Baradomo日誌

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小説の読み方

2007-12-04 | よしなしごと
今年度、訳あって吉村昭氏の著作を読み漁ってきた。
自選集は読み終えたけれど、まだまだ読んでいないものが山積。
だって、すんごい執筆量なんだもん。
全部読むのに何年かかるんだろう?ってか、手に入らないものも多いし。
一方、この作家がどういう作家だったのか、という命題を考えるために、関連するその他の作家も読み始め、ここ最近は夏目漱石だ、泉鏡花だ、坪内逍遥だ、川端康成だ、梶井基次郎だ、志賀直哉だと、近代日本の文学史をなぞっている。
その結果、恥ずかしながら、小説の読み方を間違っていた、というか、一面的な読み方しかしてこなかったな、と猛省しているところだ。

小説って面白いもの、なんだけど、どこに面白さを感じるか?
描かれた内容?風景?登場人物?ストーリー?

学生の頃は、そういった要素にばかりこだわり、濫読していたけれど、結局、事実の方が奥深かったり、あるいはスポーツの1試合に凝縮されたその選手の過去の方が感動的だったりする、と痛感し、小説読みを辞めて早10年。

ところが。

吉村氏の初期の短編を読みすすめていくうちに、はたと気付いたことがある。
例えばギタリストにもテクニック志向のギタリストがいるように、小説家にも技巧派というか、丹精な文章を練り上げるタイプ、いわば「文体」の獲得にプライオリティを置いている人たちがいるのではないか?と思い始めた。
それは、描くべき内容を伴わないということではなくて、描くべき対象と読者との距離感を一気に縮める役割を果たすものであって、優れた作家と呼ばれる人はすべからく「○○節」とでも呼ぶべき自分の文体を持っている。
吉村氏もそうした作家だったのではないか?
だからこそ、彼自身をしてこれが自分の本質だという純文学系の短編を書いているその同時期に、緻密な調査に基づく戦史小説や記録小説を書くことが出来たのではないか?
なんらかのテーマ、自己の主張であったり、特定の感情であったり、そういったものを「描く」ことを最優先に考えている作家であれば、そのような両極端な作品を書くことはできまい?
しかし、彼は書いている。
「戦艦武蔵」と同時期に短編「星への旅」を書いているし、「星への旅」の元となった取材は後年「三陸大津波」となった。また、短編「水の葬列」と黒部ダムを扱った「高熱隧道」は対を成す。
それは何故なら、彼が獲得しようとした「吉村節」は対象を選ばない文体だったから。
だからこそ、描くべき対象は「フィクション」でも「ノンフィクション」でもOKだったのではないか?
そんなことを考えた。

先日、吉村氏の講演を書き起こした「わが心の小説家たち」という本を読んだ。
彼が好きだった作家、範とした作家について語ったこの講演において、例えば森鴎外や志賀直哉といった人たちの文章のすばらしさはその「文体」にあるのだと彼は言う。
あるいは川端康成の文体は唯一無二のものであって、いたずらにあれをまねすると大火傷するとも。

抱いていた感想は確信に変わりつつある。
やはり、彼が目指したのは「吉村節」。そこに作家の矜持を凝縮させようとしたのだ。
そういう読み方は今までしてこなかった。
なんのためのテクニックなのか?ということだ。
これは音楽にも通じる。

彼によれば、「金閣寺」での三島由紀夫の文体も、実は気障に思えたりもしたらしい。
「潮騒」とか好きだったんだけど、ああいうのはどうなんだろう?
あるいは、坂口安吾についてはどう思っていたんだろう?中上健次については?
吉村氏は批評家ではないから、そういった事柄は発表されていないかもしれないが。
俺が学生の頃に好きだった作家たちは皆、とにかく最後まで読ませきってしまうパワーのようなものを感じたし、それが小説だと思っていた。
個人的には、それらの作家に比して、吉村氏の文体は控えめ、中立、透明。
主観と言うか、作家の感情のようなものをあまり感じないのだ。
しかし、それ故に生み出される、「ただそこに立って見ているだけ」のような佇まい。
そこにこの作家の凄みがあったのだ。

「ただそこに立っている」ことの強さ。
ルースターズの「鉄橋の下で」を聴きたくなった。