goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ヨーロッパ文化の闇、二次世界大戦後のヨーロッパの悲惨さ」

2025年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦でヨーロッパの大都市はドイツ軍に「よって徹底的に破壊されました。その荒廃した都市の写真をご覧下さい。 

1番目の写真はドイツ軍によって破壊されたソ連のミンクス市です。写真はインターネットからお借りしました。 

2番目の写真はドイツ軍の空襲下のロンドンです。 

3番目の写真はドイツ軍によって破壊されたチェルブルクです。 

ヨーロッパでは 1945年4月30日ヒトラー自殺し、 1945年5月7日ドイツが西側の連合国軍に降伏しました。 1945年5月9日にはドイツがソ連に降伏して第二次世界大戦が終わりました。
各国の戦死者数はソ連の1450万人が図抜けて多く、ドイツの280万人がこれに次いで多くなっています。 中東欧のオーストリア、ポーランド、ルーマニアも、それぞれ40~85万人と多かったのです。 
第二次世界大戦は歴史上もっとも大規模にヨーロッパ諸国を荒廃させたのです。 その割には復興も迅速でした。
 私のドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まり、その後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。 
今日はマックスプランク研究所で得た体験を書きます。
いろいろな分野のマックス・プランク研究所がドイツの各地に散在しているのです。

今日は ヨーロッパ文化の闇を書きました。二次世界大戦後のヨーロッパの悲惨さを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ヨーロッパ文化の闇、南米における原住民の虐殺と謝罪」

2025年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
さて、カトリック教会の不思議は自分が通っている小さな教会が直接、ローマ法王の傘下にあるような感じがすることです。ですから何かというとフランシスコ教皇の動静が伝って来るのです。最近は法王は南米に行っていました。出身地のアルゼンチンへは行かずに中南米が主な訪問地でした。各地で熱狂的な歓迎を受け、大勢の信者を集めたミサを捧げました。
そしてボリビアではかつてスペインやポルトガルが南アメリカを武力で征服し植民地にしたことを謙虚に謝罪したのです。この謝罪は先住民団体の代表らを前にした演説で行われました。
以下に朝日新聞のニュースを転載します。
「 南米を訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は9日午後、ボリビア東部サンタクルスで、15世紀以降のスペインなどによる中南米征服の歴史に触れ、「謙虚に謝罪したい」と述べた。教会の布教の一方で先住民の虐殺や奴隷労働があった負の歴史について、歴代法王より踏み込んだ表現で謝罪した。
 先住民団体の代表らを前にした演説で、法王は「神の名の下に、先住民に対したくさんの深刻な罪が犯された」と発言。「はっきりと言いたい。アメリカ大陸征服の際、先住民に行われた犯罪行為について謙虚に謝罪したい」と語った。
 会場には、先住民出身のボリビアのモラレス大統領も同席。会場は大きな拍手に包まれた。一方で、法王は「先住民の側に寄り添って布教を続けた司教や司祭がいたことも覚えていてほしい」とも付け加えた。
 スペインやポルトガルによる中南米の植民地化の歴史では、キリスト教の布教が強く関わった。1992年には、スペインやポルトガルによる中南米の植民地化の歴史では、キリスト教の布教が強く関わった。1992年には、当時の法王ヨハネ・パウロ2世がドミニカ共和国で過去の征服を謝罪した。」(朝日新聞デジタル版:2015年7月11日、アスンシオン=田村剛)
この謝罪は1992年の法王ヨハネ・パウロ2世の謝罪に続く2度目の謝罪ということを強調したいと思います。

日本人のなかには西洋人を非難する場合によく南北アメリカでの原住民の虐殺行為を取上げるする人がいます。
しかし良心的な西洋人はその負の歴史を現在でも重荷として背負っているのです。
ローマ法王が謝っても許されることではありません。
しかしヨーロッパ人が公式の場で真摯に謝ったのはヨハネ・パウロ2世が初めてなのです。
その歴史的謝罪は1992年でした。スペインやポルトガルの南米侵略から実に500年後です。謝罪までに500年もかかったのです。
人間は愚かな存在ですが、法王ヨハネ・パウロ2世とフランシシスコ法王の謝罪は人類の将来に明るい光になるのではないでしょうか。明るい話と思いましたのでここにご紹介致しました。

皆様のご健康と平和を心からお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)





「ヨーロッパ文化の闇、何故ユダヤ人が殺されれたのか?」

2025年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日はヨーロッパ文化の闇を考えてみたいと思います。何故ユダヤ人が殺されれたのかという問題を考えてみたいと思います。異なる民族は何故お互いに戦うのでしょうか?

ヨーロッパのキリスト教徒はイエス・キリストを十字架にかけて殺したユダヤ民族を憎んでいます。自分たちの大切なイエス様を残酷にも十字架にクギで打ち付け脇腹を槍で刺し殺したのです。
国土を持たぬユダヤ民族はヨーロッパ全域とロシア西部に流れ、キリスト教徒の中に混じって暮らすことになったのです。
思慮の浅い一般大衆は何か騒乱が起きると、その度にユダヤ人を殺すのです。ダヤ人殺戮はヨーロッパの伝統文化の一つなのです。
ヨーロッパ人のユダヤ人殺戮の最近の例としてヒットラーによる600万人余のユダヤ人を殺したホロコーストがあります。
ユダヤ人の殺戮は長い歴史のなかで連綿と繰り返されてきたのです。
例えば1096年にヨーロッパを出発した民衆十字軍はエルサレム奪回の途上で、次々と各地のユダヤ人を殺戮しながら遠征して行ったのです。それは第一回十字軍の遠征前のことでした。
各地でユダヤ人を見つけると虐殺しながら、ハンガリー王国やビザンツ帝国内を占領し、小アジアに攻め入ったのです。
しかし所詮は烏合の衆です。セリジューク朝の軍隊に蹴散らされ、遠征に参加した民衆はイスラム教徒の奴隷になったり殺されてしまったのです。彼等の唯一の戦果は各地でユダヤ人を殺戮したことだけでした。
このようなユダヤ人の殺戮はヨーロッパ各地で戦乱や飢饉が起きるたびに繰り返されてきたのです。これはヨーロッパ文化の「闇の半面」です。
ですからヒットラーのホロコーストはこの伝統の延長線上に起きた悲劇だったのです。
600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロッパとソ連西部地域から狩り集められたのです。
この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは浅薄な理解です。
何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したのか?
ポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。
ヒットラーによって殺されたユダヤ人の出身国はポーランド、ソ連、ハンガリーなどです。ユダヤ人は東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かのです。

1番目の写真は「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線です。

2番目の写真はハンガリーから到着したユダヤ人(1944年)です。写真に写っている人々の顔が絶望の表情を見せています。
以上のようなユダヤ人の差別と迫害はヨーロッパの闇です。ヨーロッパ文化の暗い側面です。

さて私はカトリック教徒です。そしてアウシュヴィッツ強制収容所のあったポーランドは カトリック国です。ですからこそ最後に一言書かざるを得ません。
もともとユダヤ人だったイエス様はユダヤ人を殺せとは絶対に言いませんでした。「汝の敵を愛せ」と言い、「汝の隣人を愛せ」と言ったのです。そして異教徒のサマリア人を大切にしたのです。
ヨーッロッパ人がユダヤ人を殺すのはイエス様の教えに反するのです。それはキリスト教へ対する反逆行為なのです。ですから私はそれを「ヨーロッパ文化の闇」と言うのです。

今日はヨーロッパ文化の闇を書きました。何故ユダヤ人が殺されれたのかとい問題を書きました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)