おはようございます。
昭和の鉄道写真いよいよ、あと今日を入れて4回となりました。
どうにか写真を並べました。
懐かしいと言いながらブログ13年が、過ぎていきました。(2007.6.26.)
京阪電車も流線形の1000形や木造車が走っていた線路が、今では
アルミやステンレスの軽量車が、走っています。
私が運転士になったころ昭和40年8月ごろの車両は1両40トンぐらい
ありました。
今でも子供さんが、電車ごっごして遊んでるときはゴトン・ゴトンと
行って遊んでいますが、そのころのレールは25m~50mくらいの
レールだったのでジョイントでゴトン・ゴトンが電車ごっこの音です。
コロナウィルス少し静かになってきましたねぇ!
でもたくさんの方が、無くなられてしまいました。
皆様もお気をつけて頑張りましょう。
2200系
(1)2200系 寝屋川市ー香里園間
(2)2209 寝屋川車庫 京阪で初めてスカートが付いた電車です。
(3)2209 八幡市ー淀間
(4)2210 五条駅
(5)2210 古川橋駅
(6)2210 淀―中書島間
(7)2211 墨染駅
(8)2217 古川橋駅
(9)2216 古川橋駅
(10)2218 墨染駅
(11)2223 寝屋川車庫
(12)2224 淀―中書島間
(13)2225 寝屋川市ー香里園間
(14)2257 淀―中書島間
(15)2257 古川橋―大和田間
(16)2257 森小路駅
(17)2259 古川橋―大和田間
(18)2259 森小路駅
(19)2258 森小路駅
(20)2260 五条駅
(21)2260 五条―四条間
(22)2260 森小路―千林間
(23)2260 古川橋―大和田間
(24)2261 森小路駅
(25)2261 森小路駅
(26)2261 古川橋―大和田間
(27)2263・2265 八幡市ー淀間
(28)2262 寝屋川市ー香里園間
(29)2261 森小路駅
(30)2262 古川橋―大和田間
(31)2263 五条―四条間
(32)2276 森小路駅
(33)2263 森小路駅
(34)2264 五条―四条間
(35)2264 森小路駅
(36)2264森小路
(37)2265 古川橋―大和田間
(38)2269 古川橋―大和田間
(39)2269 森小路
(40)2270 藤森―深草間
(41)2270 森小路
(42)2273 森小路
(43)2273 寝屋川市ー香里園間
(44)2273 淀―中書島間
(45)2274 森小路
(46)2274 森小路―千林間
(47)2274 淀―中書島間
(48)2274 五条―四条間
(49)2275 淀―中書島
(50)2275
(51)2276 古川橋―大和田間
(52)2276 森小路
2400系
関西私鉄通勤車に初めて冷房装置が、付きました。
(53)2453 古川橋駅
(54)2456 森小路駅
(55)2456 寝屋川市ー香里園間
(56)2461 寝屋川市ー香里園間
(57)2461 森小路駅
(58)2461 五条―四条間
(59)2461 森小路
(60)2462 墨染駅
(61)2452 寝屋川市ー香里園間
(62)2462 森小路
(63)2463 寝屋川市ー香里園間
(64)2463 森小路
(65)2463 森小路
(66)2463 森小路
(67)2464 五条―四条間
(68)2464 五条駅
(69)2465 森小路
(70)2465 古川橋駅
(71)2465 枚方市行き区間急行 女学生専用車 森小路
(72)2466 五条―四条間
(73)2466 五条―四条間
(74)2466 森小路
(75)2466 森小路
(76)2550形 寝屋川車庫
次回は3000系を予定しています。
ここからは白黒写真は付録です。
(1) 518 ダラマ川上手曲線 S38.2.
500形の2連普通列車 今では考えられない編成です。
地方のローカル鉄道見たいですねぇ
この土手の下、私が寝屋川北小学校(昭和27年ごろ)に通っていたころは
土汽車が、成田不動さんのほうから淀川の堤防まで土を運んでいました。
でも土汽車の写真は一枚も残っていません。
(2)1104 ダラマ川上手曲線 S38.2.
