自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

文字とブナ

2014年11月12日 | Weblog

 家に居る間はPCで囲碁を打っている以外は手当たりしだいに本を斜め読みしている。木に関する本が多い。
 昔々、ドイツ人やイギリス人の祖先ゲルマン民族やフランス人の先住民族ケルト人は文字を知らなかった。
 紀元直後の頃、アルプスの南から文字の存在を知ったらしく、24個のルーネ文字を作った。鋭い刃物の先で呪文のような記号文字を、滑らかなブナの樹皮や板に引っ掻くようにして記した。だが、ルーネ文字は不便なのでまもなくラテン文字に変わった。
 ところが、「書く」という言葉は残った。鋭い刃物などで「引っ掻く」ことをラテン語でスクリーベレというが、これをそのまま借用したのがドイツ語のシュラィベン(書く)、英語のスクライブ(掻く、書く)、スクリプチャー(文章、聖書)である。
 エジプト産のパピルス紙やギリシャ産の羊皮紙も持たない貧しいゲルマン民族は、もっぱら滑らかなブナの樹皮や板にルーネやラテン文字を引っ掻いて書いた。
 そこで、ドイツ語では「文字・字母」のことを今でも「ブナの枝」(ブーフシュターべ)という。「本・書物」を表す英語のbook、ドイツ語のBuchは、「ブナの木」Bucheの語そのままだとも言える。
 北ヨーロッパの文字文化は、ブナの木とともに始まった。ドイツ人にとっては大切な木なのだ。

 こういう話を読むと、何故か嬉しくなる。僕らの文化というか生活が木ときってもきり離せないということが、とにかく嬉しい。何故かというと、僕は木の味方だからである。

「謙虚と傲慢」

2014年11月11日 | Weblog

 「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである。それに、傲慢は千通りにも変身するとはいえ、この謙虚の外見をまとった時以上にうまく偽装し、まんまと人を騙しとおせることはない。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)

 僕は時々、むきになって直言することがある。
 他人様から見れば傲慢なヤツだと思われていることだろう。
 直言した後、もう少し謙虚な物言いが出来なかったものかと忸怩たる思いをする。
 しかしながら、上の箴言によれば、傲慢が謙虚を装えば騙しになる。それでは、言うべきことがあるとき、どんな態度や言葉遣いで話せばいいのだろうか?
 箴言というものは、物事の一理を鋭く説く言葉である。そこには時代を超えた真実が表現されている場合も多い。気がついた箴言を傾聴していると、身動きがとりにくくなる。
 高ぶってもへりくだっても傲慢の偽装となる。それでは、どうせよ、というのだろうか。謙虚と傲慢という言葉を僕の辞書から無くせばいいのだ。だが、そんなことが出来るはずもない。困ったことだ。

雑木林について

2014年11月10日 | Weblog


 冬枯れの季節に近い雑木林の中は、葉が散って明るい。
 雑木林という名前から連想すると、いろんな木が雑然と立ち並んでいる林と思われがちだが、人の手がかなり加わらないと維持できない空間だそうだ。
 理想的には18~20年に一度、根元から伐採する必要があるのだそうだ。一昨日買い求めた本にそう書いてある。
 昔は伐採した木を薪に使ったり、椎茸のホダ木に使ったり、枝葉は堆肥になったりしたが、だんだんとそういうエネルギーとして使われなくなったため、雑木林が放置されることになった。僕の育った山里の雑木林も荒れ放題になっている。
 雑木林の枝打ちや下草刈りによって、日当たりがよくなり、いろんな植物が芽を吹き出す。枝を払うことで幹はまっすぐに伸びる。人による管理がいきとどいた雑木林は、林床が広々としていて、開放感があるということになる。
 僕が棲んでいる近くにも小さな雑木林があり、時々散歩するとき、この歳になってもやはり開放感を味わう。この開放感はどこに由来するのだろうか。ずっとずっと昔の祖先が森で生活していた、その血が今に至るまで、知らず知らずの間に、受け継がれているからであろうか。

