ボーとしているのが僕の本領なんですが、そのボーが一段落すると、不思議なことなのですが、しばしば教わることに出会います。そこいらにある本の頁をめくっているだけなのですが、ああ、そうだったと気がつくことがあります。
ポール・ヴァレリーの『ドガに就いて』(吉田健一訳)の一章「見ることと描くこと」の冒頭は概略次のように始まります。鉛筆を持たないまま物を見ているときに目に映っている物の姿と、デッサンしようとして見る物の姿の間には天地雲泥の差がある。普段見慣れている物が、ガラリと様子を変える。物が物の用途から洗われて、物そのものとして目に見え始める。日常の目は、物と私達の間を仲介する役しかつとめていなかったが、いったんデッサンしようと鉛筆を持ちつつ物を見始めたとき、目は意志に支えられた指導権を握る。そして意志して見られた物は、普段見慣れていた物とはすっかり別の物に一変する。
ヴァレリーの言う通りだと思う。その通りだと普段考えている僕を忘れてしまっている。手に鉛筆をもってデッサンするつもりで見なければ、物の姿は見えないのだ。「見る」は「看る」に通じるのだ。
そうすると、ちょっと飛躍して考えると、見るという事は看るという事なのだ。看護の一歩手前の看るという事なのだ。そうして、やがて看護される時期が僕にも訪れるのであろう。それまでは見る事、看る事に心がけなければならない。
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