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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「『次郎物語』の作者、下村湖人の旧宅の新緑」

2023年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム
午後に『次郎物語』の作者、下村湖人の旧宅の新緑の写真を撮りに行きました。下村湖人の旧宅は小金井市の文化財として保存されています。昔若い頃に『次郎物語』を読んで感動したこと想いながらゆっくり写真を撮りました。写真を示します。
1番目の写真は下村湖人の旧宅の現在の屋敷森っです。
2番目の写真は『次郎物語』を執筆した下村湖人の旧宅です。倒壊しそうな状態です。
3番目の写真は下村湖人の旧宅の庭の樹々は大きく成長して新緑が綺麗です。
4番目の写真は庭の池です。周囲の新緑を静かに映していました。
下村 湖人は1884年(明治17年)10月3日に生まれ、 - 955年(昭和30年)4月20日に亡くなりました。
佐賀県神埼郡崎村出身、東京帝国大学英文科卒、大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任しました。教職辞任後は講演や文筆活動で社会教育に尽力し、青少年に影響を与えた『次郎物語』の著者として有名になりました。
『次郎物語』は長編教養小説です。全五部あり未完です。 
あらすじを示します。・・・士族・本田家の次男として生まれた次郎は、幼少時から尋常小学校の校番の妻であるお浜の元に里子に出されていた。「孟母三遷の教え」をまねた、母親・お民の教育的配慮からである。そして次郎は母よりもお浜に懐き、実家を敬遠するようになる。
いやいやながら戻された次郎にとって、格式ばった実家は居心地の悪い場所であった。祖母・おことは次郎を露骨に差別待遇し、兄の恭一や弟ばかり可愛がる。次郎の側でも当てつけに喧嘩やいたずらを繰り返し、お民から説教を浴びせられるのだった。それでも、父親の俊亮、祖父の恭亮、さらにお民の実家である正木家の人々に見守られながら成長していく。
おことの差別待遇は改まらず、次郎は正木家に引き取られる。やがて恭亮が死に、お民は結核に侵され、俊亮も連帯保証人になった相手が破産したため次郎はお民の介護をする事となる。献身的な介護を続けるうち親子のわだかまりは解け、次郎とお民は肉親としての思慕を募らせる。
やがてお民は危篤状態に陥る。ついに迎えた臨終の際、兄弟三人揃って死に水をとり、臨終の宣告の後お浜に肩を抱かれ号泣して親族の涙を誘った・・・
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E9%83%8E%E7%89%A9%E8%AA%9E  )

今日の午後はゆっくり新緑の写真を撮りながら「次郎物語」を思い出していました。静かな午後でした。

「この季節に咲いているハナミズキの花の写真」

2023年05月01日 | 写真
4月から5月へと向かう新緑の季節に、みずみずしい花を咲かせる樹木がハナミズキです。
ハナミズキはアメリカヤマボウシという別名があります。原産地はアメリカでドッグウッドと呼ばれ、北米東部からメキシコ北東部に分布しています。
ハナミズキの花は本来の花弁ではなく、総苞片(そうほうへん)と呼ばれる花のつけ根の葉です。
本当の花は、総苞片に囲まれた中央部に小さな花が寄り集まったようにいくつも咲きます。
ハナミズキとヤマボウシ(山法師)の花の写真をお送り致します。写真は「ハナミズキの花」を検索してインターネットにある数多くの写真から選びお借りしました。 

「4月に旅立ったニコルさんとその友人のHootaさんの思い出」

2023年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年の4月3日にC・W・ニコルさんが亡くなりました。享年79歳でした。日本の山林を愛して黒姫山に住んでいた方でした。私はいろいろなことを思い出しました。
今日はニコルさんとニコルさんの友人、Hootaさんにまつわる思い出を書きたいと思います。Hootaさんは日本人で後に私の友人になりました。
ニコルさんは日本人の真理子さんと結婚し黒姫山の森の中に住み着いて雑木林の保護活動をしながら山林の美しさについて数多くの文章を書きました。クヌギ、コナラ、シデ、エゴ、カシワなどの混じった広葉雑木林が好きな私はニコルさんの山林に関する随筆が大好きでした。
ニコルさんと真理子さんの住んでいた近所の北信の黒姫山と野尻湖の写真をお送りします。
1番目の写真は黒姫山です。湖は野尻湖です。写真の出典は、 https://yamahack.com/2037 です。
ニコルさんは英国ウェールズ生まれです。17歳でカナダに渡り、環境や動物の保護、調査研究に従事します。1962年に初来日します。1980年に長野県へ移住し、少説やエッセーを執筆する傍ら、環境保護活動に取り組んだのです。荒れた里山を購入して「アファンの森」と名付けて再生を実践もしました。
2002年には「C・W・ニコル・アファンの森財団」を設立して理事長を務め、活動を全国に広げます。
 著書に小説「風を見た少年」「勇魚」、エッセー「誇り高き日本人でいたい」などがあります。1995年に日本国籍を取得したのです。そして2020年の4月に日本の土になったのです。
そして妻の真理子(芸名、ニコル麻莉子)さんは日本画家、音楽家です。1980年に入籍し長野県黒姫に住みひとり娘を儲けました。
さてところでニコルさんと言えばHootaさんのことを思い出します。
そのHootaさんはニコルさんと共に山林の保護活動をしていたのです。
そして彼はニコルさんの温かさや優しさに感動していたのです。
ニコルさんの魅力的な人柄と黒姫に造成した美しい林のことをしみじみ聞いたのはHootaさんの大きな木造ヨットの中でした。
美しいチーク材で内装したキャビンの中で飲み合いながら聞きました。
2番目の写真は千葉県の保田魚港に係留してあったHootaさんのハンスクリスチャン41型のヨットです。2009年4月に初めて艇長のHootaさんとを一緒にビールを飲んだ時の写真です。
3番目の写真は駿河湾の沼津に近い漁港に舫っているハンスクリスチャン41です。この日は私も駿河湾のセイリングを楽しむことが出来ました。
4番目の写真は駿河湾の風を受けて疾走するハンスクリスチャン41です。
ついでにその頃乗っていた自分のヨットの写真も示します。
5番目の写真は霞が浦を帆走している自分のヨットです。家内が2009年に撮りました。私のヨットの趣味は葉山や江の島で小型ヨットのディンギイで2年、霞が浦でYAMAHA-19での10年、Joyluck-26での13年間、合計25年間の趣味でした。
さてHootaさんが言ってました。「ヨットを持っている人は、普通の人々で生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」
Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。安定した職業をサラリと止めて、ニコルさんのレンジャー養成学校の先生になりました。ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。
そうして全ての人との出会いに感謝している様子なのです。ああ、こういう人をジェントルマンと言うのだと感じました。

このようにヨットの趣味を続けながら私は親切な人に沢山出会いました。
そのお陰で私の視野がすっかり広がりました。

今日は2020年の4月3日に亡くなったニコルさんをご紹介致しました。そしてニコルさんの友人だったHootaさんのことを書きました。Hootaさんは日本人で後に私の友人になった方です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)