「歩きながら考える」について

2014年11月09日 | Weblog


 古い本を読んだ。笠信太郎『ものの見方について』。1950年刊行のこの本で著者は戦争中、新聞社の特派員としてフランス、ドイツ、イギリス、スイスなどに滞在。それぞれの国民の「ものの見方」を社会、経済、政治と結びつけながら解き明かし、そこから敗戦国日本の生き方の指針を探ろうとしたした本である。
 「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そしてスペイン人は走ってしまった後で考える。」
 これはかなり有名な文章である。この三者の内で著者が望ましいと考えたのは、「歩きながら考える」イギリス人だった。歩きながら考えるとなると、足が地についた考え方ができ、抽象的なことは考え難い。また、歩くこと(実践)と考えること(思索)がバラバラではなく、平行して進む。そして、ひと所に立ちとどまらず、常に考え続けることになる。著者はこんなふうに考えた。僕は、と言って僭越ではあるが、立ちどまって考えることも必要だと思う。が、この思いは著者の考えに織り込み済みであろう。
 ところで、戦後70年、歩くことの意味、歩きながら考えることの意味は健在であろうか。情報社会化の大波は、「歩きながら考える」スタイルを時代遅れにした感がある。しかし、人々の生きている現場を重視する発想が今日求められているのではないだろうか。時代が変遷し、現代にふさわしい歩き方を模索する必要があるとも思う。お上に言われるままの歩き方はよろしくない。お上の歩き方は民を短気にし、あるいはまた弱者を増産するだけだ。

見るという事(再掲)

2014年11月08日 | Weblog

 ボーとしているのが僕の本領なんですが、そのボーが一段落すると、不思議なことなのですが、しばしば教わることに出会います。そこいらにある本の頁をめくっているだけなのですが、ああ、そうだったと気がつくことがあります。
 ポール・ヴァレリーの『ドガに就いて』(吉田健一訳)の一章「見ることと描くこと」の冒頭は概略次のように始まります。鉛筆を持たないまま物を見ているときに目に映っている物の姿と、デッサンしようとして見る物の姿の間には天地雲泥の差がある。普段見慣れている物が、ガラリと様子を変える。物が物の用途から洗われて、物そのものとして目に見え始める。日常の目は、物と私達の間を仲介する役しかつとめていなかったが、いったんデッサンしようと鉛筆を持ちつつ物を見始めたとき、目は意志に支えられた指導権を握る。そして意志して見られた物は、普段見慣れていた物とはすっかり別の物に一変する。
 ヴァレリーの言う通りだと思う。その通りだと普段考えている僕を忘れてしまっている。手に鉛筆をもってデッサンするつもりで見なければ、物の姿は見えないのだ。「見る」は「看る」に通じるのだ。
 そうすると、ちょっと飛躍して考えると、見るという事は看るという事なのだ。看護の一歩手前の看るという事なのだ。そうして、やがて看護される時期が僕にも訪れるのであろう。それまでは見る事、看る事に心がけなければならない。

大根について

2014年11月05日 | Weblog

 僕は野菜の中でも大根が好きだ。煮炊きした琥珀色のブリ大根やオデンの具としての大根も美味いが、塩で軽く味付けした殆ど生の真っ白な大根も美味い。今頃からの時期の大根が美味い。
 かつては辛みのある大根が多かったが、近頃は辛みの少ない青首大根が主流をしめている。原産地は地中海沿岸から中近東で、日本には中国を経て伝わったらしい。
 根にはビタミンC、B群、カリウム、カルシウムなどが含まれる。でんぷんを分解するジアスターゼも含まれ、消化吸収を助ける。辛み成分には胃液の分泌促進、解毒作用があるらしい。
 葉にはカロティン、ビタミンC、B群、ビタミンEが多く含まれているので、捨てないで細かく刻み、炒め煮などにすると美味である。かつて休耕田を借りて野菜作りをしていた頃、大根の葉をよく食したものだ。近頃は葉は手に入らない。
 山里で育った幼少の頃、木組みに高く干された大根の並びを美しいと感じた。その頃の感覚が現在の僕に残っていると思われる。とにかく白い大根が好きなのだ。田舎者のしるしである。

新田次郎 『八甲田山死の彷徨』 (初版1978年)

2014年11月04日 | Weblog


(世界山岳史上最大とも言われる犠牲者を出した、青森県八甲田山における山岳遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材とした山岳小説)

強烈な低気圧が近づき 大暴風雪となった
気温も急降下 行進は無理か
不可能を可能にするのが日本の軍隊だ
「前進!」
少佐は白魔に向かって叫んだ
明治三十五年一月二十三日のことだった

この時期 山は年中でもっとも吹雪く
山々は一斉に鳴り出した
深雪の中を泳ぐような行進
足の指の感覚がなくなった
乱れる隊列
方位磁石の針が固定してしまった
恐るべき寒威

突然 枯れ木のように倒れる兵がいた
疲労凍死
突然 軍服を脱いで裸になる兵がいた
幻視 幻聴 狂死
一夜のうちに三十名が死んだ
その後も死者が絶えなかった
棒のように凍って死んだ
青森第五連隊二百十名のうち生存者十一名
言葉なし

