12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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残日録

2007年06月02日 06時49分38秒 | Weblog

今回の題は、藤沢周平氏の「三屋清左衛門 残日録」から頂戴した。

この小説は、15の短編から出来ており、その最初の短編「醜女」から一部引用する。

残日録というのは、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」の意味で、
”残る日を数えようというわけではない”と清左衛門に言わせている。

五十二歳で清左衛門は、隠居している。

(人生五十年の時代であろうから、早くもない隠居なのであろう、また、長男夫婦に扶養されている、しかし、妻はその三年前に他界している。)

仕事上の心残りも余分な感傷の類も一切なかったつもりの、悠々自適の暮らしを期待して、心ときめいての隠居であった。

恵まれたことに、隠居前の大きい屋敷に住め、隠居部屋をその屋敷内に藩主の好意の賜り物として建ててもらっている。

 しかし、隠居の開放感とは全く逆に、世間から隔絶された自閉的な感情となり、更には、気持ちの萎縮となったのである。 

そして、寂寥感・逼塞感が、この隠居部屋にまでも訪れてきた。

 隠居とは、世の中から一歩しりぞくことと軽く考えた節がある、
ところが実際には、それまでの生き方、
平たく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのである。

世間とはこれまでにくらべてややひかえめながらまだまだ対等につき合うつもりでいたのに、
世間のほうが突然に清左衛門を隔ててしまったようだ。

多忙で気骨の折れる勤めの日々、ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた。

その異様なほどの空白感が、奇妙な気分の原因にちがいないと清左衛門は納得したのである。

その空白感は何かべつのもので、それと言えば新しい暮らしと習慣で埋めて行くしかないことも理解できた。

うかうかと散歩に日を過ごすわけにもいかぬらしいと、清左衛門は思ったのである。

「ただ、隠居というのは、考えていたようなものじゃない」

「・・・確かにのんびり出来るが、やることが何もないというのも奇妙なものでな、しばらくとまどう」と言わせている。

 「過ぎたるはおよばざるが如しだ。

やることがないと、不思議なほどに気持ちが萎縮して来る。・・・ともかく平常心にもどるまでしばらくかかった」とも言わせている。

実にうまく定年後の気持ちを代弁している。

文武両道、剣にもそれなりの技量を備え、竹馬の友に恵まれ、「よく出来た嫁だ」わしの目に狂いはなかったと清左衛門が思う嫁にも恵まれ、

こんななかで、しっかり・しゃっきり者の隠居が、次々と事件を解決していくのである。

これこそ隠居の鏡、我々の願望を時代を変えて具現化しており、真に痛快である。

更に、隠居特有の欲・得を超越した誠意と人情をたっぷり添えて楽しませてくれるのである。

小生もかくありたいと思うのであるが、文武両道全く駄目・竹馬の友なし・・・、到底実現の見込みは無い、欲・得・見栄を超越した誠意と人情にも程遠い。

小生が、清左衛門に勝るのは、「小遣いを嫁から貰う扶養家族」ではなく、
「年金を自由裁量で消費できる独立隠居」唯一この一点のみである。

年金隠居万歳である。