goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「海とある孤独な男の姿」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
海が好きな人は多いようです。海釣りを楽しんだり、シーカヤックを楽しむ人もいます。あるいはヨットの単独航海を続け南極まで行く人もいます。広く深い海には巨大なクジラが棲んでいます。マグロやカツオの群れが回遊しています。サンマやイワシやニシンも沢山獲れます。しかしある時は怒り狂ったように大津波で家々を流し去ります。
人間と海は大古から深い関係があります。
気持ちが高揚している時に海を見ると心が落ち着きます。そして悲しい時に海を眺めていると慰められます。海は人間にとって親しい友人のようです。
そんなことを考えさせる光景を鎌倉の七里ガ浜で見ました。堤防に独り座った男がうなだれて海を眺めていました。
いつまでも眺めていました。初めは悲しそうにしていました。涙をそっと拭いていました。でも海に慰められて次第に明るい顔になってきました。そして静かな豊かな表情になりました。きっと故郷を遠く離れ異郷の地の日本に独り住んでいるのでしょう。私も若い時、独りでオハイオ州に住んでいたのです。悲しかったです。苦しかったです。孤独感に襲われました。
堤防の上に独り座っている男の気持ちが分かるのです。セネガルから来た人だと家内が言っていました。故郷のこと、母のことを思っているのでしょう。海は遥か彼方、どこまでも繋がっているのです。
彼は何時までも、何時までも海を眺めているのです。たぶん夕日が空を染め、夜のとばりが下りるまでそこに座っているに違いありません。ソッと私は去りました。それは鎌倉の七里ガ浜で見た光景です。その写真を示します。
1番目の写真は七里ガ浜の堤防の上に座っている男の姿です。
2番目の写真はその男の目の前に秋の陽がキラキラ輝く広い海です。
3番目の写真は足元の砂浜には繰り返し、繰り返し白波が寄せている風景です。目を上げてみると緑豊かな江の島が悠然と横たわっています。
4番目の写真は夕方の海辺です。長い間、海を見ていると次第に陽が傾き、夕方が近づいたように海や砂浜の色が少しずつ変わっていきます。

私は静かに海辺を去りました。海と静かに過ごした一日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「碧く輝くオホーツク海の風景をお楽しみ下さい」

2025年01月17日 | 写真
以前に何度も北海道の観光旅行に行きました。
ある時はウトロ港からオホーツク海に沿って海岸の道路を走りました。斜里を過ぎて小清水の廃駅そして網走までバスで行きました。右手にはえんえんと深い蒼色のオホーツク海が広がっていました。
左手には藻琴湖が横たわっています。
北海道の北岸はオホーツク海に面していますが東京に住んでいる我々はめったにオホーツク海を見ることが出来ません。それが眼前に広がっているので感激します。
何枚も写真を撮りました。その写真をお送り致します。

冬になると流氷が押し寄せ北海道の北岸はこのような風景になるのです。
碧く輝くオホーツク海の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。
1番目の写真はオホーツク海です。
2番目の写真は小清水の廃駅の傍から見たオホーツク海です。
3番目の写真は流氷館の展示室に示してあった北キツネでです。流氷の塊は零下15度に保持されて展示室で保存してあるのです。
4番目の写真は流氷館の展示室に示してあったラッコです。
冬になると流氷が押し寄せ北海道の北岸はこのような風景になるのです。

碧く輝くオホーツク海の風景や流氷の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「農家の復元展示と太平洋戦争下の小作争議」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」にある江戸時代の農家の復元、展示の写真を5枚ご覧下さい。
1番目の写真は三鷹市の野崎村の名主の吉野家の江戸時代後期の家です。
2番目の写真は東京都世田谷区岡本三丁目にあった江戸時代中期の綱島家の農家です。
3番目のの写真は綱島家の農家の入り口です。余談ながら恐しそうに、中をうかがっている人は私の妻です。
4番目の写真は綱島家の囲炉裏のそばで「昔語り」を聞くイベントの様子を示しています。
このような江戸時代の農家を復元し展示しているところは全国に沢山あると思います。
しかしそれらの裕福な農家の作りから、江戸時代から昭和20年までの農村の様子を想像したら大きな間違いをすることになります。あるいは自給自足に憧れて昔の農村を美化して夢見るとしたら、それは実態とはあまりにもかけ離れています。
日本を占領したマッカーサーが農地解放を断行するまで農村には過酷な地主・小作制度が存在していたのです。江戸時代そのままの地主と小作人の制度が続いていたのです。
ところが全国にある農家の展示はほとんど全て地主階級の農家なのです。小作人が住んでいた小屋のような家は展示されていないのです。
下記は私が昭和37年に妻の実家で実際に見た光景です。
マッカーサーの農地解放までは地主だった妻の祖父が廊下に座り、昔その小作人だった人が下の庭に膝まついて話をしているのです。その地主だった妻の祖父に恩義を感じ、農地解放後も毎年、野菜や収穫物を少し届けに来ていたのです。その光景を見た私は吃驚しました。
そこで少しだけ調べてみました。
そうしたら、「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動」
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-071.html)に驚くべきことが書いてあったのです。
あの一億総動員の戦争中に全国で小作騒動が蔓延していたのです。
戦前の農林省の官庁統計によれば、1935年の争議件数は6824件に達し、史上最高を記録したのです。その後、年を追って減少し1939年には3578件となったのです。この年以後も減少しつづけた争議件数は1941年には3308件と減り、翌年には2000件台に落ち、1944年には2160件となったのです。
農林省の官庁統計にいう「争議」にまで発展せず、紛議、紛争という形で地主と小作人との問に生起したトラブル(争い)の類を考慮にいれると、この争議の規模は官庁統計の示す数字から想像されるより、もっと深刻で大きかったと推定しても誤りではないでしょう。
贅沢は敵だ!とか勝つまでは欲しがりません!と叫んで大戦争をしていた日本の農村では小作人と地主の抗争と騒動がこんなにも起きていたのです。
勿論、この小作人騒動は共産主義者の扇動もあったのかも知れません。しかし共産主義者を特高が厳しく取り締まっていた時代です。共産主義の影響はかなり限定されたものだったと思います。
マッカーサーの占領政策には功罪もありますが、この農地解放は封建的な農村の地主制度を撤廃し、小作人を解放した大変評価すべき政策だったと思います。
小金井公園の江戸時代の農家の展示を見て廻りながら考えたことの一端を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
そうしたら、「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動」
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-071.html)

