後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「奥多摩の酒蔵と地酒のロマンとその物語」

2020年01月13日 | 日記
昔はお酒は貴重で毎日晩酌をする人は少なかったのです。冠婚葬祭のような特別な機会に人々が集まって楽しく飲むものでした。
そして現在のように全国に流通しているお酒はまれで、地元の小さな酒蔵が手塩にかけて醸造していました。
このように全国に流通していないで地元だけで飲まれている日本酒を現在は地酒と呼びます。
「地酒」にはその地方の独特な文化や歴史がつまっています。地酒の蔵元は地方の文化の担い手でした。そんな地酒の蔵元が東京にもあります。郊外の多摩地方にもあります。

昨日は晴天でしたので奥多摩の元禄15年創業の小澤酒造の写真を撮りに行きました。
今日はこの小澤酒造の写真をご紹介し、あわせて小さい酒蔵の中村酒造、田村酒造、そしておまけに山梨県の「山梨銘醸」の写真をご紹介したいと思います。
全て自分で撮った写真です。何故か私は地酒というものにロマンを感じ何度も写真を撮りに行ったのです。

1番目の写真は小さな小澤酒造の醸造工場の入り口の門です。東京以外にお住みの皆様は「澤乃井」という地酒の名前はご存知ないと思います。「澤乃井」は「沢井村」で出来た酒なのでそう命名したものです。旧沢井村は青梅市の奥の奥多摩街道を登った所にあります。

2番目の写真は多摩川上流にある小澤酒造の母屋です。母屋は茅葺の江戸時代の家です。現在でも家族が住んでいます。

3番目の写真は秋川の幻の地酒、千代鶴の中村酒造の写真です。
小さな酒蔵ですが大きな杉玉があり資料館も公開しています。車を酒蔵の内庭に入れると駐車場があります。

4番目の写真は多摩川上流のほとりにの羽村にある文政5年創業の田村酒造です。この酒蔵は多摩川の伏流水を用いて「嘉泉」という地酒を作っています。
「嘉泉」という地酒が出来た歴史です。
・・・代々、福生村の名主だった田村家の「半十郎(豊真)」から数えて九代目の「勘次郎(賢真)」は28歳で名主役を継ぎ、文政5年(1822年)の46歳の時に酒造業を興しました。
当時の江戸は華やかな文化文政期を迎え、急速に発展していきました。酒の需要も増え、主流だった上方(関西)で生産する“下り酒”に代わるものとして幕府は“江戸地廻り酒”の生産を奨励しました。
田村家は敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから“嘉泉“と酒銘を定めました。・・・

5番目の写真はおまけです。甲州街道の台ケ原宿に江戸時代から続く小さな酒蔵の山梨銘醸株式会社です。七賢という地酒を作っています。台ケ原には現在も旧甲州街道にそって江戸時代の宿場を偲ばせる家々が並んでいます。
江戸時代に初代蔵元 中屋伊兵衛が、信州高遠で代々酒造業を営んでいた北原家より分家して作った酒蔵です。白州の水の良さに惚れ込んで、甲州街道台ヶ原の地で酒造業を始めたそうです。

私は地酒を大切にしています。
全国に流通している松竹梅や剣菱や高清水や八海山などは洗練された美味しさがありますが、地酒には独特な味があって魅力があります。時には野生の風味が強すぎて困ることもありますが、それがまた魅力なのです。酒談義をしていると長くなるのでこの辺で終わりにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。