後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明日は満月・・・昨夜の十三夜の月と今日の雲の写真

2014年10月07日 | 写真
昨日は午前中は台風18号の来襲で大雨でしたが、午後から急に晴れて、夜は13夜の月がむら雲にかかっていました。

そして今日は大風一過の秋晴れです。昨日から今日にかけての天候の変化の激しさに何故か感動しました。

そこで昨夜の13夜の月と今日の雲の写真をお送り致します。







わが故郷、仙台のへの観光案内・・・あなたの故郷の自慢は何ですか?

2014年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この文章を読んで下さる方々は全国の津々浦々に住んでおられます。そして中国や韓国やタイやイラクやアメリカなど外国の方々もいらっしゃいます。

そこで今日は、わが故郷の仙台の観光案内を書いてみたいと思います。私は1936年に仙台に生まれ、1960年にアメリカ留学に出発し、仙台を離れました。
それ以来東京に住んでいますが、仙台は懐かしい私の故郷です。

仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。

明治維新で仙台藩が解体された後も「芭蕉の辻」や国分町の賑わいは続きました。しかし、大正、昭和と時が流れるに従って、国分町はしだいに寂れ、それと並行して南北に走る「東一番丁」が繁華街となったのです。
私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。ついでに大人たちからよく聞いた「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし意味も無く歩きまわったものです。
時々、仙台へ行って、思い出をたどりながら町々を歩き回ります。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンだけが存続していました。
そして必ず青葉城に登り、下の写真のような仙台の街並みをあきることなく眺めます。

その次は下の写真のように見える隣の小山の経ケ峰に登ります。

私の昔の家は、伊達政宗の廟所のあるこの経ケ峯のそばにあったのです。政宗から三代までのこの廟所は瑞鳳殿といいます。
私の子供の頃は、そこは杉木立の暗い淋しい山でした。戦争中は人がめったに足を向けない森閑とした場所でした。そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。
その廟所は現在は観光客が必ず行く所になっています。現在は下の写真のように桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。

遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。

その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の思い出の地です。
下がその一銭橋から青葉城へ続く八木山の尾根と広瀬川の写真です。右の山が青葉城のあった山です。

現在、仙台と言えば「牛タン」や「笹かまぼこ」や「青葉城恋歌」などが有名です。牛タンは仙台駅のレストランから町のあちこちで楽しむことが出来ます。
そこで以下に少し仙台の昔の話をご紹介したいと思います。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。仙台駄菓子でした。昔から有名だった笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。それで地域おこしが出来ることは大変良い事です。
その他、仙台の自慢は江戸時代初期に仙台の豪商、八木久兵衛が作り出した「仙台味噌」です。仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。塩味をきかせた辛口の味噌です。

もう一つ仙台の自慢は1936年にベーブ・ルースが来仙し、八木山球場で2本のホームランを打ったことです。そしてその年に日本にプロ野球が誕生し、現在のジャイアンツの前身の球団が生まれたのです。
八木山球場は現在は市立動物園になっていましが、ベーブ・ルースがホームランを撃ち込んだ外野席の跡に彼の銅像が立っています。

こんなことを書いていたらキリがありませんので今日はここで止めておきます。
さて全国のあちこちに住んでいらっしゃる皆様は故郷の観光案内が出来るでしょうか?故郷の自慢話しが出来るでしょうか?普通の観光案内書に書いていないことこそが貴方自身の故郷の自慢話しなのだと思います。 故郷の自慢が出来る方々は幸せな方だと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)