後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

帆船カティサーク、帆船日本丸、そして私の帆舟、その一

2018年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
帆船にはロマンがある。その姿を見ているだけで心が豊かになる。風という自然現象に従って大海原を走る。自然と一体なのだ。
たまにはそんな帆船の話を書いて楽しんでみたいと思う。昨日、帆船Cutty Sarkのラベルのついたスコッチを傾けながら記事の構想が浮かんで来たのです。
連載の第一回目はイギリスで復元、公開展示してある帆船Cutty Sarkを、そして第二回目は横浜に係留公開してある帆船日本丸を簡略にご紹介し、最後に自分が乗っていたクルーザーヨット(帆舟)をご紹介したいと思います。

帆船の構造は簡単に言えば船体に高いマストを建てて何枚もの帆を上げて風の力を掴み航海する構造になっています。
マストと帆に何本もロープが付いていて、風の強弱に従って上げたり降ろしたりするのです。
風の力だけでは港への出入りが不便なので小型の蒸気機関かジーゼルエンジンが補助的についています。

さてカティサーク(Cutty Sark)は19世紀に建造されたイギリスの快速帆船です。

1番目の写真はイギリスで復元され展示してあるCutty Sarkです。船体の中央に蒸気機関の煙突が立っています。その右脇に船を推進させる内輪の白いカバーが見えます。
このCutty Sarkは中国からイギリスまで紅茶を輸送する「ティークリッパー」として活躍しました。
いかに速く一番茶をイギリスへ届けるかを競ったのです。
カティサークは現存する唯一のティークリッパーとしてロンドン近郊のグリニッジで保存展示されているそうです。

当時、イギリスの国民的な飲物である紅茶をいかに新鮮なまま届けるかに高い関心が集まっていたのです。最初に届けられたその年の一番茶は高値で取引され、船主や船長は莫大な利益と名誉を得ることができたそうです。
紅茶輸送のための快速船ティークリッパーが多数建造されましたが、Cutty Sarkはその中の一隻だったのです。
ティークリッパーは外洋で高速が出せるよう、通常の帆船に比べ前後に細長い形状をしていました。港湾内で小回りの利かないこのような船型が可能となった背景には、蒸気機関を積んだためと考えられます。
しかし可能な限り多量の紅茶が積めて、外洋で高速が出る設計が難しいのです。その為には蒸気機関を小さいものにし、石炭も少ししか積みません。出来るだけ大きな帆を何枚も張らなければなりません。
それは外洋帆船レースの技術の粋です。だからこそ快速船ティークリッパーのCutty Sarkはイギリス人の夢と希望だったのです。
Cutty Sarkを復元し展示してあるのは、それがイギリス人の誇りだからです。

それではもう少しCutty Sarkの構造を見てみましょう、

2番目の写真は3本のマストと長い横桁(ヤード)の写真です。
この写真で一番目が行くのはロープ類です。ロープ類は使用目的別にハリヤードとかステイとか固有の名前がついています。
このロープ類は帆船の命です。
2番目の写真を見ると3本のマストに横になった帆桁(ヤード)が何本かずつついています。
ゴチャゴチャした写真なので大型帆船の構造は一瞬にして分かるというわけにはいきません。
しかしロープ類は次の2種類しかないのです。
1)マストをしっかり立てるため船体へ固定したロープ類(クルーザーではステイとシュラウドと呼ぶ)
2)何枚もの帆を上げたり、向きを変えるためのロープ類(クルーザーではハリヤードやシートと呼ぶ)
大型帆船ではロープ類が多数ついていますが、このように2種類だけに分類出来ます。
なおこの二番目の類には横桁(ヤード)の上下や向きの調整をするロープも含んでいます。

さて、どのロープを引くとどうなるか?一切心配無用です。甲板上の装置は全て人力で動かすのです。分からない時は手で引っ張ってみて、何処が動くか見れば簡単に理解出来るのです。

閑話休題。カティサークという船名の由来をご説明して終りといたします。

3番目の写真はカティサークの船首像の写真です。
カティサーク (Cutty Sark) とは、スコットランド語で短い (Cutty) シュミーズ (Sark) を意味するそうです。
ロバート・バーンズ (Robert Burns) 作の詩「タモシャンター」Tam o' Shanter に登場する魔女に由来すると言われています。
農夫のタムが馬にのって家路を急いでいると、悪魔や魔法使いが集会をしているところに出くわします。そこでタムは、カティサークを身にまとった若くて妖艶な魔女に魅了され、思わず立ち止まります。そのとたん、にわかに空が暗くなり、魔女たちがタムを捕まえようとしました。タムは馬にまたがり、命からがら逃げ出します。カティサークの魔女は馬の尾をつかまえたものの、尾が抜けてしまったため、タムは逃げのびることができたのでした。
3番目の写真のカティサーク号の船首像はカティサークを身にまとった魔女であり、その手には馬の尾が握りしめられているのです。
スコットランドの話には怖いものがありますね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

