Hirakata turezure 四季のなにわ

あるとき、ときどき、いろんな思いをふっと向ける事柄があります。

桜 咲く支局、四月

2018年03月31日 | 日記
桜 咲く支局、四月


冬の寒さに耐えていたのか、我慢ができないように桜の開花は一気である。
国土交通省近畿運輸局大阪運輸支局正門横の桜も同様、ここ1週間であっという間に満開となった。毎年咲いているこの桜は庁舎建て替え後も残り、異動者を見送り、迎えていることになる。
向いの大阪電気通信大学正門前の桜も咲き入学式を待っている。もう少し待って花を添えて欲しいものである。





 ねぎらって 花一片の 桜かな(柳子)

 溌剌と 香る桜や 新職場 (柳子)


新幹線上下線が同時に通過する桂川、淀川合流点

2018年03月26日 | 日記
新幹線上下線がある同時に通過する桂川、淀川合流点


画になりそうな忖度事案、公文書書き換え問題が2年続き、いよいよ国会の論戦がヤマ場に入り、国会審議が目の離せないクライマックスに入っている。
こんな状況下、数十年前にあった予算成立が6月にずれ込むのではないかと自動車関連団体の一員として気をもんでいたが、今日のヤフーの見出しに28日に平成30年度予算が成立すると出ている。
予算審議の報道が招集後に全くなかったが、審議されていたのであろう。そう願いたい。取りあえず新年度の円滑なスタートを願うばかりである。やはり春が来たのだと思う。

暖かさに誘われ、自転車で京都府八幡市北部を折り返しに淀川べりのサイクリングロードを川風にあおられながら普通車の自転車を漕ぎに漕いだ。勿論、その間、グループで疾走するロードバイク、クロスバイクの邪魔にならないようにである。

途中、道のない葦の原を横切り、土手に出た。
同時に淀川を挟む対面の山崎町近辺(と思う)を風切り音が上下から聞こえてきた。新幹線である。携帯のカメラを夢中で取り出し撮影した。(動画はアップしてご覧頂きたい。)
あっという間にすれ違い、すぐ静寂な川面になった。新幹線がすれ違った真下は淀川、桂川の合流点であった。
もうすぐ、この合流点を頂点にした八幡市の「背割堤の桜」が満開になる。北摂に春が来る。

寝屋川市にあった野球場

2018年03月15日 | 日記
寝屋川市にあった野球場


センバツ
National High School Baseball Invitational Tournament

めくりどおりというか、やっとと云ったほうがいいのか、本格的に日差しが暖かくなり、関西に春を呼ぶ大相撲春場所も始まっている。
次は春の選抜高校野球。間もなく、来週23日金曜日から始まる。
1924年に始まり戦中、戦後の5年を除き今年で第90回を迎える記念大会とのことである。

花粉の飛散の方もより一段と激しくなっているが、明るい陽射しに引っ張られ早めに出勤し、通勤経路を大きく迂回。寝屋川市駅から北に向かって続く府道の道沿いに選抜高校野球と幾分縁のあるモニュメントを今回はご紹介することとする。意外と知っている方は少ない。

動画は京阪寝屋川市を降りて北に向かって歩き、昔、あった「運動場前」駅跡地の前の道を寝屋川市役所に向かって歩き、一つ目の交差点である「八坂町」交差点の北東隅に設けられている石碑である。

ウキペディアから引用させて頂く。
京阪電気鉄道は1921年に沿線の寝屋川豊野村(当時の市制は不明、北河内郡?)に1万5千坪の土地を購入、翌1922年1月から陸上競技場の建設に着手。同年4月21日に竣工した。
同時に臨時駅として「運動場前」駅を開業した。動画の八坂交差点付近はこの駅から続いており、競技場の先端部付近でもあったと推測できる。
京阪電車は引き続き、野球場とテニスコートの建設に向けて着工し、1922年(大正11年)8月末にこれを完成させている。
翌年、1923年11月には、日本最初のプロ野球団である芝浦協会が(勿論知らない。)実業団(ノンプロか)の大毎野球団との試合も行われているようだ。
また、翌年、1924年(大正13年)からは全国中等学校(現、高等学校)優勝野球大会 大阪大会の会場ともなっている。

しかし、この年に本格的な設備を備えた阪神甲子園球場が8月1日完成すると、京阪電車は京都への観光客輸送か、この野球場、グランドを拡充しての輸送力増強を目指すかの選択に迫られたようであるが結局、昭和の恐慌に見舞われ、後に、このグランド、野球場はこの地から撤退し、現在、住宅地となっている。
動画にある石碑の文面をご紹介しよう。

『京阪電鉄開通(明治43年)後の大正11年4月京阪電車の手でこの地旧豊野村秦に京阪グランドが建設され、陸上競技で数々の日本記録を生みました。全国的な野球熱の高まりで同年8月、その一角に野球場が設けられました。甲子園球場が出来るまでは日本一の規模を誇りました。この球場で全国中等学校野球大会の大阪予選などの熱戦が展開されました。』
とある。

球場跡は昭和17年以降、閑静な住宅地に生まれ変り、今もそのまま住宅地となっている。