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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人と欧米人の違い、心に思う光景の違い

2018年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人と西洋人は異なる文化なのだから、違うのが当たり前だ。何を今更とお思いになりますでしょう。でもまあ読み流して下さい。
今日は子供のころから心に抱く「宗教的な光景」の違いを明らかにしてみようと思います。
この違いを明確に認識して、お互いに尊敬しましょうというのが今日の記事の主張です。
続編には欧米人と日本人との完全に共通した「家族愛」と幸せな国際結婚について書きます。

さて日本人は子供の頃から神社のお祭りに行きます。練り歩く御神輿を見物します。そして家族揃って墓参りに行きます。
これらのことで見る光景は宗教的光景として人々の心に焼き付いています。そして観光で訪れた奈良や京都の寺の光景や本堂に祀られている如来や菩薩などの仏像の姿も心に抱いています。実際に見たことの無い人でもテレビや雑誌の写真で何度も見て、知らず知らずのうちに心に焼き付いています。

一方、西洋人は子供の頃から教会のある村や町の風景を見ています。教会の中の祭壇とその後ろの十字架の光景を見ています。
クリスマスには家族揃って楽しい食事をします。サンタクロースが寝ているあいだにプレゼントを持ってきてくれます。
教会の日曜学校で遊びます。聖書の勉強もします。このようなことを通うして子供の頃に見た光景は心に焼き付いて一生忘れません。
キリスト教を信じていない西洋人もこのような光景を本やテレビを通うして知っています。そしてあたかも自分も見たように心に抱くようになります。
そして西洋人が心に抱く宗教的な光景はそれだけではありません。もっと奥深い意味のある宗教的光景です。復活祭にまつわる宗教的光景です。
もとより私は正真正銘の日本人ですからこれから書くことは単なる推量に過ぎません。しかし私は毎週教会のミサに行くカトリックなので推量出来るように感じるのです。

新訳聖書の非常に重要な場面は、印象深い演劇の場面のように欧米人の心に焼き付いています。
キリスト教を信じない欧米人でも幼少の頃からさんざん見聞きした場面です。
その重要な光景は、クリスマスの楽しい光景の他に、復活祭にまつわる3つの宗教的光景です。
 次の3つです。
(1)棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面。
(2)人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死ぬ場面。
(3)墓に葬られたイエスが生き返って、弟子達の前に現れ話をする場面。
一昨日のミサは復活祭の一週間前の日曜日のミサだっのでです。その理由で上の(1)と(2)を再現しながらミサが進行しました。
まず教会の屋外に全員が集まって(1)の場面を再現しました。

1番目の写真は侍者と神父さん達が列を作って会衆の真ん中へ入って行く場面です。

2番目の場面は次の聖書朗読の後で皆が聖堂に入って行く場面です。棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面を再現した場面です。

以下は聖堂に入る前に、屋外で朗読する聖書の一部(マルコ11・1~10)です。

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝(現在は棕櫚の枝という事になっている)を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

会衆が聖堂に入った後は何時もの順序でミサが進行します。そのミサの光景を3枚の写真で示します。





ミサの式次第はいつもと同じですが、新約聖書の朗読は以下のように、ピラトの裁判の光景のマルコ福音書の15・1~39を朗読します。

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 15:30十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

以上、簡単に纏めると欧米人の心に焼き付いている光景はクリスマスにまつわる楽しい光景がまずあります。
そして復活祭にまつわる以下の3つの場面の光景があると思います。
(1)棕櫚の葉を振って多くの人々に歓迎されてイエスがエルサレムに入城する場面。
(2)人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死ぬ場面。
(3)墓に葬られたイエスが生き返って、弟子達の前に現れ話をする場面。

このように西洋人が一生心に焼き付いている光景は日本人とは非常に異なります。まずこの違いを明確に理解することが大切だと思います。そしてお互いを尊敬し、愛し合えば平和な世界になります。

今日は一例として日本人と西洋人の心に抱く宗教的光景の相違を示しました。
このような違いは日本人と韓国人ともあります。中国人ともあります。そしてイスラム教国の人々やキリスト教国の人々や仏教国の人々にも違いが厳然とあります。
この宗教的な心の中にある光景の違いをまず認識し、その違いを尊重し、愛し合えば世界が平和になると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)