後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたの生まれる前の事でもお読み下さい(1)米空軍による全ての都市の空襲

2010年07月18日 | インポート

人間は自分の生まれる前の事には無関心なものです。私も現役の間は生計の為と、出世の為に忙しく、生まれる前の事には全く無関心でした。でも是非お読みください。

今日は、米空軍による全ての都市の空襲について自分の体験も混じえて書きます。

アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市は全国の津々浦々にわたっています。戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。

内閣告示第30
特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。
昭和21109日 内閣総理大臣 吉田茂 

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市  

徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領)

私の住んでいた仙台の空襲のこと


1 コメント

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B29の独特の金属音は高度1万メートル以上で飛んで... (yuyu)
2010-07-18 10:12:28
B29の独特の金属音は高度1万メートル以上で飛んでいるときの音でした。空襲警報が鳴り、あの音は今も耳に鮮明に残っています。

今考えるとそれは偵察機の飛行で、本土には爆撃の危険はなかったのですが、襲撃の音に聞こえました。

日本の対空戦力が落ちるにつれて、飛行高度が低空に変わり、私の町東北の工業と交通の町は当然狙われました。

仙台大空襲より前のことでした。狙いは軍事工場と鉄道だったようです。

鮮魚店を大きな店構えであきなっていましたから、鉄筋コンクリートの台が作られていて、その地下に防空壕が掘られていました。

子供と女性は豪の中に、入れない父と祖母は裏口の風呂場の横から空をにらんでいました。

小5の私も豪には入らず、表通りの空を見ていました。飛行機の頭部にガラスで機銃操作なのか、爆弾投下のためか空軍の兵士の飛行機眼鏡の姿がこちらを見ていました。

空は真っ暗になるほどの数。ガラス戸はビンビンと鳴り、爆音は偵察機の音とは全く違う、重い、暗い唸りでした。

爆弾投下の音は地響きを繰り返し、ドカン、ズシンです。通貨の何分間なのですが、父の母親も丁度田舎からきていましたから、母と二人は手を合わせて念仏を唱えていました。

空襲が終わって、何時間後には、防空頭巾姿で顔は真っ黒の母の里の一家が全員歩いてきました。

爆撃で家を焼かれ、命からがら登ってきました。棄権だからと我が家でお茶を飲んでまた西へ、田舎の親戚を頼って非難してゆきました。

後で知ったことは、軍事工場が壊滅、鉄道の駅も爆撃されていたと聞きます。駅の近くの問屋が母の実家でしたから、空襲の標的近くだったのでした。

その二日後には、父方の祖母が手配した牛車が田舎から来て「こんな恐ろしいところへ孫たちは置けない」と2里も離れていない田舎へ疎開することになりました。

その空襲は数と高度の低いもので恐ろしさを感じるのはほどとぼでしたが、疎開前日に、恐ろしい一夜をすごした記憶があります。

偵察機ではない高さで、爆撃音です。音と町の周囲に照明弾が投下されて、ドカンドカンと、爆弾の音が続きました。

町の周囲から狙っているように思われたからでしたから、町から逃げられない恐怖でした。

これも暗闇での空襲に失敗したB29は、目標ではない田舎の田畑へ一トン爆弾を落とし、大きな穴をいくつも作っていたようでした。

それで疎開は迷うことなく決定して、豪農の父の里は屋敷が広く、母屋、隠居所、閑居の住まいがあり、蔵が三つと納屋が三つ、大きな池と西の林で構成されていました。

隠居所がわれわれの住まいに用意されていました。疎開したその年の夏には終戦となりましたが、それまでは艦載機の襲撃を元の町は毎日受けていました。

田舎からそれが見えて、煙を吐いて墜落する敵機、B29も墜落しました。

敗戦が近いのを子供ながらに知る時期でした。飛行場が海軍と陸軍の二つもありながら、一機も飛び立つことなく、敵機のおもうままでしたから、練習機の赤い二枚羽根しか日本にはないのだと知りました。

田舎の山林に、戦闘機がまともな姿でかくされていましたが、飛び立つ燃料がないから非難していると言います。

松林は切り倒され、松ノ木の根からとる所謂、松根油なるもので飛行機を飛ばすのだと聞きました。

軍事工場に動員されていた父は支那事変の傷痍軍人でした。何を作っていたと言うのが今も不思議より、笑い事でした。

風船爆弾を作っていたのです。空になった弁当にその切れ端を持ち帰る父でした。

戦争へ出て「弾の下をしくぐった男」と戦後の不良たちを怒鳴り散らず元気な父でした。くぐるどころか大腿部を敗残兵に狙撃されて負傷した衛生兵だっのです。

その強い油紙とビニールの中間のような分厚い紙で風船、気球のようなものを米国本土へ飛ばす計画が軍事工場でなされ、マッチ箱爆弾を搭載すると言う話を聞いていました。

今考えると、日本も原爆に近い何かが開発されていたのだろうかと思います。

それから後の空襲が毎日のように続き、東京大空襲、仙台の油種焼夷弾は空から火が降ったと聞きました。

そして、遂に、広島、長崎の原爆ですが、噂で、何かあちらで大空襲があったらしいという情報しかありませんでした。

まもなく、8月15日の玉音放送を本家の庭に一族が集い、座して聞いたのでした。途中まで意味が分からず、大声で「戦争が負けた」のおじの声で事実を知ったのです。

夏やすみちゅで下が、登校するとわら半紙の分厚い教科書に墨汁で、先生が言うとおりに、文章を消してゆくことが小学生、即ち、当時の国民学校生徒の勉強でした。

旧制中学から幼年学校に合格していた兄が帰ってきました。その後の日本はどうなるのか五里霧中の日本でした。

それでも蔵に日本刀が棚一杯にあった旧家でしたから、男の子に好きなものを一振りずつ渡しました。

鬼畜米兵が来るから、女子供を守るのが男の仕事と言われました。

田舎に通達はだいぶ過ぎてからですが、無条件降伏の武装解除は家庭の武器弾薬にまで及びました。

何十本という日本刀と鉄砲も何時のかありましたのを全部放出しました。

悔しがった本家のおじは気の小さい人でしたから、全部差し出してしまいました。悔しがってそれでも一振り残した名刀を裏の竹やぶで試し切りをして、だしたとばかりおもいましたが、後で知ったのは、それだけは油紙に包んで、竹藪の地中に埋めていたようでした。

しばらくして、ジープで現れた米兵は鬼畜ではなく、子供に愛想の良い、ガムやチョコレートを沢山持ってくる大男たちでした。

日本は勝てない筈で、身の丈180以上の大きさです。

これが、終戦前後の農家に疎開した私の経験のほんの一部です。

工事用から持ち帰ることなど平気だったのでした。
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