始めに誤解の無いように明記しておきます。
私がこの3回の連載記事で主張したいことは次の2つのことだけです。
(1)ドイツ人は反省しているが日本人は反省していないという誤解の原因の一つは、ヴァイツゼッカー 大統領の有名な『荒れ野の40年』という演説にあるという主張です。
(2)キリスト教文化圏の中の謝罪文は多神教文化圏の日本人の謝罪文と比較すると、その形式と具体的記述の内容がまったく異なるという主張です。
ある人間が真摯に謝罪しているか否かということは確証の無いことなので、この問題はこの連載の範囲では無いのです。今回の議論の対象では無いのです。
『荒れ野の40年』という演説は欧米では有名になり、これ以上感動的な謝罪文は無いと絶賛されました。
2015年1月31日にヴァイツゼッカー氏が亡くなりましたが、メルケル首相は「荒野の40年」に関連してヴァイツゼッカー氏の追悼文を発表しています。
さて一方、多神教文化圏の日本人はこの有名な演説を謝罪文ではないと誤解して無視したり非難しています。それは文化の違いによる全くの誤解なのです。
日本人はこの演説を以下のように誤解しがちです。
(1)この演説には反省しているとか謝罪するという言葉や文章が皆無なので真摯な謝罪とは言えない。
(2)この演説だけを取り上げてドイツは反省し、日本人は反省していないと非難する自虐的な態度は間違っている。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
さて上の3つの誤解について私の感じ方を説明致します。
(1)キリスト教文化圏では罪は個人が犯すものである限り、謝罪も神に対して個人がするべきである。従ってヒットラーとその直属の部下の個人的な罪を関係の無い戦後のドイツ政府が謝罪すればキリスト教の教えに反することになるのです。これはヨーロッパ人共通の認識です。
(2)過去の悲劇を真摯に見つめ心に刻んでいるのは良識的なヴァイツゼッカーさんだけではありません。多数の良識的なドイツ人なら同様に考えています。この演説は数多くの良識的なドイツ人の代表として考えるべきです。ヴァイツゼッカーさんは政治家です。国民の大多数の人々の意見を集大成して具体的な事例をあますことなく明記した演説原稿を書いたのです。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
日本人は心にもないくせに反省します。そして気楽に謝罪する文化です。
しかし深刻に以下の数々の事件の犠牲者と遺族の悲しみを心に刻み、心を寄せ同情しているでしょうか?
満州事変と張作霖の爆死。
石井部隊による中国兵の生体実験。
満州における農地の半強制的買い上げと満蒙開拓団への提供。
上海事変における市民の難民化と犠牲。
南京事件と言われる残虐行為。
南中国の桂林まで占領する折の農村の破壊。
中国兵捕虜の強制労働と死刑処分。
中国人の強制連行と日本国内における使役。
もっといろいろあるでしょうが、このような忌まわしい事実を明記し、その犠牲者と遺族に心を寄せるのです。彼等の底知れない悲しみを日本人は心に刻んでいるでしょうか?
