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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の宗教的風景(4)世界文化遺産の『 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』のご紹介」

2022年06月22日 | うんちく・小ネタ
国連のユネスコは日本の世界自然遺産、4件と世界文化遺産、19件を認定しています。今日はこれら日本の世界自然遺産と世界文化遺産をご紹介したいと思います。
さて世界遺産(World Heritage Site)とはそもそんも何でしょう?
世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて認定されたものです。そてらは文化や自然などで、人類が共有すべき貴重な物件のことです。但し、移動が不可能な不動産が対象となっています。ですから源氏物語や浮世絵などの文学作品や絵画芸術は対対象になっていないのです。
さて日本には世界自然遺産が4件と世界文化遺産が19件あります。
この中で 世界文化遺産の『 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』はカトリック信者にとって一番重要なものです。キリスト教関連の日本の 世界文化遺産はこれが唯一です。
そこでこの世界文化遺産をご紹介したいと思います。

さて「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産になったの結果、今まで外人観光客が知らなかった天草地方や五島列島へも外人観光客が行くようになったのです。そして日本の隠れキリシタンの歴史を知るようになったのです。世界文化遺産への認定の効果です。
隠れキリシタンの歴史は日本人の精神文化の誇りです。250年近くの禁制の中でも人々は勇気をもって、不屈の精神で信仰を を守ったのです。この日本民族の勇気と不屈の精神文化が高く評価されて国連の世界文化遺産として認定されたのです。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの離島にあるのです。
これはキリスト教の信仰が禁じられた禁教期に厳しい弾圧を受けながらも日本の伝統的な宗教や社会と共生しながら独自の形で信仰を続けた潜伏キリシタンの精神文化の歴史を伝えるものです。
もう少し詳しくは構成資産の内容は次の3つの種類になります。
1、日本が厳しい鎖国政策をとるきっかけとなった「島原・天草一揆」で信者たちが立てこもった「原城跡」、
2、弾圧を逃れて移り住んだ離島の集落、
3、1865年に、潜伏キリシタンが外国人神父に信仰を打ち明けた「信徒発見」の舞台となった「大浦天主堂」、などです。

登録がされた12の資産は以下の通りです。
1、原城址
2、平戸島の聖地と集落 - 春日集落と安満岳
3、平戸島の聖地と集落 - 中江の島
4、天草の崎津集落
5、外海の出津集落
6、外海の大野集落
7、黒島の集落
8、野崎島の集落跡
9、頭ヶ島の集落
10、久賀島の集落
11、奈留島の江上集落 - 江上天主堂とその周辺
12、大浦天主堂

この12の世界遺産は1原城址 と12大浦天主堂の2つ以外は全て集落になっています。
これはこの世界遺産の特徴です。何故、過疎の集落が世界遺産になったのでしょうか?
理由はその集落が禁教の江戸時代にどのような内容の信仰を守っていたかということに焦点が絞られているからです。
それぞれの集落で独自のキリシタン信仰を守って来たのです。その文化活動を高く評価して世界遺産として子孫へ伝承しようというのが認定への理由なのです。
10の集落の独自の信仰のあり方を全て説明するとこの記事はあまりにも長々しいものになります。
そこで1つだけ天草の崎津集落 だけを一例として以下に示します。

1番目の写真は天草の崎津集落とカトリック崎津教会です。
天草の﨑津集落は、生活、生業に根差した身近なものをキリシタンの信心の対象としていました。それは漁村特有の信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落でした。(http://kirishitan.jp/components/com004 )
﨑津集落では、指導者を中心として自分たち自身で信仰を続けるために、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスとして崇拝していました。そして、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて拝んでいました。これは漁村特有の信仰形態です。
明治5年の禁教廃止の後に﨑津集落の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てました。
認定されたものは、潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた旧﨑津教会堂跡などです。

﨑津集落は15世紀にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まりました。
禁教期になると、﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏(えふみ)」が行われるようになりました。
村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され、「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理されたのです。
﨑津集落の潜伏キリシタンは、表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となったのです。
集落内には、禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡があります。﨑津集落では、禁教期においても小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行った来たのです。
 
1805年、潜伏キリシタンの信仰が発覚する「天草(あまくさ)崩れ」では村人の7割が潜伏キリシタンとして検挙され、代官所は潜伏キリシタンが所有する信心具を﨑津諏訪神社に差し出すように指示して没収しましたが、村人は「心得違い」として処罰されなかったのです。
 19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、カトリックへと復帰しました。
そして1888年、﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てたのです。
この木造教会堂は、老朽化により移転、新築されます。跡地には修道院が建てられ今日に至っています。
 現在の﨑津教会堂は、1934年、踏み絵が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられました。
会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏が行われた場所を選んで設置されたと言われています。

上記と同じような歴史は認定される10ケ所の集落にもあります。しかし長くなるので省略します。もう少し写真を示します。

2番目の写真は無人島になってしまった五島列島の野崎島の集落跡に残った教会です。

3番目の写真は長崎の外海の出津集落の全景です。

4番目の写真は国宝の大浦天主堂の内部です。

今日は日本の世界文化遺産の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を少し詳しく説明しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしい茅葺屋根のお寺の写真」

2022年06月22日 | 写真
茅葺屋根のお寺は何故か郷愁を感じさせます。祖父が住職をしていた兵庫県の田舎の質素なお寺を思い出します。
そこで「日本にある茅葺きのお寺」を検索しました。驚いたことに21世紀の現在でもまだ沢山あるのです。
その中から6つのお寺の写真をお送りいたします。特に2番目と3番目の写真は自分で撮った広徳寺の写真です。私の好きなお寺で何度も行きました。

1番目の写真は茨城県の浄蓮寺です。 

2番目の写真は東京都あきる野市の広徳寺の本堂です。
3番目の写真は広徳寺の山門です。

4番目の写真は山形県米沢市の笹野寺です。
5番目の写真は岩手県奥州市水沢区黒石町にある曹洞宗の圓通正法寺です。

 6番目の写真は京都市 伏見区深草坊町の瑞光寺です。

7番目の写真は山梨市にある重要文化財の清白寺の庫裏です。

今日は郷愁をさそう茅葺屋根のお寺の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)