貧乏な家に生まれた故に一生不幸な人、そうではない人

2018年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
櫻花を見ると人はいろいろなことを想います。そのあでやかな美しさを愛しながらも、悲しい思い出が湧き上がる時もあります。家族と一緒に花見をして楽しかったことも思い出します。
悲しいと言えば貧乏な家に生まれたために一生不幸だった人のことを考えています。また
貧乏な家に生まれたが、一生幸せだった人のことを考えています。
神様は何故このように不公平なのでしょうか?
今日はこのような謎を書いてみます。
その前に今年撮った桜の写真をご覧ください。いろいろな角度と構図で撮った写真です。櫻花の淋しさ、華麗さ、奥深い美しさ、あでやかさを表現したつもりの5枚の写真です。

1番目の写真は櫻花の淋しさを表現したつもりです。小川の上に差し掛かっている一枝の咲きかけた桜を橋の上から見下ろして撮った写真です。

2番目の写真も櫻花の淋しさを表現したつもりです。背景に黒い太い幹を写して咲きかけた花が弱々しく頼りなげに見えています。

3番目の写真は背景を青空にして満開の花の華麗さを表現したつもりの写真です。

4番目の写真は枝垂れ桜です。枝垂れ桜の並木の奥の方まで写した写真です。並木の奥深い美しさを表現したつもりです。

5番目の写真は明るい春の陽に輝く櫻花のあでやかさを表現したつもりの写真です。
このように桜は写真の撮り方によっていろいろな表情を見せてくれます。
昨日は花吹雪の美しい光景を何度も見ましたが、花吹雪の風景を写真に撮るは難しいのです。

さて今日の本題に戻ります。
貧乏な家に生まれて一生不幸だった人と、一生幸せだった人の実例です。
私のよく知っている過疎の村に貧しい家に生まれ不幸な人が一人で住んでいました。その近くに一軒の別荘がありました。その別荘の主の話です。
その別荘の主は過疎の村の一人暮らしの人の生活を助けるボランティアを20年間もしていたのです。
一人暮らしの人の家の周りの雑草を取り、車で買い物に連れて行き、遠方の病院にも車で送迎していたのです。
私は過疎の村の一人暮らしの人と別荘の主の両方を良く知っていました。
ところがある時、別荘の主が20年間も続けていたボランティア活動を突然止めてしまったのです。
別荘の主に聞けば、「彼には一切感謝の気持ちが無いのです。何をして上げても感謝しないのです。私は勝手にボランティア活動をしているから、それでも気にしてませんでした。ところがある時、「役所の福祉課の人や病院の人には感謝したほうが良いよ」と意見したのです。
そうしたらいきなり怒り出して絶交だと言うのです。
私は別荘の主が正しいと言いました。
後で別荘の主は長いメールをくれました。そのメールによると別荘の主も貧乏な家に生まれて大変苦労したそうです。
「しかし幸せな一生でした」と書いてあるのです。貧乏に生まれ育つと周りの人が必ず少し助けてくれるのです。その時は心を込めて、「ありがとうございます」と言いました。
このように感謝すると周りの人はもっと助けてくれるのです。親切な親類のお陰で大学まで卒業出来たのです。
貧乏な家に生まれて一生不幸だった人と、一生幸せだった人の別れ道は感謝するか、しないかです。これが彼の長いメールの結論でした。

神様は何故このように不公平なのでしょうか?
他人へ感謝出来る人と出来ない人を作るのです。これこそ最大の不公平です。

話は飛びますが、先日、「幼児の言語障害と老人の会話能力を改善する言語聴覚士の活躍」(2018年03月23日掲載)という記事を書きました。その中で対人関係がうまく作れないアスペルガー症候群という発達障害のひとつをご紹介しました。
コミュニケーション能力や社会性、想像力に障害があり、感謝も出来ないので対人関係がうまくいかない障害のことです。アスペルガー症候には知的障害の症状はないので、周りからは「変人」と思われがちです。
これは子供が生まれる前の胎児の間に脳の機能の成長が正常でないことで起きます。いろいろな発達障害の一つです。
発達障害は治療法が困難なのです。しかし周囲の人間がどのような対応をしたら本人が幸せに暮らせるかは解っているのです。

他人へ絶対感謝出来ない人はひょっとするとはアスペルガー症候なのかも知れません。本人の罪ではないのです。
本人へ説教しても、それを理解出来ないのです。無駄です。本人を一層不幸にするだけです。
神様におまかせするしかないのです。

風に散る桜の花吹雪を見ながら、私は深い溜息をつきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)