で広い境内は人並みが続いていた
説明より写真で!

法然さんに迎えられて







わが倶楽部の元お嬢様たちも紅葉に酔ったのか赤く染まっていた



帰り途に長岡天神へ寄って阪急向日町駅前の喫茶店でゆっくりと
ティータイム、そして阪急とJRに分かれて戻ってきた



お試しさんも元気に歩いてくれたのでほっとした。


ご近所さんにも少しずつ秋の彩り!

2010-11-07 18:09:47 | ウォーキング
お天気もよさそうだったのでご近所にある服部緑地公園へ
のんびりウオーキングに出かけた

ここはマイウォーキングコースだがもっぱらナイトだから
休日以外に昼間はあまり歩かない

夜にはわからない季節の変化が昼間ならはっきりとわかる
いつも歩いている道も徐々に黄色く染まり始めて秋の彩り
が始まってきた

ここは駅からまっすぐに公園に続く遊歩道


右側手前には駿台予備校があり昼間は予備校生が測道の
木陰で弁当を食べたり教科書を広げている姿が見られる


噴水広場、子どもとよく遊んだ、凧揚げしたなあ・・・


おしゃれおばあちゃん


コスモスおじさん


今日は恒例のガレージセールの日、植木市もやっている
甲子園球場の33倍の広大な公園を歩いてレストハウスで昼食


公園を出て竹林の道、この周辺はタケノコの産地


昼を少し回って駅ビルに戻ってくると年配のウォーカーさん
たちが歩き終えたのかグループでわいわいがやがや

ここはW協会のイヤーラウンドコースの出発・ゴール地点で
平日でもウォーカーさんたちグループが集合場所にしている

なじみの喫茶店に入って休憩と京都検定の勉強でもと思ったが
おばちゃんウォーカーさんたちのおしゃべりはとても勉強を
させてくれない

さつさと退散してそのまま電車に乗って買い物へ・・・
明日から三日間、若者たちと勉強会がある

70歳の男の顔じゃ申し訳ないし化粧で化けるわけにもいかず
せめて顔以外で新鮮さを!とネクタイを求めることにして
写真のような三本を買ってきた

ネクタイはベテラン女性の販売員に任せることにしている
自分の好みを外すことが新鮮さを演ずる秘訣だと思う
自分が選べば好みの狭い規格内でくすぶるだけだから
黒・紺・グレーと茶のスーツに合わせて
写真では色合いが出ていないので残念だが気に入った。


万博公園のコスモスフェスタへ行ってきた。

2010-10-23 22:31:12 | ウォーキング
奈良の吉野・金峯山寺の金剛蔵王権現像特別ご開帳に行くつもりだったが、すっかり寝坊してしまったので、午前中は大リーグのヤンキース、レンジャーズ線を見て、午後から万博記念公園の秋のイベント、コスモスフェスタに行った。




あいにくの曇り空だったが、公園は大勢の人でにぎわっていた。
目的のコスモスフェスタが開催されている「花の丘」は公園内の西エリア、太陽の塔から1キロほどの位置にあり、そこに行く道はかって各国のパビリオンがあったところ、最初にフランス館の跡地、それからドイツ館、アメリカ館、オーストラリア館と続く、当時のパビリオンのカラー写真が記念碑に紹介されていてなつかしい。とくにアポロが月から持ち帰った石の展示を見たくて数時間も待ったアメリカ館のイメージは40年たったいまも鮮明に覚えているが、あたりはすっかり大きな木々が茂る森になっていて当時の面影はどこにもない。

 


 
花の丘は予想していた通り大変な人、ここのコスモスは、大輪のセンセーション、筒状の花びらが特徴のシーシェル、黄色の花びらのイエローキャンバスなど8品種で約30万本が甲子園のグランドくらいの広大なスペースに植えられていて風に濃紅色やピンク、白の可憐な花が丘一面に揺れる光景はすばらしい。




とくにイエローキャンパスは大人気、奈良の明日香でも黄色のコスモスの群生をみたことがあるがこちらのほうが広い。それに季節外れ?のひまわりがコスモスと一緒に咲いているのが面白い。




少しでも晴れ間が戻れば写真もきれいに撮れると時間待ちをしたがかなわず、公園の東にある日本庭園をめざして園内を回り道しながらウオーキングして日本庭園に入った。ここの庭園の紅葉はすばらしいのだがそれには一カ月余り早い。



日本庭園の正面にあるバラ園に入ってしばしバラのデジカメ撮影





そこからは万博のシンボル、太陽の塔の背中は黒い太陽の顔、その顔を目指してウォーキング。




今年も三度目の太陽の塔だが秋の太陽の塔は静かにたたずむ仏像のように見えた。




約16000歩、ウォーキングには物足らなかったがたまにはいいか。

大阪ウォーク2010に参加。(10日)

2010-10-11 17:44:29 | ウォーキング
きのう10日、水と歴史の都-大阪ウォーク2010(ツーデー)の二日目にお世話をしているウォーキング倶楽部の例会として参加した。日ごろの歩力を試してみるのも狙いで各自が歩きたいコースを選んで参加のためスタート、ゴール時間が違う、お互いに状況を連絡しながらゴールで合流することにした。



スタートは大阪城公園太陽の広場、参加メンバーの大半が19キロコース、おなじみのゼッケンにメッセージを書き込んで整列、残念ながらムーンスターのゼッケンではなかった。真ん中のランドセルの左足の靴にきらりと光るムーンスター!オフィシャルブロガーはここまでやらないと!?



