Hirakata turezure 四季のなにわ

あるとき、ときどき、いろんな思いをふっと向ける事柄があります。

大和政権 北河内分署なり

2011年01月31日 | 日記



デジカメのズーム機能を最大限の×12にし、かつ、手持ちで撮影している為、貼り付けた動画はかなり揺れている。
画面左が三条方面、右が淀屋橋となる。従って通過する電車は淀屋橋に向かって走行していることになる。見にくいが正面ビルの間の中央の小山が国指定史跡『牧野車塚古墳』である。撮影場所は淀川左岸の土手部、河口部から27キロ近辺で東の方向に向かって撮影した。

この牧野車塚古墳は穂谷川に隣接しており、この穂谷川の左岸土手からのほうがより大きく撮影出来、また、一般的であるが、穂谷川が流れ込む淀川からもその全容、シルエットを見ることが出来るのである。(動画では右側が円墳、左が前方部となる、前方後円墳で北河内では二番目の大きさを誇る。気にしなければ普通の小山に見えるし、そもそも気が付かない。)

『枚方市史』第1巻によれば、この古墳の標高はたかだか22メートルであるが、これだけ離れた場所でも確認できるのはこの地が平野部より小高い交野台地の北西終端部に設けられているからである。
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林立するビル群の隙間から今日でも眺めることができるのであるから、築造当時の4世紀後半(卑弥呼からはアバウト100年後となるが)には葺石に覆われた壮大な墳丘がこの小高い丘にそびえ立ち、古代の大阪海(勝手に名前をつけたが、河内潟)から淀川を遡航した古代人達のランドマークになっていたことであろう。

卑弥呼の後、大和政権が成立しかけているこの年代の穂谷川流域における古代豪族の動向もよく分かっていないこともあり、誰が埋葬されているのかは分からないようであるが、可能性として、穂谷川河畔を利用した馬の放牧が行われ馬匹生産などに携わった渡来系氏族(物部氏系?)の存在が考えられるとされている。 私個人の勝手な想像ではあるが、埋葬者もその系統のお方なのかもしれない。

そう言えば、この地域の牧野という地名も、近くにある禁野という地名もこの地域に馬が駆け巡る自然豊かな草原が広がっていたことから派生していったのではあるまいか。

 古代、馬を乗りこなす騎馬系氏族がこの地を駆け巡っていたことを想像すれば、纏向遺跡から出てきた桃の種2765個にも勝るとも劣らないロマンを感じるのは私だけか。

『寒風や 孤高墳丘 聳え立ち』(柳子)
『老いてなお 主を守りおり 車塚』(柳子)