自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

島崎藤村(再論)

2014年11月24日 | Weblog

 明治以降の作家で最も大きな作家は島崎藤村だと思う。僕の好みも入っているが、これはかねてよりの僕の持論だ。抒情(『若菜集』)から社会問題(『破壊』『夜明け前』)まで、その一つひとつの作品において完成度が高い。
 どういう意味で高いのか。他の作家との比較は措く。思うに、詩、小説、随筆、紀行にいたるまで、藤村文学の底を流れるのは、回想という方法で人生を歴史の流れにおいて反芻し、凝集している点である。その事が、一方では自我の浪漫的な凝視と顕現となり、他方では自我の求道的な充実と社会的実現となっている。
 この二つの特色が藤村を、山また山の木曽に生いたった農山村の民として生活を営む、腰の坐った実生活者たらしめ、かつ理想主義者たらしめているのだと思う。 昨日一日、藤村をあれこれ読んだ。短文を二つ。

 「屋根の石は、村はずれにある水車小屋の板屋根の上の石でした。この石は自分の載って居る板屋根の上から、毎日毎日水車の廻るのを眺めて居ました。
 「お前さんは毎日動いて居ますね。」
と石が言ひましたら、
 「さういふお前さんは又、毎日坐ったきりですね。」
と水車が答へました。この水車は物を言ふにも、じっとして居ないで、廻りながら返事をして居ました。(「ふるさと」屋根の石と水車より)
 「檜木、椹(さはら)、明檜(あすひ)、槇、ねず---を木曽の方では五木といひまして、さういふ木の生えた森や林があの深い谷間(たにあい)に茂って居るのです。五木とは、五つの主な木を指して言ふのですが、まだその他に栗の木、杉の木、松の木、桂の木、欅の木なぞが生えて居ります。樅の木、栂の木も生えて居ます。それから栃の木も生えています。」(「ふるさと」五木の林より)