後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

1964年の東京オリンピックの頃から日本に水洗トイレが普及しました・・・大感激でした

2011年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和11年生まれの私は水洗トイレというものを随分後まで見たことがありません。記憶に無いだけで、デパートなどで数回は見た事はあったかも知れませんが。仙台の郊外に住んでいましたが、地方の一般家庭には無かったのです。今で言う「ポットン・トイレ」でした。そのトイレの大小便を農民が毎月汲みに来て、田畑の肥料にしていました。団地では50年代の終り頃に水洗式になりましたが。

1960年にアメリカへ留学したら何処の家にも水洗トイレなので驚きました。それは素晴らしい設備です。毎日、毎日、感動していました。

ところが1962年に帰国してみると日本の一般家庭では相変わらず汲み取り式です。流石に農民が汲み取りには来ませんでしたが、「バキューム・カー」という自動車が来て大小便を吸いこんでいました。あたり一面に漂うその臭気は、それはひどいものでした。気絶しそうでした。今思い出してもゾッとする悪臭です。

しばらくアメリカの水洗トイレに慣れて帰国してみると日本のトイレが地獄のように感じられるのです。すっかり暗い気持ちになっていましたが1964年の東京オリンピックの頃から少しずつ水洗トイレが一般家庭へも普及し始めました。我が屋でも1966年に初めて取りつけました。まだ下水道や下水処理場が無かったので武蔵野台地特有の「吸い込み式下水処理装置」を裏庭に埋め込んで使っていました。その装置は底の開いた太い土管を土中に立てに埋め中に玉石を詰めただけのものでした。武蔵野台地は水捌けの良い関東ローム層なので、汚水は腐敗菌で液体になり下の関東ローム層へ吸い込まれて行くのです。完全に土中に埋めてあるので臭気も一切ありません。

それからかなり年数が経ってから下水道と汚水処理場が出来て、やっと水洗トイレが全家庭で取りつける規則になったのです。

私はこれでやっとアメリカに追いついたと大いに感動しました。現在でも、その事を昨日のように鮮明に覚えています。その事は誰にも言いませんでしたが、それこそが日本が先進国の仲間入りをした証拠だ信じています。

さて1974年に甲斐駒の麓の山林の中に小屋を作りました。そこは森の奥でとても淋しい所です。現在でも風景は一切変わっていません。小屋の窓から見える夕方の周りの淋しい風景写真を下に示します。

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この山小屋は電気も水道もない状態から出発しました。当然、水洗トイレもありません。キャンプ生活用の携帯簡易トイレを30年使って過ごしました。

しかし水洗トイレが欲しかったのです。5年前に仕事を完全に止めたのを機会に水洗トイレを自分で作る決心をしました。いずれ作ろうと思い、1974年に小屋を作ったとき、「吸い込み式汚水処理装置」だけを小屋の裏の土中に作っておいてもらったのです。30年後にそれを活用することにしたのです。掘り返して見ると、完全に作った当時のままの状態で保存されています。

ホームセンターへ行って水洗トイレの便器と太い塩化ビニールの排水管を買って来ました。店員さんが水洗トイレは素人には無理ですよと言っています。

自分で作れるか心配でした。深く、深く、考えて一番重要な部分は陶器製の便器と太い排水用の管を隙間なく、完全に接合する部分だと確信しました。

もう一度、ホームセンターに行き、接合の為のパッキング用のゴムと特殊な締め具と接着剤を買って来ました。あとは丁寧に接合の作業を根気よくしました。

5年前に完成した水洗トイレの写真を下に示します。完成以来、臭気一つしないで清潔な状態を保っています。

水道が無いので水は庭の小川から汲んで来て水洗用の水槽に入れて置きます。寒冷地なので冬には水を貯めて置かないで、使う直前に水を入れます。それさえ注意すれば何も問題が起きません。

山の小屋へ行く度にこの水洗トイレをしげしげと眺め、独りで満足感に浸っています。 詰まらない話を長々と書きましてご免なさい。

しかし日本には水洗トイレが普及していなかった事実を忘れないで下さい。

水洗トイレも作らないでゼロ戦や、大和や武蔵という巨大な軍艦を作っていた時代の事をけっして忘れないで欲しいのです。(終り)

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