第一節 小作争議の概況
一 小作争議の件数と規模
 日中戦争開始以後、ことに太平洋戦争開始以後になると、農民が小作料を減免せよとか、小作地の引き上げ反対とかを要求して地主と争うことは、「社会主義者の煽動」による反国家的行為として官憲のきびしい弾圧をうけることを覚悟せねばならぬ情勢となった。
 しかし、以下に記すように、きびしい官憲のファッショ的弾圧と、小作調停や小作料適正化等の小作対策といえども、小作争議の息の根を完全に止めることはできなかった。太平洋戦争勃発の年、すなわち一九四一年における小作争議総件数三、三〇八件、参加小作人数三万二〇〇〇余人という農林省の公式発表数字は、このことをハッキリ示している。官庁統計にいう「争議」にまで発展せず、紛議、紛争という形で地主と小作人との問に生起したトラブル(争い)の類を考慮にいれると、この争議の規模は官庁統計の示す数字から想像されるより、もっと深刻で大きかったと推定しても誤りではないであろう。
 そこでまず、太平洋戦争下に、小作争議は全国的にみてどの程度の展開を示したかをみよう。官庁統計によれば、一九三五年の争議件数は六、八二四件に達し、史上最高を記録したのであるが、その後、年を追って減少し一九三九年には三、五七八件となった(第5表参照)。この年以後も減少しつづけた争議件数は四一年三、三〇八件から翌年には二千件台に落ち、四四年には二、一六〇件となった(注1)。これらの小作争議に参加した人員をみると(第6表)、一九四〇年には地主一万一、〇八二人に対し小作人は三万八、六一四人、翌四一年には前者の一万一、〇三七人に対し後者は三万二、二八九人となった。それ以後は参加人員は減少し、四四年になると地主三、七七八入、小作人八、二一三人となった。争議の関係土地面積をみると、四〇年には二万七、六二四町であったものが四四年には五、〇九五町に減少している。要するに総件数にしろ、参加人員または土地面積にしろ、太平洋戦争下に小作争議の規模は縮小しつづけたことがわかる。
二 小作争議の多発地域
 一九四〇年における小作争議の件数を府県別にみるとつぎのとおりである。すなわち、山形(二七五)、秋田(二一〇)福島(二一〇)、北海道(二〇〇)、山梨(一七八)、福岡(一四八)、青森(一三三)、富山(一二三)、宮城(一一四)、広島(九三)。翌四一年においては、山梨(二一三)が最も多く、ついで北海道(一九八)、秋田(一九三)、福島(一八四)、宮城(一七八)、福岡(一四四)、山形(一三一)、富山(一三〇)である(昭和一五・一六年「農地年報」による)。これによってわれわれは、小作争議は山形・秋田・福島・宮城など東日本、ことに東北地方に多発しており、大正中期から昭和初期にかけて争議多発地帯として記録された近畿・中国地方など西日本では、福岡など一部をのぞき、多発地の地位から退いたことを知るのである。もっともこのことは、太平洋戦争が開始された以後の新しい傾向というわけではなく、大正中期に小作争議が本格的に展開しはじめたころは、岐阜・愛知・大阪・兵庫・奈良など中部地方、近畿地方と岡山・香川・福岡などの地方がその多発地帯として聞こえたのであり、昭和初期にはいるとそれが東北・北陸・北海道の諸地方に拡大し、やがて後者の地方に小作争議の主戦場が移るようになったのである。
 また小作争議の規模を地域別に観察すると、一九四〇年においては、福井・山梨・愛知・大阪・兵庫・島根・広島・熊本等の府県では関係人員多く、その関係土地面積も比較的広いが、件数の多い東北地方では反対に関係人員・土地面積からみてその規模は小さい。翌四一年においても、東北地方は争議は多発しているがその規模は岐阜・奈良・山梨・愛知などに比べると小さく、小土地をめぐる少数の地主・小作人間の個人的争いの性格が濃い。以下省略