(3)1010車番に注目下さい。この後すぐに切る抜き車番を付けました。 S38.2.
(4)1304 ダラマ川上手曲線 S38.2.
(5)1804 森小路 S38.2.
(6)1106 編成は京都方から 1100+1500+500+1600+1106 S38.2.
(7) 1702 森小路駅柵なし S38.2.
(8) 1806 森小路駅 柵なし S38.2. 回送板は前だけでした。
この頃森小路のホームには柵がありませんでした。
階段の横だけに5mほど手すりがついていました。
(9)2004 ダラマ川上手曲線S38.2.
(10)2014 この頃の天満橋ー枚方市間区間急行所要時間27分30秒
なお同じ区間、急行は7駅止まらずで24分でした。
(11) 2024 ダラマ川上手曲線 S38.2.
白黒写真(1)の土汽車が走っていたのは2024の下のトンネルです。
(12) 2029 森小路駅 S38.2.
私は昭和40年8月に運転士になりましたが、一度だって森小路駅の
A線(急行線)には停車したことはありませんでした。
(13)2030 森小路駅 S38.2.
(13)2043 森小路駅 S38.2.
(14) 2044 森小路駅 柵なし S38.2.
沢山写真見ていただきありがとうございます。
今見て思うのはもう少し落ち着いて撮影したらよかったと思います。
次回は6月25日京津線の写真最後です。
2月までこの場所に家内(鉄婆)の写真を見てもらっていましたが、
軽い脳梗塞を患い鉄ちゃんが出来なくなってしまいました。
車椅子での撮影でしたが、皆様辛抱して見ていただきありがとう
ございました。
その間家内はブログに出す写真をいろいろ考えて楽しそうでした。
家内とはドライブ旅行に九州・北海道・紀伊半島と楽しみました。
時には私の母親や家内の両親を連れて遊びに出かけました。
いろいろの思い出が、走馬灯のように見えてきました。
あと3回見て下さい。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
2200系・2400系発電ブレーキと2000系の回生ブレーキとの違いは難しいなぁ!
●発電ブレーキはモーターで走行した電車をこのモーターを発電機にして電気を起こしその電気を抵抗器で熱に変えてブレーキにします。
〇回生ブレーキは電車の速度を電力に変えてその電力を電車線に返し、その列車近辺に走っている列車が、力行用として電気を使って走行に使います。
そのために回生ブレーキを掛けるときには電力を使う電車が近くにいると消費してくれますが、近くにいない時は、電車線電力(京阪の時は当時600V )以上になってしまいますとオーバーロードして空制だけになってしまいます。そのオーバーロードするときにショックがありました。
私・鉄道電機として教習所で習ったのは1965年です。
何もかも忘れてしまっています。
特に2000系は弱界磁制御と教えてもらいましたが、今でもなんのこっちゃわかりません。
上記の答えもわかっていませんので、ご了解ください。
堪忍でっせ
よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
私は大阪市内西区土佐堀通5丁目で生まれました。
大阪船場の西側です。
親父はメリヤスを商売としていました。
縫製工場を福島区に2軒ありました。
昭和15年(1940)生まれで裏には大阪市電が走っていました。
小学校は西船場小学校に入学しましたが、2年生の時疎開先の寝屋川北小学校に転向6年生の夏休みにまた西船場小学校に転向・西区の花乃井中学に入学親父がなくなり八幡組合立男山中学に転向
昭和35年(1960)に京阪電車に入社・昭和40年(1965)2月運転士科の教習所に入所、学科試験受験卒業・運転士見習を受け8月12日無事卒業運転士に任命されました。
大好きな運転士に慣れたので仕事に行くのにいややと思ったことはありませんでした。
私は前にも書きましたが、車掌を経験していませんでしたのでいろいろありましたが、楽しかったです。