9時、スポーツジャーナリストでマラソンの増田明美さんに励まされて出発。



大阪城を出て森ノ宮の交差点を南下、最初の見どころポイントは「玉造稲荷神社」、伊勢参りの伊勢街道出発点になっている神社でここは知人が近くにいたので昔からなじみの所、神社の階段下でたった一人案内していたスタッフがかって所属していた歩け協会で顔なじみだった方、なつかしい、声をかけあって別れた。この後もスタッフとして通りで案内していた昔なつかしい人たちと再会ができた。





さらに南下して小高い丘の真田山へ、ここには三光神社があり新年には大阪七福神めぐりで必ず訪れているおなじみの神社、境内には1614年の大阪夏の陣で豊臣方の武将、真田幸村がここから大阪城につながる秘密の地下道をつくり出入り口としたという「真田の抜け穴」と呼ばれる抜け穴があり、真田幸村の像もたっている。




JR環状線をくぐり東へ方角を変えてすすむ、古い商店や住宅の続く狭い通りをウォーカー達が列になってすすむ。今日はわが倶楽部に2回目参加の新人女性メンバー・Mさんのサポートをして歩くので他のメンバーは先に行った。

このあたりは奈良へ向かう暗越奈良街道、伊勢本街道でもある。ところどころにその石碑がある、近々、伊勢街道歩きをスタートするので再び来る道を確認しながら歩く。



東成区に入り熊野大神宮前から南へ向かう、今里から小路の商店街を歩いていると雨が降ってきた、しばらくすると止んだが蒸し暑さで汗ふきが忙しくなった。

Mさんはなかなかの聞き上手、会話もきちんとできるので歩きも楽しい、このあたりまでくるとウォーカーは長い列になって歩きやすくなった。

車いすで歩きを見ていたおばあさんが、“みんな元気に歩いてや!”と声をかけてくれた。
“お母さんの分まで歩きますからね!”と声をかけたら、“気をつけてな!”
と手を振ってくれた。

巽北の交差点を右折、放出街道を西へ四天王寺をめざす。行列の先頭を歩いていたら後ろからさっそうと追い越していく子供がいた。??風船片手にスーイスイ、身軽な子やな?!

それがあっという間に先へ行く、こいつやる!ゼッケンには19キロコースと書いている、ゼッケンの名前を呼んで話しかけた。10歳くらいの男の子、一緒に来たお父さんは後方にいるとのこと、どんどん行くその子を目標?にして歩いたがうまく信号で止められてとうとう見失ってしまった。
10歳?対70歳、完敗! あのチビ野郎!



交差点で自転車を降りて我々を見ていたご婦人に声をかけられた。そして自転車を押しながらいろいろ聞いてきた、どうやらこのウォーキング大会に興味があるらしい、申し込み方法まで聞いてきた、5分、いやもっとかもしれないが、その人のペースで歩いて、ここで失礼と小道へ入って行った。

その人がいなくなって気がついた、前に誰もいない、振り返るとはるか後ろに一人?
行き過ぎている!地図で確認、約70メートほども行き過ぎている。引返しはじめたら続いて来ている人が結構いた、事情を話すとみな、次を左折すれば合流するからそっちへすすもうということで逆について行くことになった。あの自転車のおばさんにつきあい過ぎたかな?
誰にでも声を掛ける代わりに、誰からでも声をかけられるのでこんなことになってしまう。

弁当を買って昼食をどこでするか・・・先を行くメンバーに携帯電話、メールを入れるが反応がない、少しペースを上げて四天王寺へ急ぐ。新人のMさんもよく歩いてくれて心配はない。会社の話し、仕事の話、物流会社で商品管理をしているというので売れ筋商品や秋からの商戦について質問ぜめをしたがきちんと回答が戻ってくる、仕事ができるな!そんなことを勝手に思いながらすすんだ。

“歩ける喜びがわかった!”Mさんがそんなことをポツリと言った。
“Mちゃんは心のセンスがいいねえ”と言ったらうれしそうにしていた。

聖徳太子が593年に建立した日本仏法最初の官寺、四天王寺へ着いた、境内は日曜市のような催しで大変な人、古本市には興味があったがパス。次の天王寺公園へ急いだ、通天閣が見えて来た、逢坂を超えると上町台地へ、ここからゴールの大阪城へ北上して行く。




大阪夏の陣で戦死した真田幸村の墓がある安居神社へ寄り愛染神社へ通ずる愛染坂を上って行く、この坂まで来ると新人のMさんの足が止まってきた。
大丈夫というが顔をみればわかる、上り坂になると歩力の差がはっきりと出てくる、途中で休んでいる人がかなりいた。清水坂下を通り織田作之助の文学碑のある口縄坂を下りる、このあたり上町台地はかって文人の歩いた道で大阪文学歴史散歩のコースとしても知られている。上町台地の下が現在の大阪市の中心地だが大昔は海だった。




先発の二人からやっと連絡が入り生玉神社横のチェックポイント・生玉公園に着いたので昼食にするという、急いでそちらへ合流した。すでにリーダーのちゅうさんがゴールしたと連絡が入っていたので待たせるわけにはいかない、あわてて昼食を済ませてペースを上げて残り約4キロを本気歩き?を続けて先にゴールしたメンバーの待つ大阪城公園太陽の広場へゴール、全員が合流した。



せっかくだからムーンスターのブースへメンバーを案内した。担当者が、こちらのことを知ってくれているのでありがたい、気軽に会話が出来て楽しかった。会場を出てビジネスパークへ移動、お互いの完歩にビールで乾杯!次回は11月後半、京都郊外で紅葉例会、それまでも何か所も畿内のツーデーがあるし各機関の例会や個人の計画もあるので足は忙しい。