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所

「秘境の苦しい生活と離れ島の生活」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は偶然生まれた場所により、その後の人生が大きく変わるものです。この世の不条理です。
老境にいる私はいろいろな所に旅をして楽しんでいます。しかし訪問先の地方地方の生活があまりにも違うことに驚かされます。
場所によって自然が与えてくれる食べ物にあまりにも大きな差があるのです。
常に飢えを心配している山奥と、海に出れば四季折々、必ず漁のある小島の生活とはあまりにも違いがあるのです。
今日はその一例として山奥の秘境、秋山郷と熱海の沖にある初島の生活を比較してみます。
2012年の秋に長野と新潟の県境の、「秘境、秋山郷」の旅に行きました。
1番目の写真にあるような小型バスがやっと通れるような山道を根気よく分け入ると益々紅葉が綺麗になっていきました。
そして山の奥には昔、13もの村落が存在していたのです。
バスのガイドさんが、「江戸時代の飢饉で村落全員が死に絶えたところもありました」 と悲しげに説明してくれます。
衝撃を受けました。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。改めて見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
そこで帰宅してから江戸時代の秋山郷の生活ぶりを記述した「北越雪譜」を丁寧に読み直してみました。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵もあります。
そして鈴木牧之は山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
その鈴木牧之の実地調査によると、家々では大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。
フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
飢饉で一村が全滅した時もあったのです。その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
考えてみると険しい山々の連なる山奥には人間の食べられる野生の植物や木の実は非常に限られた量しか生育しません。わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年もあります。その時には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。そしてそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
山の幸とよく言いますが、わずかな春先の山菜や秋のキノコや栃の実だけです。それも冷害で、取れない年が何年に一回巡りくるのが山奥の秘境なのです。
私はいろいろ考えています。何故、ヤギやウサギを飼育し、夏に太らせて冬に食べないのだろうかと考えます。ヤギやウサギは草食なので山の木々の若葉や下草で育つはずです。それを食べなかったのは江戸時代までの仏教の戒律だったのかも知れません。四足の動物は殺して食べてはいけないのです。場所によってはイノシシをや山クジラと称して、コッソリ食べていた地方もあったのに秋山郷ではそんな話も聞きませんでした。
秋山郷のこの悲惨な生活条件と対称的な場所は静岡県の熱海の沖にある初島という離島です。四季折々、回りの海から魚介や海藻がとれるのです。食糧に困ることはあっても秋山郷のような悲惨な飢饉は起きなかったのです。
2番目の写真は熱海と初島の間の客船の上から撮った初島の写真です。
初島は温暖な海に囲まれた島で、四季折々、魚貝が手に入ったはずです。
それでも生活は厳しいいので江戸時代から島全体の家の数を41家に厳密に制限した歴史があったのです。
熱海から船で30分の初島には2012年当時でも41家族しか住んでいませんでした。
長男が跡を継ぎ、娘だけの家では長女が婿をとり、家の数を一定にする伝統が現在でも生きていたのです。長男以外の子供は島を出ます。
近海漁業と畑作だけの島では41家族しか生きて行けないからです。
島に上陸してみると火山灰のような保水力の無い土が島を覆っているのに気がつきます。作物が出来にくく、真水に困る土地と分かります。これでは生活が苦しい筈と心が痛みます。しかし海の幸が飢饉を防いできたのです。
島はあくまでも平和です。明るい雰囲気なのです。立派な家も貧しげな家も混在していません。41家族に貧富の差が無いようです。漁港に引き上げられ、並んでいる41隻の小型漁船は下の写真が示すように、みな同じ大きさです。
3番目の写真は初島に並んでいる41隻の小型漁船です。
漁期の申し合わせによって平等に魚や貝や海藻が行き渡るようにしているそうです。
苦しいとはいえ秋山郷の村落の生活の悲惨さに比較すると天国のような生活です。
下にこの初島の春の光景を示します。2012年の春に撮った写真です。
4番目の写真は初島の春の光景です。2012年の春に撮った写真です。

こんなにも狭い日本でも場所によっては生活条件が非常に違うのです。
「海の幸」の対句として「山の幸」という言葉があります。しかし海の幸が圧倒的に多くて、山の幸は僅かばかりです。
これがこの世の現実です。一体神様は何故このような不平等を作るのでしょうか?不可解です。
人間は偶然生まれた場所により、その後の人生が大きく変わるものです。この世の不条理です。

何故か心が静まり自然に頭が下がります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)