以前、アメリカに住んでいた頃、アメリカ人とよく一緒にビールを飲みました。そんな折に故郷について聞いてみます。故郷はホームタウンと言って、幼少の頃住んでいた町のことです。大抵は田舎の小さな町で、高校までそこで過ごす人が多いようです。懐かしそうにしますが、その故郷には帰ったことが無いと言います。
日本人のように感傷的な想いを持って、何度も帰郷したりしません。
日本には故郷を偲ぶ童謡があり、大人になってもよく歌っています。
「兎追いし かの山、小鮒釣りし かの川。夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷。・・・」や「夕空晴れて秋風吹き、星影落ちて、鈴虫鳴く。思えば遠し故郷の空。ああ、父母いかにおわす。・・・・」という歌は日本人の心に棲みついているのです。
そして多くの日本人はこの歌と共に自分の故郷の風景を何度も思い出しているのです。
東京や大阪のような大都会で生まれ育った人が、「私には故郷が無くて淋しい。残念だ」と言います。しかし自分と縁が深かった地方の山や川の風景を故郷のイメージとして大切にしているのです。
このような民族特有の文化を持った人々はあまりいないようです。
私は日本人の故郷への美しい想いを誇りに思っています。大げさに言えばそれも私の強烈な愛国心のみなもとなのです。
皆様の故郷は何処でしょうか。そしてあなたは故郷へどのような想いを持っているでしょうか。
私の故郷は仙台です。伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
そして子供のころよく釣りをして遊んだのは向山にある沼でした。伊達政宗の霊廟のある経ケ峰やその下の広瀬川でよく遊びまわりました。
その頃一緒に遊んだ幼馴染たちは皆ちりぢりになり消えてしまったのです。亡くなった人もいます。
お霊屋下(おたまやした)の評定河原橋のそばに母一人、子一人で住んで居た色白のやさしい相沢くんは南米に移民してしまいました。
そしてお霊屋下に住んでいた萩生田啓一君も旅立ってしまいました。萩生田君は大学を卒業すると七十七銀行に入り一生そこで働いた真面目な男でした。
その同じお霊屋下にH君という金持ちの家の子がいました。大柄ですが気の弱い優しい性格の子でした。彼は中年の頃、事業に失敗して自殺したという噂を聞きました。
そのお霊下には満州から引き上げて来た羽田君も住んでいました。でもすぐに何処かへ行ってしまったのです。
それから大人のように分別のある三浦君もそのお霊下に住んでいました。しかし三浦君とは一別以来会っていません。賢い子でした。
優等生の鈴木壽君もお霊下に住んでいました。彼とは2012年の同期会で61年ぶりに会いました。感無量でした。
仙台に帰るたびに、名掛町、大町、東一番丁とゆっくり歩きます。すると私は幼馴染の面影を思い出すのです。
懐かしいその少年たちはみんな旅立ったり、はるか遠くに行ってしまってもう二度と会えないのです。仙台の町もすっかり変わってしまって私のふるさとではなくなりました。
自分一人だけが取り残された寂寥感が急に身に沁みます。
老人とは淋しいものです。悲しいものです。そんなことを考えさせる今日この頃です。
下に2011年の秋に撮った仙台の風景写真をお送りします。
一番目の写真は列車が仙台に近づいた時の田園風景です。
二番目の写真は伊達正宗の霊廟のある経ケ峰という山です。この山の左下に広がる住宅地をお霊屋下(おたまやした)という地名になっているのです。
三番目の写真はお霊屋下と評定河原を結ぶ橋の上から広瀬川と青葉城を見た風景です。真ん中に見えるテレビ塔の右側が青葉城のあった城跡です。広瀬川の左の森が伊達正宗の霊廟のある経ケ峰です。右の白い建物の見える場所は戦前に市立動物園のあった所です。戦後、公立アパートが建ちました。それが写真に写っている白い建物です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。
後藤和弘(藤山杜人)
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