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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「韓国でお酒を飲むときの厳しい作法」

2025年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国で感動したことはお酒を飲むときの厳しい作法でした。
韓国でお酒を飲むとき、横を向いて口元を隠す作法があるのです。韓国では、上司や年上の人とお酒を飲む際には、体を少し横に向け、口元を隠して飲むことが作法です。 これは相手に対する敬意を示す行為であり、韓国の社会では厳密にまもられちます。私も体験しました。
1984年に、突然、韓国の金鉄佑さんから封書が届きました。金鉄佑さんは浦項製鉄所の技術研究所の所長です。
私は始めて韓国を訪問したのでしたが人々の親切さに感銘を受けたものです。
韓国は儒教の国で、人々は恩義を絶対に忘れないのです。それ以来、私は韓国人に親しみを感じるようになりました。
そして韓国でお酒を飲むときの厳しい作法に感動したのです。韓国で見た忘れ得ぬ光景の一つになったのです。

挿絵代わりの写真は東京にある韓国式の酒場です。


「ドイツでの伝統的なワインの飲み方」

2025年03月27日 | 旅行記

最近の日本では世界中のワインが輸入され気楽に飲めるようになった。しかし以前は輸入ワインが非常に貴重であった。1969年、ドイツに住んだ時は「貴重な」という先入観もあってワインを良く飲んだ。ローテンブルグという中世の田舎町でのことである。

ガストフという古い食堂に入る。木目が美しい内装で、中は暗い。すぐに帽子、コートを脱ぎ、入り口近くの帽子掛けに掛ける。「グリュ-スゴット!」(神のお加護を!)と

主人へ声を掛けて座る。日本の学校ではグリュ-スゴット!などという挨拶は習ったことが無い。南ドイツの方言である。奥の左手のテーブルは男だけの地元常連客のテーブルであり、座ってはいけない。

田舎の店ではコートの脱ぎ方、挨拶の仕方、その後の仕草を地元の人々がジーッと見ている。作法通りにしないと露骨に嫌な顔をする。アメリカ人観光客は地元の作法に無頓着。どうしても嫌われてしまう。

ワインを注文する。渋みの効いた地元のワインを注文する。行く度に注文の銘柄を変え味を比較する。次第にドイツワインの深みが分かるようになる。ドイツワインだけを飲んでいるとフランスワインは不味いと感じるようになる。

あるとき2週間の全国旅行へ出た。フンボルト財団の主催した団体旅行で色々な国の人々15人位であった。旅行中の全ての宿は伝統的な民宿。地下室にケーラーというワインの貯蔵倉を持っている。夕食時には必ず年代物のワインの栓を2,3本抜く。栓を抜くのは民宿のご主人。重々しい顔でラベルの年代を読み、コルクを抜く。始めに一杯だけグラスに注ぎ、団員が交代で務める「主客」が一口飲む。しばし考えて、「美味い。少しドライだがそこはかとない葡萄の甘味もあり結構じゃないですか」などと誉める。主人が満足げに全員のワイングラスに注いで飲み始める。ワインに使った葡萄の品種やその年の天候などが主人から説明がある。それが終われば儀式が終わる。この部分はあくまでも伝統的な作法であり、間違っても少し味が良くないなどと言ってはいけない。始めの頃、決まった作法と知らない日本人が自分の好みの味ではないと言ったために主人と大激論になった。その後、交代で、自分が主客になったときは「美味い!深い味だ!」などと言うようになった。儀式が終われば、味の批判や評価をしても良い。南ドイツではワインの飲み方にも伝統的な儀式が出てくる。

 ヨーロッパ諸国、中国、韓国などの色々な国々には種々のお酒がある。そしてお酒の飲み方にも違った作法がある。

郷に入れば郷に従うように飲み方もその地方の方法を遵守した方が良い。礼儀の基本である。

しかし要注意。中国では宴会のとき乾杯の応酬が何度もあり、「飲み干すのが礼儀」という。よく聞いてみると、それは始めの一杯だけのことらしい。乾杯の応酬の仕草だけで良いそうである。これを間違ってフラフラになっている日本人をよく見かけた。

でも老境にいる私にとっては酒を多量に飲んでいた時代ももう遠い昔になった。

懐かしく思うのは南ドイツでも面倒なワインの飲み方の儀式である。あれから50年近くになる。


写真はローテンブルグの駅近くにあるガストフです。


 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人) 


