Hirakata turezure 四季のなにわ

あるとき、ときどき、いろんな思いをふっと向ける事柄があります。

「野球」という言葉のルーツ

2018年10月28日 | 日記
「野球」という言葉のルーツ


10月に四国、愛媛、松山に寄り道させて頂いた。松山は2度目である。
最古級の温泉、道後温泉は別格として、夏目漱石の「坊ちゃん」を読んで以来、行きたい町となり、子規の野球好きと司馬遼太郎の「坂の上の雲」でその度合いは☆5個となっていた。

『稲の穂に 温泉(ゆ)の街 低し 二百軒』(子規)
親友だった正岡子規と夏目漱石は、123(1895年)年前の10月31日、連れ立って道後を散策。「坊ちゃん列車」に乗り、道後温泉本館へ入ったとされる。
子規が秋の稲のみのりの豊かさと温泉の湧く豊かさを感じて松山の魅力を再発見した一句とされる。
もう一つ、子規といえばなんといっても野球である。おりしも「ドラフト会議」が無事に終わり、今、日本シリーズ、ワールドシリーズの最中である。道後温泉本館近くに子規の野球ユニホームの銅像があり「扁額」が設置されている。一生懸命書き写した。内容は次のとおりである。






【子規像の扁額】
正岡子規は慶応3年9月17日(新暦10月14日)、松山藩士正岡常尚の子として松山に生まれました。本名を常規、幼名を升(のぼる・・後述の「野球」につながる)といいました。
松山中学校に学んだ子規は明治16年に上京、東京大学予備門、帝国大学文科大学へと進学しました。
しかし肺を病んで明治22年に喀血、その頃から本格的に文学を志し、やがて大学も中退を決意、25歳で日本新聞社に入社し、新聞「日本」紙上で俳論や歌論、文章論などを次々に発表。「写生」を唱え近代文学の革新を進めました。
明治28年には日清戦争の従軍記者として中国に渡りますが、病を悪化させて帰国。松山に帰郷して「愚陀佛庵」で夏目漱石と52日間の共同生活を送りました。
晩年は病床での生活を余儀なくされましたが、東京・根岸の子規庵には、日々多くの仲間が集います。病苦の中で文学活動への熱意はますます高まり、特に随筆「病牀六尺」は死の2日前まで新聞「日本」に掲載され続けました。
明治35年9月19日、子規は34歳11ヶ月で亡くなりました。子規の文学革新運動は夏目漱石、河東碧梧桐、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節ら多くの人々によって受け継がれ、後の時代の文学に大きな影響を与えました。
子規は学生時代にベースボールに熱中し自分の幼名にちなんで「野球(のぼーる)」と言うペンネームを用いています。
また、ベースボールを題材にした俳句や短歌を詠んだほか、新聞「日本」の中でベースボールのルールを紹介し、「投手」「打者」「走者」「直球」などの用語の訳語を作っています。このような野球普及への貢献が高く評価され子規没後100年にあたる平成14年1月に野球殿堂入りを果たしました。

2015年松山中央ライオンズクラブ建立


 「漱石の
      声響きたる
            湯舟かな」(柳子)