中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

本陣家の厠(かわや)(旧中山道を歩く 117)

2007年09月13日 09時10分13秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(本陣、安川家住宅の門構え)

(小田井宿2)
トイレほど沢山の言い回しのあるものも少ない。
トイレット、レストルーム、お手洗い、手洗所、個室、化粧室、
便所、雪隠(せっちん)、後架(こうか)、厠(かわや)などなど。
そうだ、何かで読んだが、皇室では「およそよそ」と言うそうだ。隠語みたい。
まだ言い方があるかもしれない。
沢山あるのは、表現するのに厄介なシロモノであるからだ。

小学生の頃、将棋を覚えて、王将を隅に追い込んで詰めたところ、
「雪隠詰めかぁ」といわれて初めて「雪隠」と言う言葉を覚えた。

また、高校生になって、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んで、
飼われた猫が、ご主人がお手洗いで大きな声で謡曲か唄か忘れたが、
高歌放吟する有様を見て、後架先生と表現している。
(まさか高歌放吟の高歌と後架を洒落た訳でもないと思うが)
そこで「後架」がお手洗いであることを知った。

その猫の名前はなんと言うか知っているか?
と友人に尋ねられたことがある。
答えに詰まって「たま」とか「みけ」とか「とら」とか「しろ」とか言っていたら、
友人いわく「お前、馬鹿だな!名前はまだ無い」が正解だよと馬鹿にされた。
よほど悔しかったとみえ、後日その友人に、
「吾輩は猫である」の最後の文章はどうなっているか知っているか?と尋ねたことがある。
「吾輩は猫である」は長い小説で、途中、中だるみがあって、興味が薄れ、
なかなか最後まで読みきる人は少ないし、仮に読みきったとしても、
終わりがおわりであるだけに、馬鹿馬鹿しくて、最後を知らない人が多いのである。

今となっては、うろ覚えであるが、猫はビールを飲んで水がめに落ちて溺れて死んでしまうが、
その時、「なんまいだ、なんまいだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といったのか?
自分の人生を笑って「あっはっは、あっはっは」と笑ったのか?
あるいは、「めでたし、めでたし」と自虐の意味をこめて言ったのか?
どうも思い出せない。どれかであろう。

話がそれてしまったが、中国を旅行して助かったのが「厠」で現されているトイレ。
公衆便所やレストランのトイレなどには、
「男厠」「女厠」と書いてあって極めて判りやすい。漢字を知っている日本人が唯一ホッとする時である。

さてなんでこんな話を持ち出したかと言うと、
小田井宿にある本陣についての説明書きに次のようなものがあったからである。

(安川家住宅 本陣跡について)
(安川家は江戸時代を通じて、中山道小田井宿の本陣を勤めた。
現在その本陣の客室部を良好に残している。
客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入り側などは原形を留めており、
安川家の文書では、宝暦6年(1756)に大規模改築が行われたと記録がある。
湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)皇女和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
厠は、大用所・小用所共に二畳の畳敷きとなっている。御代田町教育委員会)とある。


(本陣の全景)

トイレ表現に大用所・小用所というのを忘れていたが、
それよりなによりも、厠がたたみ二畳敷きのつくりというのに驚いた。
まさか大用所の畳の上で用を足すなど、二三歳の子供でもあるまいし、
本当に用を足したものだろうか?と思った。
小用所にしても、小便を二畳の畳の上で用を足したものだろうか?
皇女和宮は子供のように可愛かったそうであるが、
まさかしゃがんで(ジョー)とやったわけではなかろう。

くだらない想像は膨らんでいくが、まさか大も小も畳の上でじかに用を足したとは考えにくい。
第一後を片付けるのに人が迷惑する。
大は紙を敷いてその上に用を足した?
いやいやお付の人が、用を足すまで桶を抱えて待っていた?
小用には、今と違って尿瓶など無いからやっぱり桶を使ったのだろう、
と考えるのが妥当のようである。
つまり、オマルの中に用を足したに違いない。

最近、上海へ旅をした。
バスで移動する間に、車窓から見える五階建ての建物。
田舎にしては、ずいぶん近代的なと思われる建物も、ガイドさんが説明では、
「エレベーターもなく、足ベーターで五階まで歩き、トイレも水洗どころかまだオマルで用を足している。」と言う。
オマルに入ったものの処理はどうしたのか、気になるところではあるが、それはさて置き、
どう考えても、二畳の和室内のトイレは、やっぱりオマルというのが妥当のようである。
御代田町教育委員会も罪な説明をしたものだ。
トイレのことだけでもこれだけ悩ませてくれる。

話を旧中山道に戻すと、
本陣家と同じ並びのその先に、高札場跡があり、
その前の道路わきに、御代田村道路原標が見える。
さらにその先に、上問屋跡(安川家住宅、町指定有形文化財)が残っており、
往時のたたずまいをうかがうことが出来る。


(御代田村道路原標)


(上問屋跡、火の見櫓の下に道路原標が見える)

貴重な建築物が良く保存されていて感心する。

ここでちょっと気になることがある。
それは上問屋が東京側にあることだ。
この時代、普通、江戸から京に上ると言った。
今まで旧中山道を歩いてきて、例えば、上の木戸、下の木戸と言うとき、
上の木戸は京都側にあり、下の木戸が東京側にある。
宿場にしてもそうだ。上宿、仲宿、下宿といえば、京都側から上、中、下と並んでいる。

それなのにどうしてこの宿場だけが、上問屋(東京側)下問屋(京都側)と逆なのなのであろうか?


(*)後日、「吾輩は猫である」を調べたところ、
  ラストは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがたい、ありがたい」であった。