Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

懐かしい違和感

2007-07-05 | 子どもの視線・親の気持ち
3年前にお袋が逝った時、上の娘が「人間って電信柱みたいだね」と言っていた。「みんな電線みたいなものでつながってるんだから」と。
http://blog.goo.ne.jp/yassakajp/e/bac8906fa5d919e1008851848c6c9b8c

~人が電信柱だとしたら、電線は人と人の心や血の「つながり」なんだろうね。
きっと、ウチと、おじいちゃんおばあちゃん、くま(わたしのこと)、おかあさん、いもうとは、ぶっとい線でつながっているんだよ。
それはその人が死んじゃっても変わらないんだ。
お友達とは中くらいの線でつないでるのかな?
きっと、今、ウチは7本のぶっとい線と、二十本くらいの中くらいの線でつながってるな。
細い線は、ないよ。切れた線もない。
(中略)
くまだって、○隈さんやなおちゃんや、死んじゃった○田さんともつながってるし、それだけじゃなくて、サッカーや剣道や、大学の友だちや、一体何本の線が体から出てるかわかんないくらいなんだろうな。
そして、その先につながっている人の電信柱から、またたくさんの線が延びて、どんどんつながっていくんだ。


先日、学生時代の同窓会があり、久しぶりに会った旧友たち。
ひとたびひざを交えて話しはじめれば、互いを自然体で受けとめ合える懐かしい空気感が、鮮やかな色彩感を伴って蘇り、鼻腔をくすぐる。
懐かしい学生時代にトリップしたかのような錯覚。
大学卒業以降の10数年間、転職や転居、結婚や出産、あるいは肉親との離別など、皆それぞれのドラマを生きてきたに違いない。
親としての生活、あるいは職業人としての生活、そして彼ら個人としての生活が、彼らを現在の地平へと導いたに違いない。
そして今、目の前にいる旧友たちは皆、学生当時の追憶の上に、新たな顔を携え、新たな空気を何重にもまとい、私の目の前に現れた。

私にとっては、大切に「記号化」し、追憶の中に半ばしまいこんでおいた、旧友たち。
その彼らが突如実体化し、記憶の色彩を互いに塗り替えていく。
その変容は、意外なほど心地いい「違和感」をもたらしてくれた。
あくまで私個人の印象ではあるけれど。
「皆変わった」のか「皆変わらない」のか、ではなく、「皆成長している」のだ。

娘たちよ、ここにもたくさん、俺の回線があるよ。
「記号化」したはずの印象はそのままに、明らかにその延長線上を生きている彼ら旧友たちの姿に、私は柔らかな感動を覚え、その感動は未だ醒めず、私に勇気を与えてくれている。

「記号化」した、だなんて失礼だね。
俺も前を向かないと。