後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の小金井公園の桜はまだ三分咲きでした

2018年03月24日 | 写真
桜の時期の小金井公園は人出が多くて駐車場に入れません。そこで今日は勇んで午前中から行きました。ところが、桜はまだまだでした。ひどく甘い言い方をすれば三分咲きでした。
それでも花見客があちこちの桜の下で花見の宴を開いています。今日は桜の花々より花見客の方が元気でした。若者の賑やかなグループの傍らで、しっとりと穏やかに花を愛でている年輩のご夫婦の姿に心惹かれました。
来週の火、水、木曜日ころが満開になるのでしょう。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。










太平洋戦争で米軍の日本上陸に備えた陸軍の戦略

2018年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後のアメリカ占領軍は日本の軍国主義を徹底的に消滅させるために新聞や雑誌の厳しい検閲をしていました。特に旧陸軍の作戦計画や勇ましい戦闘行為に関する情報は一切出版禁止の上、新聞記事も削除されていました。
例えば沖縄での敗北後の米軍の本土上陸に備えた陸軍の防御態勢も一切発禁になっていました。
それに関する情報は戦後、占領軍よって闇の中に葬られていたのです。
しかし戦後、上陸してくるアメリカ兵を竹槍で攻撃する計画だったという噂だけが流布していたのです。
ところが3月13日の記事で紹介した陸士59期生の立石 恒氏に「竹槍で本土防衛は無理でしょう」と言いましたら「いや綿密な防御戦略が出来ていたのです」と言って一冊の本を貸してくれました。

その本は、土門周平ほか著、「本土決戦ーまぼろしの防衛作戦と米軍進攻計画」光人社2001年5月13日発行、です。
まず本土決戦の防衛作戦がやっと2001年になってから公開された事実にご注目下さい。
この本には米軍の上陸が予想された九州南部と関東地方の地図があり、日本陸軍の勢力の配置と防御陣地の建設予定地が詳細な図で示してあるのです。
この図面の詳しさから著者が1945年7月の参謀本部の作戦計画の文書と地図を入手したことが分ります。
その上、アメリカ側の本土上陸計画を入手して、そのオリンピック作戦という名の九州上陸を1945年11月1日に始める計画だったと書いています。続いて、コロネット作戦という名の関東地方への上陸は1946年初頭と計画されていました。
そしてアメリカ軍の本土上陸の総司令官はマッカーサー将軍であることも決まっていました。

驚くべきことは、この米軍の本土上陸の場所を当時の陸軍参謀本部が正確に推定していたことです。
それでは九州南部の志布志湾と薩摩半島の広い浜辺の防衛体制をもう少し詳しく見てみましょう。
陸軍は志布志湾の海岸に第十六方面軍の兵力を集中し強固な陣地を構築する計画でした。火砲は、野砲14門、野山砲8門、榴弾砲24門、カノン砲24門を志布志湾を取り囲む陣地に配備して上陸して来るアメリカ軍を水際で撃退する計画でした。
そして薩摩半島の海岸線にも同様の陣地を構築する計画でした。
これに対して上陸するアメリカ軍は航空機攻撃も併用し、次のような計画でした。四個軍団の上陸部隊は一挙に志布志湾と薩摩半島に侵攻する計画でした。
これを支援するアメリカの海軍は多数の水陸両用車部隊、艦砲射撃部隊、護衛および攻撃型の航空母艦部隊が海を覆いつくす計画でした。アメリカ軍は橋頭保を確保したら九州南部を占領し、本州攻撃用の飛行場を急いで作る予定でした。
この日米の戦力を比較すると素人でもアメリカ軍が容易に九州南部を占領出来ることが分ります。

このような陸軍の防御態勢は九十九里浜と相模湾の浜辺にも構築される予定でした。あまり長くなるので省略します。
アメリカ軍の本土上陸の前に、陸海軍の参謀本部と天皇陛下が長野県松代に移転しなければなりません。その巨大な地下壕の設計図は3月13日掲載記事と写真で紹介した通りです。

こんな本土防衛計画を作っている最中の8月初旬のご前会議で昭和天皇が終戦の決断をしたのです。あくまで本土決戦を主張する陸軍大臣の意見を無視して、終戦に賛成した海軍大臣の意見を取ったのです。戦後、陸軍の防衛陣地の構築が手つかずの状態だった事実が判明して昭和天皇の決断の正しさが明らかになったのです。
たしかに参謀本部の防衛計画は綿密でよく出来ていました。しかしそれを計画通りに実行するためには陸軍に残された兵力と軍備はあまりにも貧弱だったのです。
このような事実は事実として日本民族は忘れべきではないと思います。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た近所の桜の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)