後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「何故か郷愁を誘う農家の写真」

2024年03月22日 | 写真
戦前に生まれた私は少年の頃に藁ぶきの農家をたくさん見した。疎開先の農家も藁ぶき屋根でした。それで藁ぶきの農家を見ると郷愁で胸があつくなります。
それにしても藁ぶきの農家は少なくなりました。時代の流れです。嗚呼。

はじめの2枚の写真は小金井公園で昨日、私が撮りました。あとの写真はインターネットからお借りしました。

「自分自身で体験した戦後の日本語の激変ぶり」

2024年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争で日本は敗れました。そうしてアメリカの軍隊が全国の津々浦々を占領しました。このアメリカ軍の占領で日本の社会が激変しました。明治維新以来の軍国主義の社会が自由と平等が徹底した民主主義の社会に急変したのです。日本語も変わりました。日本人の職業や階級による言語の違いも無くなったのです。
昭和11年生まれの私はこの激変をつぶさに見聞きし体験したのです。
今日は戦後の日本語の激変について書きたいと思います。
まず職業別の言葉の違いの一例を書きます。私の少年の頃の体験です。
終戦前に交番の前を歩いていると巡査が「おいこら!」と大声で私を呼び止めます。退屈しているので少年の私と話をしたいのです。巡査は威張って交番から出て来て私にサーベルを見せるのです。そんなことが2,3回ありました。大人に対しても巡査は「おいこら」「きさま」など威張った言葉を使っていました。
しかしアメリカ軍が占領して来ると巡査は「おいこら!」などと言わなくなりました。
単に巡査だけでなく日本人の上からの威張った言葉が少なくなりました。
社会から敬語や丁寧語が急に少なくなりました。職業による話し言葉の違いもなくなりました。
その上美しい女言葉も少なくなりました。
以前にNHK放送で有楽町で夜の女をしていたオトキさんの美しい女言葉を放送していました。あまりにも綺麗な日本語なのでNHKが録音して何度も放送していたのです。
現在でも美しい女言葉を話す人は沢山います。しかし英語には女言葉が無いと言って男言葉を話す女性も沢山います。困ったものです。
男と女の言葉が別なのは日本の素晴らしい文化だったのです。

それからアメリカ軍が占領して来ると日本語にやたらカタカナ語が混じるようになりました。意味不明のものもあります。困ったものでした。
戦後アメリカ軍のカービン銃を使った強盗が捕まりました。そしたら犯人が、「オー、マイミステーク!」と叫びました。このことがマスコミに出ると「オー、ミステーク!」が日本中の流行語になりました。
戦後の日本語の変化はまだまだまだありますが、長くなるので止めます。

今日は戦後の民主化による日本語の激変の数例を書きました。激変したのは言葉だけでなく職場や家庭における人間関係も変わったのです。私は民主主義というものを肌で体験しました。

今日の挿絵代わりの写真は家内が撮った甲州の桜の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

1番目の写真は韮崎の「わに塚の桜」です。古代の有力者の墓の「わに塚」に亭々と茂った桜木が満開になっている風景です。周囲には何も無い一本桜です。

2番目の写真は北杜市武川の「真原の桜並木」です。500m続く高原の桜並木です。

3番目の写真は「真原の桜並木」の西に聳えている甲斐駒岳です。残雪の甲斐駒岳が美しく輝いています。

4番目の写真は「清春美術館」の門を飾っている桜です。昔の小学校の跡地なのでぐるりと満開の桜木が囲んでいます。

5番目の写真は甲斐駒岳の麓の桜の咲いた山です。桜が山々に咲いていますが山桜ではなく種を鳥が運んだソメイヨシノです。
===参考=========================
有楽町のお時、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%81%AE%E3%81%8A%E6%99%82
以下は抜粋です。

1947年4月8日夜20時頃にNHKのアナウンサー・藤倉修一がラジオ番組『街頭録音』のために、お時ら有楽町界隈のパンパンへのインタビューを行った。
 お時は次のように語った。 
「中流家庭以上の子が大部分占めてるような気がする。ほんとに生活に困ってるって(略)人は少ないんじゃないのかしら。(略)あたしの見たところではね。 」
お時は20歳ごろ、千葉県内で造り酒屋を営む男性と結婚するも、1年ほどで離婚する。生まれたばかりの娘を引き取って東京に戻り、通称「銀座裏」でホステスとなる。その後土建業者の男性と再婚し、息子をもうける。1956年の毎日新聞のインタビューに応じた時点では、東京都内で結婚生活を送っていた。1970年に週刊誌の取材に応じた時点では料理店に勤務し、子供や夫の両親を含む6人で暮らしていた。藤倉修一とはたびたび年賀状のやり取りをするなど、長く親交を続けた。
日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』(2004年)は「焼鳥屋、結婚、離婚、クラブのママ、と変転が伝えられたが、消息不明に」と結んでおり、お時の詳しい後半生はほとんど明らかになっていない。