後藤和弘のブログ

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国家の消滅と再興を繰り返す東ヨーロッパ(5)第二次大戦中のエストニア、ラトヴィア、リトアニアの悲劇、

2010年03月09日 | うんちく・小ネタ

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エストニア、ラトヴィア、リトアニア3国は、1940年にソ連に占領され、1941年にドイツに占領され、そして1944年に再びソ連に占領され、終戦後はソ連の隷属国家になったのです。1991年に3国は悲願の完全独立をし、その後、EUとNATOへ加盟し西ヨーロッパの陣営に参加するのです。

このように書くと、我々日本人は戦後のアメリカによる占領を思い返します。バルト3国も単に占領する国が交代しただけで大した悲劇では無かったと思いがちです。

日本人の経験したアメリカによる占領は世界史的に見ても一番穏健な占領の仕方です。その経験だけでバルト3国の占領を考えると大きな過ちをおかします。

占領したソ連・ドイツが占領地のリーダーを強制連行し、殺してしまうのです。第二次大戦中の3国の人口の20%が殺されたといいます。この数字は悲劇の国、ポーランドに匹敵します。

1941年5月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を破り、ソ連領内へ侵攻します。バルト3国もドイツ軍がすぐに占領する勢いです。ドイツ軍がバルト3国を占領する1週間前の1941年6月13日に、ソ連はバルト3国の幹部48000人も逮捕しロシア北部やシベリアへ強制抑留したのです。この強制抑留の対象は政府関係者、知識人、文化人、政治エリートや聖職者でした。もともと人口が数百万人しかいない国々から、各界のリーダーを4万8千人も強制連行したのです。

この48000人の強制連行とシベリア流しの終った直後の1941年6月22日にドイツ軍はリトアニアへ、そして北へ進撃して、7月1日にはリーガ市を占領し、7月5日にはエストニアまでを占領してしまったのです。占領と同時にドイツ軍は住民の若者を動員してドイツ武装親衛隊の兵力として投入し、ソ連軍と戦わせました。特に1944年にエストニアへ侵入してきたソ連軍とは、1941年のエストニア人の大量シベリア送りの遺恨もあり激しい抵抗をしたようです。

しかし、1944年の9月末までにソ連は再びバルト3国を完全に占領します。この時、性質の違う2つの悲劇が起きます。

1)ドイツ軍に投入され、ソ連と戦ったエストニア兵士がソ連の再占領直前に中立国であったスウェーデンに逃げます。しかしソ連は執拗にスウェーデン政府に、難民収容所にいたエストニア兵の引き渡しを要求します。エイストニア兵の代表が引き渡しを防ぐため、スェーデン政府に死をもって抗議します。しかし結局はソ連へ引渡され、シベリヤ送りになるのです。その運命は想像するまでもありません。そして四十数年後の冷戦終結後にエストニアを初めて訪問したスウェーデン国王が、エストニア兵をソ連へ引き渡したことへ対して謝罪するのです。日本のマスコミではほとんど取上げられなかったのですが、王様が謝罪することはヨーロッパ人にとっては大きなニュースです。

2)再占領したソ連軍は現地の人々を強制徴兵し、ドイツへ攻め込む戦力として投入しました。その数は、エストニア人3万人、ラトビア人5万人、リトアニア人8万2千人と言われています。この時、ソ連による徴兵を逃れて深い森へ隠れ住み、ソ連へ抵抗を継続する人々も居ました。彼らは、「森の兄弟」と呼ばれ、その数は多い時で人口の0.5%から1%のも達し、その抵抗はその後およそ10年間も続いたと言われています。

第二次大戦後、エストニアとラトビアの国土は大きく削られてソ連領になってしまいます。

私が皆様へお伝えしたい事はただ一つです。ヨーロッパにおける第二次大戦は日本人が想像出来ないくらい残酷で、悪魔の所業のようだったという事実です。狂気の沙汰です。20世紀の人類は気違いになってしまったのです。その残滓は今でも人々の心に巣くっています。核兵器が多量に存在している事がその証です。人間は常にこの事を忘れないようにしなければいけません。(続く)


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