自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

想像するということ

2014年11月13日 | Weblog

 想像には大別して三種類あるように思う。
 一つは再生的想像。これは過去の体験を思い出す想像で、連想と言ってもよく、経験の支配下にある。
 もう一つは産出的想像。これは過去の体験をもとにする場合もあれば、そうでない場合もある。
 前者の場合の産出的想像は過去の体験に導かれて何らかの新しい事柄を連想する。
 後者の場合の産出的想像は過去の体験に縛られないで、且つ人間の内面の深みから何らかの新しい事柄を想像の上で産出する。秀でた芸術家や科学者にインスピレーションとなって生じるような産出的想像である。
 もう一つの想像は単に空想と呼ばれる想像で、これは誰にでも備わっているが、発揮できるか否かは人による。この第三の想像が昂じると幻想という熱を帯びた想像になる。
 熱を帯びない空想を無為の空想と言うことにする。決して自画自賛する訳でもなく、お勧めする訳でもないが、僕はこの無為の空想をよくする者である。目的がないから熱を帯びることもなく、かといって睡魔に襲われることもなく、ただ何となく空想に浸る。無為だと意識することもない。こういう人も居るであろうか。居ると思う。居るから、抽象画のような、鑑賞者におもねる事が無く、目的意識の無い文化が生まれてきたのだと思う。こういう思いを手前味噌という。手前味噌であって、僕の空想が文化を造るとは断じて思わない。ただ、無為の空想に浸るという事はただ単にいい事だと思う。