「地酒のロマン、甲州と奥多摩の酒蔵の物語」

2025年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はお酒は貴重で毎日晩酌をする人は少なかったのです。冠婚葬祭のような特別な機会に人々が集まって楽しく飲むものでした。
そして現在のように全国に流通しているお酒はまれで、地元の小さな酒蔵が手塩にかけて醸造していました。
このように全国に流通していないで地元だけで飲まれている日本酒を現在は地酒と呼びます。
「地酒」にはその地方の独特な文化や歴史がつまっています。地酒の蔵元は地方の文化の担い手でした。地酒にはロマンがあります。
少し酔って夢心地になりながらその地方の美しい風景を想像します。その独特な地方史や文化を想像します。

今日はそんな地酒の蔵元を甲州と奥多摩に訪ねてみたいと思います。甲州の七賢という酒蔵と奥多摩の小澤酒造と中村酒造と田村酒造です。
始めは甲州の七賢という地酒を作っている酒蔵です。昔の甲州街道の台ケ原宿にあります。江戸時代から続く小さな酒蔵です。
台ケ原宿は甲府から西へ歩き、韮崎を過ぎ、旧武川村の先にある宿場町です。現在も旧甲州街道にそって江戸時代の宿場を偲ばせる家々が並んでいます。
地方の酒蔵を訪問すると楽しい気分になります。そのせいで私はよくこの七賢を訪れました。地酒の瓶を何度も買いました。
その七賢の向かい側に和菓子の老舗もあります。明治から続く金精軒という店です。信玄餅というお菓子を始めて作ったということです。この店にも必ず寄ります。丁寧に作った和菓子はどれも美味です。2階がギャラリーになっていてその地方に住む人々の作品の展示会を開いています。
以下の写真は数年かけて私達が撮ったものです。
1番目の写真は台ケ原宿の七賢という地酒を作っている酒蔵、山梨銘醸株式会社です。
江戸時代に初代蔵元 中屋伊兵衛が、信州高遠で代々酒造業を営んでいた北原家より分家して作った酒蔵です。白州の水の良さに惚れ込んで、甲州街道台ヶ原の地で酒造業を始めたそうです。
2番目の写真は七賢の母屋の門です。門前に明治天皇の行幸の記念碑が立っています。
3番目の写真は七賢が醸造している地酒です。七賢という酒の他に竹林の七賢人という酒も作っています。
4番目の写真は店にある座敷です。ここに座ってゆっくりいろいろな酒の味を見てから買う酒を決めます。
さて次に奥多摩にある3つの酒蔵を訪ねてみましょう。
5番目の写真は奥多摩の元禄15年創業の小澤酒造の写真です。東京以外にお住みの皆様は「澤乃井」という地酒の名前はご存知ないと思います。「澤乃井」は「沢井村」で出来た酒なのでそう命名したものです。旧沢井村は青梅市の奥の奥多摩街道を登った所にあります。
6番目の写真は小澤酒造の母屋です。母屋は茅葺の江戸時代の家です。現在でも家族が住んでいます。さて次はあきる野市秋川にある中村酒造です。
7番目の写真は秋川の幻の地酒、千代鶴の中村酒造の写真です。
8番目の写真は中村酒造が作っているいろいろなお酒です。
9番目の写真は千代鶴の中村酒造の巨大な杉玉です。小さな酒蔵ですが大きな杉玉があり資料館も公開しています。車を酒蔵の内庭に入れると駐車場があります。
最後は羽村市にある田村酒造です。
10番目の写真は田村酒造です。この酒蔵は文政5年創業です。多摩川の伏流水を用いて「嘉泉」という地酒を作っています。
代々、福生村の名主だった田村家の九代目の勘次郎(賢真)が文政5年(1822年)の46歳の時に酒造業を興したのです。
当時の江戸は華やかな文化文政期を迎え、急速に酒の需要も増えます。主流だった上方(関西)で生産する“下り酒”に代わるものとして幕府は“江戸地廻り酒”の生産を奨励しました。そこで田村家は酒造業を興したのです。敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから“嘉泉“と酒銘を定めたのです。

私は地酒を大切にしています。全国に流通している松竹梅や剣菱や高清水や八海山などには洗練された美味しさがありますが、地酒には独特な味があって魅力があります。時には野生の風味が強すぎて困ることもありますが、それがまた魅力なのです。酒談義をしていると長くなるのでこの辺で終わりにします。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)