昭和58年(1983)4月に乗務助役・昭和58.年11月天満橋操車運転助役・昭和61年(1986)4月寝屋川列車区、列車助役・昭和62年(1987)1月京橋駅操車助役・昭和63年(1988)7月淀駅操車助役・平成2年(1990)4月寝屋川信号所操車助役・平成5年(1993)7月枚方市首席助役・平成5年11月中書島首席助役・平成7年(1995)7月 運輸部運転課首席助役・平成12年(2000)9月30日定年退職 これが私の経歴です。
結婚は昭和42年2月(1967)で金婚式は(2017)で結婚53年です。
家内の友人から好きなことを仕事にして幸せですねぇ!と言われたこともあります。
何よりもうれしかった私の半生でした。
後半は家内の病気で苦労しましたが、良い人生でした。
私自身も鉄道写真を撮るのに北海道から九州まで自由に旅行させていただきましたので皆様とお友達になることが出来ました。
後しばらく健康に気を付けて楽しみます。
ありがとうございました。
あと3回楽しみます。
素晴らしい写真ありがとうございます。
幼少の頃、2000系〜2400系の区別はつかなかったのですが、昭和53年に小学館の「私鉄全百科」で京阪の各形式を知ることができました。
流線型の1000型は何の本か忘れましたが、過去の京阪を扱った書籍で知りました。一両でも保存できなかったのかなあと思います。旧国鉄のモハ52や阪急京都線(昔は京阪でしたね)のP6と並ぶ戦前生まれの名車だと思います。
でも、お迎えも足回りを活かして700系に生まれ変わり、今は1000系として走っているのでよしとするべきでしょうか。
好きなことを仕事にされてうらやましいです。私は京阪電鉄への就職を希望し、毎年採用実績のある高校へ進んだのですが、近視と色弱のため資格なしと学校に判断され断念しました。私は運転士よりも車掌に憧れていました。今でも月に数回、車掌をしている夢を見ます。
連続で投稿します。
質問です。運行標識板ですが、よく車掌さんが取り付けたり、向きを、表裏変えるのを見ましたが、先頭車の標識板は運転士さんが変えておられたのでしょうか。
運行標識板は京阪のものが一番美しいと思います。特に丸の赤い急行の板が好きでした。区間急行は昔は単に「急」でしたが、誤乗はなかったのでしょうか。急行の丸板に対して区間急行は四角なので乗客はわかったのか、暗黙の了解だったのか謎です。その後「区急」表示に変わったようですが。
古い写真を見ると淀屋橋延長以前は大阪方面天満橋行きは単に「大阪」と書かれていたようですね。京津線も三条行きは「京都」と書かれていたり。昔は天満橋、三条などの駅名は沿線の人々に馴染みがなかったのでしょうか。
コメントありがとうございます。2通分一緒に返答します。
おっしゃる通り+古い車両の保存をしてほしかったですねぇ!
1000系(ロマンスカー)1100系・1200系・1500系はロングシートでした。
1000系と1100系は流線形運転台は三角形・車掌代も三角形でした。反対側運転台は運転台・車掌代とも四角形でした。でも私が運転士になったころには運転台器具は取り外してありました。
1200系は両方とも運転台がついていましたが、1500形は運転台器具はありませんでした。
運行標識版の件はお察しの通りです。
普通は担当してきた運転士・車掌が交換しますが、着発で時間がないときなどは協力して好感しました。
また標識灯の切り替えもやっていました。
先頭車は白色灯1灯(急行・準急・回送)白色灯2灯は特急でした。列車の後方は赤色灯2灯です。
今は標識類が高額で売買されていますので夜間や早朝に盗難にあっていました。
標識については鉄道会社各社で決められたのですが、京阪の場合は区間急行とは京橋―守口市のB線(普通線)に止まらない列車が区間急行で、準急は京橋―萱島間の普通線を止まらない列車が準急列車でした。
コメントありがとうございます。
2400系冷房車の屋根がものすごく大きく感じました。
家庭用冷房機を付けたようでした。
そのあと冷房改造車についてはデザインを考えてスマートに見えるように苦心した様子が、見えましたねぇ!
初めのころ運転室窓を閉めて走行していましたが、慣れてきて運転室窓を少し開けてあると、室内空気が運転室の窓から外へ流れて行って涼しかったことを、思い出しました。
でも鼻毛が伸びるのが早かったです。
またコメントお願いします。
ありがとうございました。