Baradomo日誌

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嘉納杯100kg超級決勝

2007-12-10 | よしなしごと
意識の差がこれほど「強さ」に結びついている競技はほかに類を見ないのではないか?

日本の「お家芸」柔道である。

昨夜、嘉納治五郎杯国際柔道大会のテレビ中継を見ていたら、100キロ超級の石井が「とにかく勝たなければ意味がない。誰が相手でも勝っちゃいますよ!」と話し、その言葉どおりに決勝では復活を期してこの大会に臨んだ井上を1ポイントの優勢勝ちで下し、対井上二連勝。
「本家」の意地と言えばいいのか?
100キロ超級ベスト4全員が日本人選手だった。
体格、筋力、気力、総合力で世界を相手に臆することなく闘う柔道日本代表選手たち。
何より「心の強さ」。
あの強さがサッカー日本代表選手にもあれば。

100キロ超級決勝戦。
先に畳に立った井上がゆったりと礼をしたのに対し、若干遅れて登場した石井は審判に促されるように一礼してコートに入るやいなや、開始線をまたぎながら再度礼をして「はじめ!」の声を聞く。
この勝負に期するところあったのだろう石井は、やおら左手で井上の襟を掴むと、そのままのど元を突き上げ、みぞおちに肘を入れるようにして内股から朽木倒しの連続技でたたみかけようとする。
一方、井上はこの石井の左手を嫌いながらも、小内刈からの連続技で応戦する。
最初から挑戦者石井、受けて立つ井上という構図だったが、なんと表現すべきか。

「はじめ!」の声を受けて気合を発した両者が組み合ったその瞬間に見せた姿は、それまでの他クラスをふくめた全ての試合とは明らかな「格の違い」を発散していた。
これが柔道の場合の位取りなのだろうか。
互いに組み手を争い、隙あらばと足を飛ばしていくのだが、お互いに腰がぶれない。
剣道ならば切先の攻防、気の攻め。
高段者の試合を見るような展開。
あるいは、井上の気合が石井を高いところへ連れて行ったのか?

ところが。
試合後、石井が語ったところによると、「肘を入れて投げに行ったがまったく効かなかった。投げることは不可能だと思った」ため、冒頭に見せていた位取りの勝負を放棄してしまう。そこからは石井が技を出し、井上がそれをいなしながら技を出すタイミングを狙う、という展開が続く。
中途半端な体勢からも技を繰り出す石井の攻めは、ややもすると「掛け逃げ」的な面もあったが、その石井の連続技をもてあましつつ、それでも一本にこだわる井上はペースをつかむことができず、ずるずると時間が経過。
結局井上に言い渡された「指導」が決勝ポイントとなり、勝利の女神は石井に微笑んだ。

勝ちにこだわるならば、とにかく制限時間内に技を出して行かねばならないのが試合の定石。
今後さらにヨーロッパ主導になっていく国際試合ならばなおのことだ。
石井の闘い方はそういった試合の機微をわきまえたものであり、決して間違ってはいない。
しかし、同じ戦法を井上が取ったならば、それは批判の対象となるだろうし、そのことは井上自身も自覚しているところだったのだろう。
だからこそ一本にこだわり、結果的に技はおろか崩す攻めさえも出せなくなっていった。

国内の試合ならば。
普段の稽古ならば。
井上の柔道は光るもの。
しかし、国際試合では石井のような戦法が効果的。

日本柔道が立っている地平を、図らずも垣間見せてくれた、そんな決勝戦だった。

とはいえ、あのような「格」を感じさせる攻め合いを、ヨーロッパの選手が見せてくれたことがあるだろうか?
いつぞや明らかな誤審で勝利したフランスのドイエに「位」を感じたことがあっただろうか?

それでも勝たねばならないというプレッシャーの中で日々稽古に励んでいる柔道選手たちの精神力に感動。