ロシアとの戦争に備えた雪中行軍訓練だった
失敗に終わった訓練
原因のひとつは指揮系統の乱れにあった
行軍計画の不首尾にもあった
弘前第三十一連隊の行軍では死者は出なかった
同じく白魔の真っ只中であったのに

秋は風も

2014年11月03日 | Weblog

 秋というと当然、菊の花や紅葉が連想されるが、秋の風もまたいい。秋の奥行きを深めているのは風だと思う。初秋の爽やかな風から次第に冷ややかな風に移る、その移り行きが秋を深める。
 風に色があると留学生に話したことがある。

   石山の石より白き秋の風(芭蕉)

風についてこんな句を詠めるのは日本人の特質ではないだろうか。色があるからではないが、与謝野晶子に

   おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

という一首がある。風が見えるという感覚をもてばこそ、秋の彩りをより深く味わえるのだと思う。
 風が見えるというのは勿論皮膚感覚ではない。かと言って、視覚でもない。思うに、心象風景だ。だから、「白き秋の風」、「小萩をわたる秋の風見る」などという表現が生まれる。
 こんなことを徒然に思うのは、今朝の起きがけの涼しさに、無機質のパソコンに向かいながらも、秋の心象を抱いているからだろう。

素朴さについて

2014年11月02日 | Weblog

 以前からちょっと気にしていることがある。素朴さとは一体どういう心持ちなのだろう。
 都会人より山里や海辺に住む人の方が素朴に生活されているだろうと推測される。この文脈での素朴さの意味には自然の摂理に逆らわないという側面があるのだろう。
 もう少し一般的に素朴さの意味を探索してみたい。素朴さの積極的な意味は、心を開いてありのままの自分を見せることだと思う。率直さと言い換えてもいい。この意味での素朴さとは、真実への愛、自己を偽ることへの嫌悪、自分の欠点を正直に打ち明けることなど、自他の関係において隠し所の余地がないことだと思う。
 このような意味での素朴さを僕は持ち合わせていない。私的な隠し所を大いに持っている。この歳で我ながらあきれはてたことだと思う。
 素朴さの消極的な意味、それは自然の摂理に逆らわないということであろう。消極的な、と言ったが、この形容詞は当てはまらないとも思う。自他の関係にも自然の摂理というものがあって、その自然の摂理に沿うことが素朴さなのであろう。生身の人間だから、他人に対する好き嫌いの感情を抱くのは自然なことであろう。その好き嫌いの感情を良い悪いの判断に転化してしまうところに、素朴さと対極をなすと考えられるエゴイズムが顔を見せる。
 そうすると、エゴイズムから自己浄化された状態が素朴さということになるのであろうか。素朴さの意味をまだまだ探索しなければならないが、探索すればするほど、僕には縁遠いもののようにも思われる。縁遠いのは死ぬまで、あるいは強度の認知症になるまで、残念ながら続くだろう。
 日頃の自我を少しだけ反省しています。

お茶の効能 (再々掲)

2014年11月01日 | Weblog

 18年前に(一過性の?)病を得てからできるだけ水分を摂るようにと言われ、そのように心がけている。お茶博士を自認する人からお茶の効能についての蘊蓄を聴いた。
 1.美容=ビタミンAと同じ働きをするカロチンとビタミンCが含まれ、カロチンは皮膚や粘膜の細胞の健康維持に役立ち、ビタミンCはメラニン色素の沈着を防ぐ。
 2.老化防止=老化物質の活性酸素の生成を抑えるカテキンが含まれ、ビタミンとの相乗効果で、その作用が高まる。更にアミノ酸の一種テア二ンはアルツハイマー型のボケを抑制する。 
 3.疲労回復とストレス解消=カフェインには疲労回復のほか、強心作用、利尿作用などがあり、またお茶を楽しむ事により気分に潤いをもたらす。
 4.整腸作用=カテキンには腸内のビフィズス菌の増殖を助ける効果がある。
 5.ガンの予防=カテキンには発ガン抑制効果がある。最近の研究では転移を抑える効果もある。
 6.コレステロール値を下げる=カテキンには悪玉コレステロールだけを減少させる効果がある。
 7.血糖値の上昇を抑える=カテキンには血液中の糖濃度を低下させる効果がある。
 その他、風邪の予防など諸々。僕の場合は特には血流をよくする為にお茶をよく飲むことにしている。皆様もお茶をどうぞ。