現在の日本人は犠牲になった人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているでありましょうか?・・・・・
心に刻むことが何故真摯な反省になるか分からない方々には、以下の痛切な文章をもう一度読んで頂きたいと思います。
・・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・
以上の文章を読むと痛切な嘆きに満ちています。そして、「 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。」という言葉で終わっています。
反省とか謝罪とかいう日本人の好きな言葉は出て来ませんが深い反省と謝罪の真摯さを感じます。
もし読者に異文化の人々を許しその文化を理解してあげる寛容さがあれば、ヴァイツゼッカーさんの「荒野の40年」を誤解する筈はありません。
以下の2つの主張に対するコメントを歓迎します。
(1)ドイツ人は反省しているが日本人は反省していないという誤解の原因の一つは、ヴァイツゼッカー 大統領の有名な『荒れ野の40年』という演説にあるという主張です。
(2)キリスト教文化圏の中の謝罪文は多神教文化圏の日本人の謝罪文と比較すると、その形式と具体的記述の内容がまったく異なるという主張です。
今日の挿し絵代わりの写真は冬の花園の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
私がこの3回の連載記事で主張したいことは次の2つのことだけです。
(1)ドイツ人は反省しているが日本人は反省していないという誤解の原因の一つは、ヴァイツゼッカー 大統領の有名な『荒れ野の40年』という演説にあるという主張です。
(2)キリスト教文化圏の中の謝罪文は多神教文化圏の日本人の謝罪文と比較すると、その形式と具体的記述の内容がまったく異なるという主張です。
ある人間が真摯に謝罪しているか否かということは確証の無いことなので、この問題はこの連載の範囲では無いのです。今回の議論の対象では無いのです。
『荒れ野の40年』という演説は欧米では有名になり、これ以上感動的な謝罪文は無いと絶賛されました。
2015年1月31日にヴァイツゼッカー氏が亡くなりましたが、メルケル首相は「荒野の40年」に関連してヴァイツゼッカー氏の追悼文を発表しています。
さて一方、多神教文化圏の日本人はこの有名な演説を謝罪文ではないと誤解して無視したり非難しています。それは文化の違いによる全くの誤解なのです。
日本人はこの演説を以下のように誤解しがちです。
(1)この演説には反省しているとか謝罪するという言葉や文章が皆無なので真摯な謝罪とは言えない。
(2)この演説だけを取り上げてドイツは反省し、日本人は反省していないと非難する自虐的な態度は間違っている。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
さて上の3つの誤解について私の感じ方を説明致します。
(1)キリスト教文化圏では罪は個人が犯すものである限り、謝罪も神に対して個人がするべきである。従ってヒットラーとその直属の部下の個人的な罪を関係の無い戦後のドイツ政府が謝罪すればキリスト教の教えに反することになるのです。これはヨーロッパ人共通の認識です。
(2)過去の悲劇を真摯に見つめ心に刻んでいるのは良識的なヴァイツゼッカーさんだけではありません。多数の良識的なドイツ人なら同様に考えています。この演説は数多くの良識的なドイツ人の代表として考えるべきです。ヴァイツゼッカーさんは政治家です。国民の大多数の人々の意見を集大成して具体的な事例をあますことなく明記した演説原稿を書いたのです。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
日本人は心にもないくせに反省します。そして気楽に謝罪する文化です。
しかし深刻に以下の数々の事件の犠牲者と遺族の悲しみを心に刻み、心を寄せ同情しているでしょうか?
満州事変と張作霖の爆死。
石井部隊による中国兵の生体実験。
満州における農地の半強制的買い上げと満蒙開拓団への提供。
上海事変における市民の難民化と犠牲。
南京事件と言われる残虐行為。
南中国の桂林まで占領する折の農村の破壊。
中国兵捕虜の強制労働と死刑処分。
中国人の強制連行と日本国内における使役。
もっといろいろあるでしょうが、このような忌まわしい事実を明記し、その犠牲者と遺族に心を寄せるのです。彼等の底知れない悲しみを日本人は心に刻んでいるでしょうか?
現在の日本人は犠牲になった人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているでありましょうか?・・・・・
心に刻むことが何故真摯な反省になるか分からない方々には、以下の痛切な文章をもう一度読んで頂きたいと思います。
・・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・
以上の文章を読むと痛切な嘆きに満ちています。そして、「 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。」という言葉で終わっています。
反省とか謝罪とかいう日本人の好きな言葉は出て来ませんが深い反省と謝罪の真摯さを感じます。
もし読者に異文化の人々を許しその文化を理解してあげる寛容さがあれば、ヴァイツゼッカーさんの「荒野の40年」を誤解する筈はありません。
以下の2つの主張に対するコメントを歓迎します。
(1)ドイツ人は反省しているが日本人は反省していないという誤解の原因の一つは、ヴァイツゼッカー 大統領の有名な『荒れ野の40年』という演説にあるという主張です。
(2)キリスト教文化圏の中の謝罪文は多神教文化圏の日本人の謝罪文と比較すると、その形式と具体的記述の内容がまったく異なるという主張です。
今日の挿し絵代わりの写真は冬の花園の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)