Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

言葉狩り

2006-02-22 | よしなしごと
「読み聞かせ」と「読み語り」。

「声を出して本を読む行為は調教行為とは異なる。『読み聞かせ』というと、"しつけ"や"教育"といった強制的なニュアンスが感じられる。」
このような問題意識から、「『読み語り』と言うべき」と主張する方が増えている。
文字を読めない子どもになりかわり、文字を読み、自分自身もその本の世界に入ってこそなのだ、と。

一理ある。

およそ子ども達に対する親の行為は「しつけ」や「教育」的なニュアンスを含んでいる。
無論、必要があるからこその行為なのだが、我が子に対して親が声を出して本を読む場合においては、「読み語る」主体者である親も、子どもとフラットな地平に立つべきだと言える。
何故なら、それは子どもの情緒的な発達を促すための行為だから。
「強制」される情緒などありえない。
見方を変えて、全ての局面において、子ども達の自発的な発達こそを第一義とした場合、親が子どもに対して、何らかの行為を強制することは、果たして有効なのか?
家庭内において、「親」は「子ども」に対するヘゲモニーを形成している、と言ってしまったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも保護者は子を養育する義務を負う、家庭内での指導者だ。
そのことがひるがえって心理的には子どもを従属させている状況を生む。
ここに、いわゆる幼児虐待や、子ども達へのDVのメカニズムを感じ取ることは可能だ。
一人称の行為が二人称に対して副次的な行為を強制するか否かを基準として捉えれば、「聞かせる」という行為はファシズム的とも言えるのだろう。

しかし、このような「言い換え」は「言葉狩り」の域を出ないのではないか?
親子など、かなりクローズドのシチュエーションにおいては、二人称が一人称の意図をある程度汲まなくてはコミュニケーションとして成立しない。
そのような関係性を抜きにして、言葉尻を捉える事にあまり意味を見出せない。

かたや、全国各地で絵本の読み語りをし、原画スライドに合せて声を出して絵本を読む「きよの流 絵本劇場」を実践されている、清野 友義氏という方がいる。
彼はこのように述べている(「きよの流」絵本の読み語り術・極意書より無断転載)。

「例えば、テーマに子ども向けだけなどあるのだろうか。
絵本は子どもが読めるから、子ども向けと勘違いしているのではないだろうか。
 (中略)
子どもが読むから、幼稚というなら子どもは読まなくなるだろう。」

そして清野氏は、「『読み聞かせ』ではなく、読み語り、それを人に聞いてもらう」と述べている。
つまり、彼の言う「読み語り」は、子ども達なり親子なり、ある集団(=聴衆)に対して他者として語りかける、パフォーマンスとしてのそれだ。
「読み語る」主体者である一人称は、聴衆とフラットな地平に立つ、フィフティ・フィフティな関係性にある。

この意識は全てのパフォーマンスに共通する。
しかし、冒頭の「非調教派」と清野氏とを比較した場合、想定される聴衆が明らかに違っている。
う~ん。
清野氏自身、家庭におけるそれについては、特にこだわっている印象はない。
行為そのものが違っているのに、同じ言葉で語るのは無理があるな。

調べていたら、絵本の「開き読み」ってのも出てきた。
じゃ、「閉じ読み」ってのもあるのか?そりゃ、素ばなしのことか。

だったら、絵本は「眺め読み」ってことにしたらどうだろう?
全てを満足させる言葉なんて、ないのになぁ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